第十三話
じわり。
屍が一歩、踏み出す。ぼんやりと赤い陽炎が、波のように揺らぐ。
人型の屍を波頭に、円は小波の如く、緩やかに穏やかにその半径を縮めていく。人型が一歩前に出れば、それを追うようにオオカミとサルとカラスもわずか前に出て、また輪を狭める。
その歩みに合わせるように、霧の如き氷雨が少しずつ密度を高め、屍の光を受けてぼんやりと視界を赤く濁らせていた。
血の滲むシルクのカーテンを思わせるそれは、身体に接しては瞬時に衣に張り付き、肌に触れてはすぐに気化して体温を奪っていく。
「アリアム」
「…… はい」
この嵐の前兆と呼ぶに相応しい静けさの中、ナタスが問い掛けた。彼はほんのわずかな間を置いて、息を次ぐ。
「君のことだ、気は引けると思うが…… “覚悟”はいいな?」
“覚悟”――それは目の前にいるのが、魔法生物であるということ。
それに魂はなく、ただ他者に辱められているだけであるということ。
それを死の冒涜から解放するには、強い衝撃を与える必要があること。
つまり、ナタスは『死体に鞭を打て』と言っているのである。いかに解放のためとはいえ、普通の人間ならばそこに背徳感を感じざるを得ない。
その“覚悟”の意味するところを悟り、アリアムは一瞬だけ、瞳を閉じる。
彼らは、もうこの世に亡い。それなのに、彼らだったものが、他者の“道具”とされている。それがもし、自分だったなら――自分の身体を、他人の意志で動かされるとしたならば、それは絶対に拒絶したい、そう思う。
だから――
「はい!」
「よし」
アリアムは力強く頷き、ナタスがそれに応えた。
二人は顔を合わせることなく確認し合うと、ナタスは右足を半歩引き、アリアムは杖を前方に振りかざして、音もなく闘いに備える。
一陣の風が、吹き抜けた。
それを合図に、小波は怒涛となって押し寄せる。
ギィと、鉄扉の軋むような音を引き連れて、樹上から黒いカラスの群れがアリアムに襲い掛かった。
「てっ――」
その波の先端、腹に骨を見せるサルが二匹、突出してくるのを捉えると、アリアムは鋭く杖を突いて一匹を迎撃する。
姿勢そのまま上体を反らしつつ、カラスの波をかわして半回転、背中越しに杖を振る。手応えあり。
ボキリという音を立てて、群れから“羽付人形”が一羽、地に落ちた。
「――や!」
返す反動を利用して、アリアムは片足からもう一方へ体重を移し変える。腰を通して力を流し、そして己の非力さを重さで補う、全体重を乗せた一撃を斜め下に繰り出して、すぐ脇まで迫ってきていた二匹目のサルを穿つ。
自分の何倍もの質量による圧力を杖の一端から受けて、サルは胸に一つの溝を開けながら、座り込むような姿勢で屍に戻っていった。
「シッ……!」
ナタスはアリアムとの距離を測りながら、最小の動きで嘴を回避する。その黒い槍衾が傍らを過ぎるのを確かめつつ、灰色の瞳に“四足”の人形を映す。
牙を剥き、突進をかけるオオカミ。それが自分の間合いに入るタイミングに合わせて、ナタスは右足を大きく薙ぎ払った。
接触は一瞬。抵抗は皆無。
オオカミの下顎は達磨落しの胴の如く、真横に吹き飛ばされた。
留まることのない、流れるような澄んだ体技は紡がれ続ける。ナタスは振り抜いた足を地につけると、即座に蹴足と軸足を入れ替えて、続けざまに迫るオオカミ本体を後ろに回し蹴る。
人間の想像の瞳にだけ見える、美しい残像――その軌跡が優美な弧を描き切った頃、結わえられた糸に引かれるように、主に先立ち吹き飛ばされた顎を追って、オオカミの躯も弾け飛ぶ。
それは樹に激突すると、腐食した肉片を撒き散らしてボトリと落ちた。
「うわわわ!」
と、その崩れたオオカミが根元に横たわる樹の上で、叫び声が上がった。ばさばさと音を立てて、白黒の塊が落下してくる。
それは坂を転がるゴム鞠のように、白と黒の上下を目まぐるしく入れ替えていた。
やがてゴム鞠は黒い方を上向きにして動きを止めると、セレスが組み伏せられるようにサルと揉み合いながら倒れ込んで、喉下に迫る牙をもがいて避けている姿が視界に映り込んだ。
「セレス!」
「!」
その姿を見たアリアムは、脇目も振らずにセレスの下へと駆け出した。彼女を囲むように、屍が群がる。
だがナタスがそれを許さない。彼はアリアムの後を追い、あるいは先駆けて、殺界に入ってくるモノたちを叩き落しながら、黒い群れを弾き飛ばし、アリアムの道を守る。
