第三十一話
ぱりん――
皿が割れたような音だった。
でも本当は、もっともっと大きなものが壊れた音。
誰かの心が壊れた音。
友達が、いなくなった音。
また、駄目だった。
せっかく、助けられたと思ったのに。
結局、駄目だった。
何より、一番最初に思うことが、これなのか。
『また、駄目だった』――この言葉はつまり、友人が死んでしまったことを、もう受け入れている証拠ではないか。
どうして、否定できないのか。
たとえ、どんなに駄々をこねたって、叶わないとしても。
どうして、認めてしまうのか。
こんなにも、受け入れ難いことであっても、あっさりと。
心が、無いからなのか。
――ワタシノ――ココロッテ、何? ソレハ、ドコニアルノ?
その問いかけには、頭の中の声が答えた。
――『今は考えないで。瞳を閉じなさい。“なかったこと”にはできないけれど、せめて憂いは晴らしてあげる』――
――憂イ?
――『何もかもを受け入れるだけでは、辛いでしょう?』――
――ウン……
――『だから、私が代わってあげる。今はまだ、貴女にはできないかもしれないけれど、私がいるから。貴女が“否定”の意志を外に示す、そのときまで』――
――本当ニ、代ワッテクレル?
――『大丈夫よ。ほんのちょっとの間、入れ替わるだけだから。さあ、瞳を閉じなさい』――
――ワカッタ
――『心配しなくていい。私は貴女だから。だから、今は休んでいなさい』――
声に導かれ、アリアムはルビーの瞳を閉じた。
「終わったわヨ」
ルフカロォは、いかにも不満ですという顔で、イニアに告げた。
「そうか。では、帰るぞ」
ゼピュロスと睨み合いを続けたまま、一歩退く。
それを追おうとはせず、ゼピュロスは疑問だけを口にする。
「今日までのテロは、お前たちが?」
「否。ナタスには言ったが、テロ行為は末端の人間の仕業だ。すでに犯人は見つけ出し、厳罰に処している。また、二度とこのようなことがないようにすることも誓おう」
「ホ、期待はせずにおるわい。コロラーレは、そうそう簡単に躾が行き届く組織だとは思えんからの」
「フ……それは、裏切らせてもらおうぞ」
イニアがさらに一歩下がり、そして踵を返す。
ルフカロォも、振り返りながらこちらに目を向け、
「また一緒に遊びましょうね、お嬢さん。それまで、壊れちゃイ・ヤ・ヨ?」
言って、法衣を翻す。
だが、
「待ちなさい。貴女は逃がさないわ……」
黒い穴――自らの魔法で、それを阻んだ。
「っ!?」
穴は桜色の粒子を放ちながら周囲の物を吸い込み、ルフカロォに迫る。躱そうと身を翻すが、周囲のものと共に穴に引っ張られる体は、満足に動かすことができなかった。
そして黒穴は最後に、まるで狙い澄ましたかのようにルフカロォの左耳を呑み込んだ。
「キャアアアアア!!」
“左耳があった場所”を抑えながら、ルフカロォが叫んだ。
それを嘲るように、静かな抑揚のない声で語りかける。
「これで、ようやくわかり易くなったわ。私の友達を殺した人が」
「く、アンタ――」
ルフカロォが、向き直る。
と、表情が変わった。大部分は怒りに駆られたままだったが、ごく一部に疑惑の線が見える。
案の定、あの問いが投げられた。
「……? アンタ、誰?」
ルフカロォの疑問も当然である。なにしろ今、彼女の目の前には先程までの少女――と同じ姿の別人としか言いようのない人物が立っているのだから。
容姿、格好は全く同じ。ただ、瞳の色がくすんだガーネットに変わっていて、纏う雰囲気も全く異なっていた。
身に付けている黒の着衣が、その静謐さと相まって異様なまでに不気味に見える。
そう――
今、ルフカロォが目にしている人物こそ、アリアム=スクリッドの中に在る“否定”の感情を司る、“もう一人のアリアム”。
彼女は、全てを受け入れる“許容”の裏人格。
すなわち、“拒絶を体現する者”――なのである。
「さあ?」
もう一人のアリアムは、口元だけを曲げた作り笑いを浮かべながら小首を傾げて、冷たい瞳を向けた。
問いかけに対し、答えを与えることはできない。“教える”ことは、自らの存在意義に含まれていないから。
自分は“拒絶”の存在。故に問いを“受け入れる”ことはできない。それが自分だ。
本当は教えられないまでも言いようはあるのだが、そんなことをしてやるつもりはなかった。
魔導師とは、知的探究心の塊のような存在。そういった意味では、使い方こそ違えども科学の研究者と同じ。疑問があれば、それを突き詰め解明することは、自らの力量を示す材料であり、至福の瞬間でもある。
