第一話 終幕
「うわー、やっばいねぇ」
八咫烏は実に嬉しそうに言った。
足元には短冊状の紙で覆われつくした二メートル代の物体。
目の前には巨大なモニター、そして両側には完全に気を失った有姫と加奈子の姿がある。
「ちなみにボクがやったことだぜ! 発狂されても困るしね!」
八咫烏は虚空に向かって横ピースまで交えて言った。
ちなみに部屋には他に誰もいない。
と、思いきや突如空間が虹色の光を発して歪み、一人の女性が姿を現した。
「おや、いつ私が潜んでいると分かりました?」
「最初から。ボクが頑丈に対策をしたのにこのアホが入ってこれるとなればあんたぐらいしか手伝った奴はいないからね」
「成程。次は慎重にしますわ」
女性はそう言って上品に微笑んだ。
身の丈は百六十程で、すらりとしながらも女性的な丸みを帯びた輪郭はひどく扇情的で見るものを引き付ける。服装は黒と白で編まれた一般に『メイド服』などと呼称される制服の一種で楚々とした動作に非常にかみ合っている。
顔は実に大人びた、細面で色白の美貌を持っており不思議なことに瞳が虹色に煌々と輝いていた。
彼女は未確認存在No.05[countless presences(無明の虹)]。
どこにでもいつでも何度でも現れるいまだ謎の多い未確認存在である。
「それと今回の騒動の原因もあんただろ」
「そんな滅相もない」
「嘘つけ。一際強力な怨霊を解き放ってボクらの戦力を分散、ついては第壱号ー―大神を開放する気だったんだろ? 当てが外れて残念だったね。ボクはここから動く気はねーぜ」
「いえいえ、今回は何もしていませんのよ」
「馬鹿言え。あんたとボクのクッションになってる馬鹿がどれだけ帝國で騒動を起こしたと思ってんだ。信じられないね」
「本当ですよ。兄上に誓って」
彼女の言う兄上とは第壱号のことである。
ちなみに機関ではまだ彼女と彼の関係性は解明出来ていないので暫定的に同じ種類の存在であるのだろうと考えられている。
「ふうん? マジで?」
「はい。まじです」
「じゃあ誰がやったんだい?」
「さあ? 存じ上げませんわ」
「あっそ。じゃ、悪いけど晃守さんの加勢に行ってくれよ」
「お断りです。貴女が行けば宜しいのでは? 今回どう対処すればいいか貴女には分かっているでしょうに」
「まーね。でもここから動いたらあんたが動いて大神が動いて世界は破滅だ」
「ご名答」
「だから行かない。それにね――」
八咫烏の首に巻いた牙をかたどった装飾品が涼しげな音を立てた。
「もう助けは間に合ってるよ」
*
「夜分遅くに御機嫌よう。私は少々驚愕しますよ。目の前の情景に。一体何をしていたのでしょうかね」
晃守の黒い胴体が半分まで削られた頃、そんな鈴のなるように美しくよく通る声が水を差した。
年の頃は十代後半から二十代前半といったところか――見目麗しい女性であった。鈴蘭柄の濃紫の雅やかな着物にぱっと咲くような朱の帯。仰々しくもどこか滑稽な鬼の帯留めをそこにあしらっている。
表情の一切見受けられぬながらも恐ろしく整った顔にかかる髪は肩口で涼しげに揃えられ、左側だけ耳を出しているのが妙に艶やかだ。
右手には白い匕首。左には巨大な棺桶。
美しかれどもその雰囲気、只者ではない。
「何者か」
真っ赤な触手を束ね、まるで巫女装束のようなシルエットの体を揺らして生首が問うた。
「私は名を木更津緋花と申します。なんてことはない一介の人ならぬ者。好奇心旺盛な愚か者には第参号などと呼ばれていますね」
「ふむ、この黒いのの仲間か」
「伴侶とも言えます」
「ならば、共に死ぬが良い」
緋花がいる頭上に首のない馬が影を差すかのように出現した。
首元からは所狭しと赤黒い蛇のような紐がのた打ち回り、緋花もろとも辺りの物体を削り取った。
されど緋花はそこにはいなかった。
「おや晃守。これはまた手酷くやられましたね」
彼女の特異な能力の一つに音よりも速く動くというものがある。
それで彼女は晃守のすぐ横に移動していた。
『ああ、三分の二を持って行かれた。かなり危険な状態だ』
「それはそれは……なんとまあ」
『返事が適当過ぎやしないか』
「おや、半身しか残っていない癖に意外と随分元気ではないですか。結構結構」
緋花はそう言って晃守ののっぺりとした頭を踏みつけた。
度重なる損傷により密度も薄くなっていた彼の頭は紙風船の如く実に簡単にひん曲がった。
『何をする』
「黙りなさい」
その上踏みにじった。
そして黒塗りになった下駄をそのまま脱ぎ、もう片方の下駄も宙に放って頭に乗せた。
「これこの通り、頭を垂れて謝罪しますのでどうかご容赦を」
そして緋花は見事な所作で頭を下げた。
意外にも夜行はそれを静かに見つめていた。
「ついでに貴方の欠けた部位も持ってきましたのでこれでどうにか穏便に」
緋花はそう言って棺桶を投げ渡した。
蓋はその際に外れ、中には人間のものと思われる骨と馬の頭骨が転がっていた。
骨は褐色じみていて肉は一つも残っていないところから見ると死んでからかなりの時間が経っているものだろう。
「どこからこれを持ってきた」
「どこそこからかっぱらって来ました。中々骨が折れましたよ――と言いましてもそれに損傷はないので悪しからず」
夜行は睨むように緋花をじっと見つめて、そして笑った。
