凪いだ世界はつまらない
同窓会の招待状が届いた。
そういえば今年で、高校卒業からちょうど十年経つ。私ももう三十代に片足を突っ込んでいて、立派なおばさんになってしまった、のかな。まだ二十代だと笑われるかもしれない。
高校生のときは進路に不安もあって友達関係も不安だらけで不安定で、今思えば懐かしい子供時代だけれど、当時は本当に大変だったな。今も繋がりがある人はいない。……彼女も、来るだろうか。
彼女は、私の憧れで、いやこれはもう憧れではなく恋愛感情なのかもしれない。好きで、大好きで、だからこそ近くには行きづらくて。彼女は毎月、隣にいる人が変わっていた。私もその場所に行きたかったけれど、きっと次の月もそこにいることは叶わない。ならば、少し引いた場所で彼女を想おうと、彼女を慕い続けようと、特別仲良くすることもなかった。でも彼女は人によって態度を変える人ではなかったから、話す機会もあったし、笑い合う機会もあった。ただ、私は彼女の特別になることを恐れ、一定の距離を保ち続けた。知り合い以上友達未満でいることを選び続けた。
……だから、高校卒業と共に、彼女とのつながりも切れてしまった。
高校時代、私が知る限りで彼女に五人目の恋人ができたとき、その節操のなさに意図を聞いたことがある。そのときの答えは忘れられない。輝いた瞳で心底楽しそうに。
「変化のない日々なんて退屈でしょう?」
見惚れてしまうほど綺麗な笑顔だった。
彼女はきっと私と見ているものも生きてる世界も違うのだ。自由に、思うがまま、楽しいことだけ選んで、自分も周りも彩って、美しい場所で息をしているのだ。私のように周りに流されるだけで不満を持ってもどうすることもできずに溜めこむしかない人間とは、違うんだ。
鏡を見ると、疲れた顔をしていた。これは年のせいだろうか。それとも会社に縛られて好きなことすら忘れてしまったからだろうか。やるべきことをこなしたら、他はすべて睡眠時間にして、それでも疲れは取れず、満たされることもなく、私は高校のときから何も変わっていない。
彼女は、どうだろう。
今も弾けるような行動力で自由奔放に楽しんでいるのだろうか。あれほど迷いなく変化を求めていた彼女なら、何も変わっていないだろう。楽しい人生を送っているに違いない。そして、私も変わっていないのなら、そんな彼女に元気をもらえるはずだ。だって、高校時代の彼女を思い出すだけで、これほどまでに愛しさがこみ上げてくるのだから。
出席に丸をつけたハガキを玄関に置く。これで忘れないで出せる。日程的には少し厳しいが、どうにかしなければ。少しだけ、一時間でいい、休みが取れれば。彼女のためだ。彼女に会うためだ。高鳴る鼓動を抑えきれずに口元が緩む。ああ、こんなにも感情が動くのなんて、いつぶりだろうか。とても、楽しみだ。
ずっと浮かれていたと思う。今日までが長くて、それなのにほとんど心に残る出来事はなくて。仕事で失敗した気もするし、いつもより良くできた気もする。記憶が不明瞭だ。
でも、会場に着いた途端に現実感が戻ってきた。
彼女に、会える。
落ち着かない。髪を触ってしまう。それほどかしこまった場所ではないし、いつも通りの私服で、髪だって別に美容院でセットしたわけじゃないし、化粧もいつも通りだし、……いつもよりは時間をかけたくらいで、そこまで気にするほど崩れやすいものではないと思う。
「あれ? 久しぶり」
後ろから肩を叩かれた。心臓が跳ねたが、明らかに彼女の声ではなかった。振り返ると高校時代はよく一緒に話していた人だった。卒業後も遊ぼうねなんて連絡先を交換して、数回会っただけでそれ以降は連絡を取らなくなってしまった。
「わ、久しぶり。元気だった?」
「元気元気! 疲れた顔してるけど大丈夫?」
「……仕事忙しくてね。繁忙期だから」
「そうなんだ。結婚してないの?」
「してないよ。それどころか仕事が恋人かな」
「あはは、じゃあ女性陣は既婚と未婚半々くらいね。男たちはどうなんだろう。探ってくる!」
……嵐のような子だ。あいかわらず。
既婚と未婚が半々、か。彼女はもちろん未婚だろう。一つの場所に留まろうとしないことはよくわかっている。「変化のない日々は退屈」なのだから。