だから必要最低限、いや、それ以下の言葉だけで返し、その神経を逆撫でするように挑発する。簡単には教えない、知りたければ自分で何とかしてみろ、と。
「いい度胸じゃなイ? それに左耳なんて、なんて皮肉カシラね!!」
「本当、皮肉なものね。でもいいじゃない。右が残っているんだから」
実際、探究心が強いということは、この“消滅”の魔法を解明されてしまう恐れがあるということでもある。この魔法とて、理論に基づいて展開されているもの。そこに辿り着かれれば、打ち破られる可能性もないとは言えない。あくまでも、万が一の話ではあるが。
だが可能性がある以上、それは排除すべきである。
だから、時間はかけない。一瞬で終わらせる。
「実を言うと、その顔を消してやろうと思っていたのよ」
挑発を繰り返す。
逆上しろ。冷静さを失った者ほど制しやすいものはないのだから。
「貴女みたいな下衆が、私の友達と同じ顔をしているなんて、耐えられないもの……」
嘲りをたっぷりと含ませた口調と、感情を“表せない”作り物の表情が効果的だったらしい。見る間にルフカロォに額に青筋が立っていく。
事実、その視線と言葉に、ルフカロォの怒りは頂点に達していた。震える声が、オクターブ下がる。
「ハ、言ってくれるわネ……」
乗ってきた。
アリアムも、姿勢を全く変えずに反撃――“消滅”の魔法を用意する。
これでいい。ルフカロォの繰り出す全てを消し去って、あいつにも“アリアム”の味わった無力さを思い知らせてやる。
その上で、自分を呼び覚ましたことを、 “アリアム”を悲しませたこと悔いろ。
そして――消えろ。
「殺ス!」
ルフカロォが再び腕を振り上げた。
様子を見ていたゼピュロスが、それに反応する。
アリアムは動かず、しかし小さな黒い穴を正面に発生させる。
逆巻く蒼い水飛沫。
輝きを増す緑の本。
光をも呑む黒い穴。
それらが、同時に次の動きを見せようとしたまさにそのとき、白銀の剣が間に入り、紅蓮の炎が、全てを焼き払った。
「二人ともやめろ。大人しく退くと言っているのだから、放っておけばいいだろう」
剣を掲げるナタスはボロボロになりながらも、しかしいつの間にか傷は消えていた。衣服だけがそれを示すようにあちらこちらに穴を開け、肌を露出させている。
ナタスの姿を見たゼピュロスは、溜め息を吐きつつ本を閉じる。
「ナタス……」
アリアムもどこか寂しそうに呟くと、瞳を伏せて黒穴を消した。
やっぱり、そうなんだ――。
自分の胸の中で、自分の胸に、そう呟いた。
「お爺様、邪魔しないでと言ったでしょウ!? 邪魔をするなら、お爺様でも許さなイと!!」
「止さんか、馬鹿者が! 戯れが過ぎるから、そういうことになるのだ。いい加減、自らを律することを覚えい!」
「く……」
ルフカロォもイニアに制され水を鎮めたが、息は荒げたままだった。大きく息を一呑みし、ルフカロォは少女への言葉に殺意を乗せる。
「イイ? アンタは、私が殺ス。必ず私が、斬って、叩いて、裂いて千切って潰して、粉々のバラバラにしてあげル!!」
「……」
アリアムは俯いたままの沈黙で答えた。
「っ!! 絶対に、殺してやル……覚えておきなさイ!!」
霧が集まる。
絶叫を残響に、イニアとルフカロォの姿が霧の中に霞んで消えた。
そうして、“紅の王”と“紺碧の賢者”は嘘のように、あまりにもあっさりと去っていった。
ぽつり、ぽつり――雨が降り始めた。
幕の下りるように、帳が広がっていく。
空気は冷たく、息が色付いていた。
ここは、小高い丘陵。平地よりも、季節は一足早い。
深夜には、雪になるかもしれない。
そうすれば、全てが覆われるのだろう。
真っ白に染め上げられるのだろう。
まるで、何事もなかったかのように、何事も。
ざあ、ざあ、ざあ――。
全身が濡れる。
足も、腕も、胸も、髪も、頬も。
とても、冷たい。
でも、もう少し濡れていたい。
だって、
一箇所だけ、温かいところがあったから。
それが、本当に温かいものだと、わかるから。
だから、もう少しだけ傍にいさせてください。
友達のわがままだと思って、許してください。
誰も、何も言わない。
ただ、それぞれの場所に立ち尽くしている。
中央に横たわる、一人の女性の姿を、見つめながら。
その心の行く先を、思いながら。
ざあ、ざあ、ざあ――。
雨だけが大声で泣いていた。