「何者かは知らんがでかしたぞ! よくぞ我が体を見つけ出してくれた」
夜行は血の根を伸ばして体を取戻し、更にはそれに肉すらも絡んで完全な人型を成した。
馬のほうも同様で、気味の悪い首なしの姿からどこにでもいるようなただの馬のような見た目になっている。
「そうだ。我はやられたことは数倍にして返さねばならん。故に何か願いを叶えてやろう。大抵のことはしてやれるぞ」
「ではこの黒いのを見逃して、そして元の場所に帰っては貰えませんか」
「うむ。それでいいのならばそうしよう」
夜行は頷いて傍に出現した馬に乗りこみ、闇に溶け込むようにして姿を消した。
それまで起こした騒動とは打って変わって呆気ない去り方であった。
残されたのは爆弾を落とされたと錯覚するほど壊滅的な被害を負った一区画、五人の死体、燃え盛る車の残骸に黒い男の上半身。
そして溜息を吐く緋花の姿であった。
「貴方と言う人はまったく……どれだけ私に苦労を掛ければ気が済むのですか」
『すまない』
「言いましたよね。未確認存在もものによっては装置じみたものであるのだから力任せに動くな、と」
『ああ、そうだな』
「ほう。では今回のことはどう説明するのですか?」
緋花は赤い鼻緒の下駄で再び強かに晃守の頭を踏みつけた。
ついでにもう一度ぐりぐりと踏みにじる。
「どう見ても力任せに突っ込んだ挙句返り討ちにされたようにしか見えませんよ」
『返す言葉もないが、踏まないでくれないかね。体積がこれ以上減ると流石にまずい』
「さっさと回復なさい」
『そんな簡単に戻れたら苦労はしない。戻るには何かを侵食するかせんと即座にはならん』
「ならその辺に死体が転がっていましたからそれでも食らいなさい」
『気が引けるな』
「どうせクローンです。代わりは幾らでもいますし死んで悲しむものもない。弔う必要すらないのですからただの肉だと思って食いなさい」
『……まぁ放っておいても機関が始末するだけだしな』
晃守の切断面から二、三の触手が伸びた。
それはM博士らの無惨極まる死体を見つけると嬉しそうに飛びつき、焼けるような音を立てながら真黒く侵食し遂には飲み込んだ。
当初と比べて実に太くなった触手は晃守の元へと戻ると複雑に伸び縮みし、結果として彼は元通りの欠損ない完全な肉体を取り戻した。
『あまり好い気はしないな』
つるりと黒いゆで卵のような頭が呟いた。
緋花はそれを思いっきり平手で叩き付け「不気味です。元に戻りなさい」と冷たく言い放った。
「分かったよ」晃守の表面が流れ落ちた。
煮詰めた墨汁さながらにどろどろと粘ってどす黒いそれは晃守の表面をゆっくりと下って行き彼の影に落ちて消えた。
「で、帰らないか?」
「蹴りますよ?」実際もうすでに蹴っていた。
晃守はたまらず体を折った。
「……くぬっ、何故蹴った!」
「身の程を教えてやる為です」
「あの状態ならば蹴りなど効かんさ」
「マッハ二十くらいで蹴ってもですか?」
「それを食らったら多分私は弾けるな」
たじろぐ晃守を横目に、緋花はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「貴方と言う人はまったく……私がいなかったら今頃ヘドロ同然になっていたでしょうによくもまぁ大口が叩けるものです」
「何をいうか。まだ切り札はあったさ」
「帝國を沈める可能性があるものを切り札と呼びますか。というかそれを使っていいなら大神を落とした方がよほど早いでしょうに」
「だが状況的に言ってあれが最善の手だった。私がもたもたしていては次の被害が出ていたし、それに何の対策も取らないのでは機関の沽券に関わる」
緋花はまたもや溜息を一つ、晃守を睨んだ。
「な、何だね?」
「何か勘違いしているのではありませんか」
「どういうことだ」
「貴方はもはや人間ではありません。どころか生物ですらない。機関にとって大切な戦力なのではなく貴重な検体であるのです。にも関わらず貴方は未だに帝國臣民として、人間として振る舞おうとしていますが、しかしもう誰も貴方を人間扱いなどしてくれないのですよ」
緋花の言葉は静かで冷たく、また言い聞かせるようにゆっくりとしていてそれは晃守の胸に深く深く突き刺さった。
「貴方は確かに昔、人間でありました。人間として人間から生まれ、人間として育てられた。しかしもはや違います。貴方はもう人間ではないのです。帝國に帰順する意味もなく機関に従う義理もないのですよ」
緋花の言葉は一見辛辣だ。
されど晃守にはその真意はよく伝わった。
彼女はただ晃守に『自分の身を大切にしろ』と言いたいだけなのだ。
「分かったよ。次からはうまくやる」
「うまくやる、じゃありません」
ぱしりと緋花は軽やかに平手を打った。
「反省しなさい。そして三十年くらい引き籠りなさい。何でしたら私もお供しますよ」
「魅力的な申し出だが遠慮しよう。私は人だ。何もせずに生きるぐらいならば危険を冒して人を助ける道を選ぶ」
「その中に私や貴方も入っていることを望みます」
ふと、晃守が顔を上げると沈んだように黒かった空は薄明りが雲を霞める早朝の様を呈していた。
晃守には奥に見える朝日の中に何か人のような影が映ったような気がした。
目を凝らすと何も見えなかった。
気のせいか、はたまた将来の脅威の影か。
それはこの時点の晃守には分からないことであった。