私は全く疑いもせずに、彼女を探した。
それなのに、輝いた目で未来を語る彼女の姿は見つからなかった。
来てないのだろうか。会えると思っていたのに、残念だ。
「あの子、来なかったのかな」
二次会に移動する集団の中でぽつりと呟く。隣を歩いていた子がその言葉を拾ってくれた。
「あの子……、あっ、あの子か! いたよ?」
「えっ……」
心臓が跳ねた。見つけられなかった。まさか。私があれほどまでに愛した彼女を見つけられないわけが。人数だってそんなに多くない。全員の名前と顔は一致しなかったが、一致しない中にも彼女のような美しい輝きを持っている人はいなかった。
「えー、どの子ー?」
「ほらほら、いろんな人と仲良くて特定のグループにいなかった子」
「ああ、あの子! 確かにいたね」
「あの子が一番変わったねぇ。だって、三人の子持ちなんでしょ?」
三人の、子持ち。
脳が理解を拒絶した。そんな馬鹿なことがあるわけがない。三人も子供を? 彼女が? 誰と? 一人と? ありえない。彼女がそんなことするわけがない。絶対違う。そんなこと。絶対に。
「印象全然違ったね。本当にただの主婦になってた」
「疲れた顔だったけど、充実感が滲んでたから良い家庭なんだろうって思ったよ」
「こういう同窓会に参加できるってことは子供を預かってくれる人がいるんでしょ? 恵まれてるよね」
「私も結婚したーい!」
「……だ、だんなさん、って」
声が震える。抑えられない。でも、みんなほろ酔いなのか気にされずに情報は聞き出せた。
「大学で出会ったとか」
「あまり話してくれなかったけど、大好きなんだろうねぇ。顔が優しかった」
「高校からだと考えられないくらい」
「今どこに住んでるんだっけ」
「あそこのニュータウンに一軒家らしいよ」
「お金持ち! 結婚したい!」
「あれだけ幸せそうなのを見たら確かにそう思うわ」
結婚して子供もいる。彼女が。家庭に入っている。彼女が。変化のない日々を嫌っていた、彼女が、一人の男とともに暮らしている。一人の男の子供を三人も産んでいる。何年も何年も、一人の特定の男と。頭を殴られたような衝撃が襲った。思わず口を押さえる。
「え、大丈夫? 酔った?」
かけられた声にうなずき、立ち止まる。
「歩いたら、回ったみたい、ごめん、私帰る、ね」
それからどうやって帰ってきたのか、覚えていない。
気付いたら朝で、会社に行かなければならない時間だった。
私は同窓会で彼女を見つけられなかった。悲しい。悔しい。あれほどまで彼女が好きだったのに。
後日、同窓会の写真だと、クラスの人から送られてきた画像群を見ても、わからなかった。
恥を忍んで、送り主に一人ひとりの名前を教えてもらった。
そうしてもらって、やっと、私は彼女を認識できた。
もう彼女は私の知っている宝石ではなくなってしまっていた。道端に転がっていても誰も気に留めないような、ただの石ころと同じような、平凡な、つまらない、変化のない、退屈な、彼女があれほど嫌っていた形容詞に当てはまった何かに成り果てていた。
あれほどまでに美しく輝いた太陽のような存在だったのに。
彼女が家庭になんて入るわけがない。彼女が一人の男と長年暮らせるわけがない。彼女が子育てなんてするはずがない。彼女が主婦になんてなるはずがない。強要されているとしか思えない。
そうだ、きっとDVの被害を受けているに違いない。彼女は助けを求めて同窓会に来たんだ。ずっと監視されているから直接は言えないんだ。
よかった、気づけて。よかった、私だけでも気づけて。よかった、これで彼女を取り戻せる。
彼女の輝きを奪うなんて許せない。彼女には自由が似合う。美しく木々を舞う小鳥を、自分だけの都合で檻に閉じ込めるなんて、どんな極悪人なのだろう。待ってて。いま、助けるから。そんな必要のない存在に縛られて彼女らしく生きられないなんて間違っている。解放しなければ。
彼女の今の住所はわからないけれど、家を買ったという情報は同窓会で得た。あそこのニュータウンなら、買い物する場所はひとつだけだ。大型スーパーに張り込んで彼女を待つ。数日後、彼女は一人ではなく子供と買い物に来た。
買い物ですらも自由にさせてもらえないなんて! 監視付きだなんて!