結界に守られるようにしてアリアムはセレスの下へ辿り着くと、両者の間に杖を差し入れて、振り上げるようにサルだけを投げ飛ばした。
それもやはり樹にぶつかると、電気を流したときのように一瞬だけビクンと跳ねて、すぐに動かなくなった。
「セレス、大丈夫?」
「うへぇ…… 臭いッス……」
アリアムの呼びかけに、セレスは立ち上がりながら応える。
危機から脱したばかりにも関わらず、彼は眉を顰めながら冗談のように一言、それから、照れ臭そうに「ありがとう」と付け足した。
どうやら心配はないようだ。
アリアムがほっと息を吐いた――
「よかった…… って、わ!!」
――のも束の間、つんざくような音を立ててカラスの怒涛が霧雨の帳を切り裂き、すぐ脇を通過していった。怖気を誘う無数の羽音を、セレスと共に地面に飛び込む格好でなんとか回避する。
そのまま身体を丸めて肩から着地、横向きのベクトルを縦の回転運動に変えて受身を取る――その途中で、頬に冷たさを感じて、さっと手で拭い取る。
雨で地面が泥と化していたのだろう。見るとセレスも、全身を泥で汚して真っ黒になっていた。後で洗ってあげなくちゃ、などと、我ながら暢気だなと思える感想が頭に浮ぶ。
「二人とも無事か!?」
ほんの少し離れた場所では、ナタスがオオカミを地に伏せていた。その腹に蹴りを加えて活動を停止させると、彼は叫びながらアリアムたちのところへ走ってくる。
滑空するカラスを振り払いつつ合流してきたナタスと背中を合わせ、アリアムは前を見据えたまま冗談を一つ、投げかけた。
心配は要らない、という意味を込めて、くすりと笑ってもみせる。
「服、汚れちゃいますよ」
「この雨だ、どうせ帰ったら洗濯せざるを得なくなるさ。……思ったより余裕そうだな。それなら、あと半分――いや三分の一ぐらいなら任せられるな」
「できるなら、逃げ出したいですが」
それを受けて、ナタスもくすりと笑んで応えた。やはり、背中越しに。
「そういうわけにもいかないだろう。こちら側は任せておけ。後ろは見なくていい」
そう言って、ナタスは左腕にはめられた銀の腕輪を握り、両手を左腰に添えた。すると腕輪は光を発し、細長い筋を彼の背後に伸ばす。
そして、ナタスはその“光の鞘”から白銀の剣を抜き放った。
“細雪”――ナタスの持つ、唯一にして最強の魔剣。刀身は二メートルにもなろうかという、長い刀。拵えには飾り気がないのに、刃が異様なほどに妖艶かつ美麗な輝きを放っているため、それを感じさせることはない。
見る者の心を奪い、一瞬の閃光の内に命を屠る、死の魔剣。
しかし、この場には奪われてしまう心を、命を持った“モノ”など、存在しなかった。
機械じかけのように単調に、屍の人形は突撃する。少しずつ仲間が失われていくこともお構いなしに、魔法生物たちはただ攻撃をしかける。
上空から、カラスが三羽。側面からオオカミが一頭。樹上からサルが数匹。群れを為して少年に向かう。
が、その突撃の切っ先は、傍から見れば悠然とも思える、柔らかな動きの中に乱れ散った。
背中合わせのままの、しかし、まるで踊っているかのような、円を基調とした優雅な動き。
「っ!」
攻撃を察知して、回るようにナタスと身体を入れ替えるアリアム。その少女の振るう杖が先頭の爪を横薙ぎに払った。
彼女の長くしなやかな髪が、穏やかに宙を舞う。
続けて袈裟に振られる一撃で左にいた一羽が落ち、上体を倒すようにして最後の嘴も回避され、それが少年の背中に届く前に、立ち上がる杖に胴を殴打されて、カラスは土に還る。
ナタスもそのアリアムの動きに合わせて身体を回転させると、刃ではなく柄で側面を穿った。後を追う直状の銀が、流星のように煌めく。
迫った牙はその流星に折られて空を舞い、オオカミは半ば放り投げられたように後退した。
「はあっ!!」
ナタスはさらに返す刀で、サルを脳天から両断する。
二つに分かれた躯が、血の代わりに爛れた肉片を降らせ、パタパタと地を叩いて二人のダンスを囃していた。
――くそ……
乾いた音を響かせる喝采の中、ナタスは胸中の苛立ちを唾液と共に吐き捨てる。どこか無差別な“殺し”をしているようで、腸が熱い。
その熱さを抱えたまま、二つで一つだった躯が泥に塗れるよりも速く、ナタスは大きく一歩を踏み出す。剣を小さく振って滞空するカラスを二羽、切り払うと、群れに向かって腕を向け、指を鳴らす構えを取った。