もう少しの辛抱だ。必ず、元の暮らしに戻すから。自由に羽ばたかせるから。
彼女を尾行して現住所を知る。裏口に鍵をかけていないことも、悪人どもの行動パターンも張り込んで知る。会社は辞めた。彼女を救うことが最優先で、そのほかのことはどうでもよかった。会社なんてものに縛られていたら手遅れになるかもしれない。これは一刻を争う。早くやらなければならなかった。
月に一度、彼女が一人で外出するときがある。決まって第三週の土曜日で、帰りはいつも深夜だ。だから、次の土曜日こそが好機だ。逃さない。
午後七時を少し過ぎた。チャイムを鳴らす。人の好さそうな顔をした男が、何の迷いもなくドアを開ける。素早く刃物を突き刺す。男がよろめいて後ろに下がる。男が現状を理解するよりも先に喉元に二つ目の刃物を、
我に返ったときは血の海だった。小さな肉塊が三つ。テーブルにはガスコンロと鍋。蓋が動いていて、どうやら食べごろのようだ。いいにおいがしてもいいのに、血のにおいしか感じない。彼女を縛り付ける悪のくせに、人間と同じような血が流れているなんて、失礼にもほどがある。苛立ちと共に一番小さな肉塊を蹴り飛ばした。
これで、彼女は自由だ。縛り付けるものなんてなにもない。前のような、天真爛漫な彼女に戻れる。そんな彼女がとても好きなのだ。連絡がなくてもいい、こちらを認識しなくてもいい、ただ、彼女が輝いていれば、それで。
悪は滅びた。彼女も解放された。これで彼女は幸せになれる!
私はどうなってもいい。持っていた刃物を落とし、高らかに笑う。これほどまでの達成感はいつ以来だろう。予備として持っていた刃物も取り出して投げ捨てる。楽しい、嬉しい、幸せ、言い尽くせないくらいの充足感。彼女の人生に干渉した確かな一幕。刃物は家から持ってきたものだが、これを見て彼女が私のことを察せはしないだろう。それでも、ここに証を残していきたかった。
晴れ晴れとした気持ちで悪党の住処を後にする。
目撃されたところで何も困らなかったが、なぜか、誰に会うわけでもなく家に着いた。
神様も、彼女を救った私の味方に違いない!
ああ、幸せだ。彼女も幸福だろうか?
そうに違いない、確信を持った声が囁くのを感じながら、その日は眠りに落ちた。
翌日、新聞記事に目を疑った。「五人家族、一家心中か」という見出し。彼女の名前。死亡の文字。
なぜ。それほどまでに洗脳が強かったのだろうか。彼女を監視するべきだった。突然の自由は大きすぎたのだ。触れられない期間が長すぎて、彼女の体は耐えられないほど衰弱していたのだ。潰されてしまった。
私が彼女を殺してしまった。長い期間籠に入れられた鳥を、すぐに空へと放つべきではなかった。少しずつ外界に慣らさなければならなかったのに。環境変化耐えきれずに死んでしまった。せっかく、せっかく悪人どもを懲らしめたのに、これじゃ、意味がない。意味がないんだ。彼女がいない、こんな世界は、意味が