「まとめて焼き払ってやる」
指を弾くことで――正確には爪を擦り合わせる際の摩擦熱で体内の燐に着火させ、同時に空気中の水分を分解して得た水素と酸素を燃料として爆発を起こす炎の魔法、その布石である。
だが、
「マスター! いけませんわ、こんなところで炎の魔法を使ったら」
ディアナの叫びによって、炎の顕現は阻まれた。
霧雨が降っているとはいえ、ここは枯れ葉の積もる森の中。朽ちて乾いた樹もそこかしこに立っている。こんな場所で炎を出せば、山火事になることは間違いない。
本当に“まとめて焼き払う”ことになってしまうだろう。そうなれば、自分たちの身も危うい。
「ち……」
ナタスは鳴らしかけた指を止め、代わりに舌を鳴らす。
それが彼にとっての一瞬の隙、あるいは油断となった。差し出された腕に向かい、オオカミが牙を剥いて飛び掛る。
開かれる顎。くすむ牙。吊るされた餌の肉に喰らいつくかのように、オオカミは一直線にナタスの腕に突進する。
「ちっ! これなら――」
しかし、ナタスは再度舌を打ち、構わず拳を入れて噛み付かせ、
「――どうだ!」
顎の中で指を弾いた。
パチンという軽い音。その後に続く、バガンという太い音。
さながら、明暗に輝く花火のようだ。
轟音と共に、オオカミの頭は跡形もなく消し飛ばされる。
消炭色の欠片に混じり、霞のような銀朱も周囲に飛び散っていた。
「ナタスさん!」
ナタスが拳を噛まれ、出血しているのを見るや、アリアムはナタスに向かって駆け出す。
それを阻むようにカラスの群れ。杖を振りながらカラスに牽制をかける。
――ギィ!
「っ……!?」
と、その振っていた杖の上に突如サルが着地してきた。破れた喉の奥に風を響かせ、腕を振り上げる。
突然の、予期せぬ至近からの反撃に対応しきれず、アリアムは攻撃を受けることを覚悟する。
「させませんわ」
しかし、その爪の軌道は不意にアリアムの眼前で真横に逸れた。
代わりに視界に入ってくる黒い猫。
見れば、ディアナはそのサルの片腕を、狩り取った獲物のように咥えていた。噛み付き、逆に千切り取っていたのである。
腕をもがれたサルは、ディアナの突進の勢いに耐え切れず、バランスを崩して杖から転げ落ちていた。倒れ込む躯に追撃をかけ、アリアムはサルを沈黙させる。
「怪我はありませんか、アリアムさん?」
ディアナが金色の目を輝かせながら、問い掛けてくる。その向こうではナタスが二羽、セレスが一羽のカラスを仕留めていた。
「ありがとう、大丈夫。それよりナタスさんが……」
「問題ない」
その声に応えるように、ナタスが刀を水平に構えて、脇をすれ違った。
鋭い刺突でアリアムの背後にいたカラスの腹をぶち抜いて、血振りをするように乱暴に刺さったモノを払う。重りがなくなると、刃を背負うように頭上で柄を握り直して、片手で斜め下に構えを直す。
そうして空いた左手をアリアムに見せつけるように鋭く振ると、わずかな血が地面に飛んで、顕わになる掌には――傷がなかった。
「問題ない」
改めて言う。
確かに、問題はなさそうだ。だが、出血していたのに傷がない、というのはどういうことだろうか。
アリアムはそう疑問を投げかけようとして、
「それより」
と、ナタスに制された。
「かなりの数が残っているが…… まだ大丈夫か?」
彼の睨みつけるような視線の先には、上下、緩急様々な行進を続ける魔法生物の群れ。その数は未だ多い。
そして、ひたすら大きく、ゆらりとした動きを続ける、人型の人形。弱々しく顎を開き、瞬くこともない濁った瞳でこちらを見ながらゆっくりと向かってくる。
それを見据えて、それでも、逃げようとは思わない。
「大丈夫です!」
「そうか。なら、もう少しだけ耐えてくれ」
「耐える?」
「ああ」
いささか以上に妙な言葉を連れてナタスは振り返り、にやりと笑んだ。
「まとめて、火葬してやろう」
霧が、深まっていく。
いかがでしたでしょうか?
迫力が出るように色々と試行錯誤して書いた戦闘シーンなのですが……見苦しい文ばかりですよね。申し訳ありません。
少しでも皆様の心に止めていただける様、より一層の努力を致します。
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