第十二話
書き直しや、構成の変更を何度も行っていたため、遅くなってしまいました。(どれほどいるのかわかりませんが、)待っていて下さった方々、お待たせして大変申し訳ありませんでした。
「酷い……」
アリアムが、詰まらせた喉から絞るように声を出した。瞳には、様々な“生活の跡”が映し出されている。
先の、白灰の積もった聖堂とは反対に、ここは黒炭とススで溢れていた。
おそらくは、教会を預かる人間が生活していた居住空間だったのだろう。小屋のような箱状のスペースになっていたようだった。
『ようだった』というのも、そこもまた炎の中に焼け落ちて、今はその名残しか留めていなかったためである。
何かのオブジェにすら見えてくる、溶けてひしゃげた鍋。枯れたように倒れる椅子。後は朽ちるだけのテーブル。
通路に対して反対側の壁はもはや無く、目の粗い鉄格子のように数本の支柱が立つのみで、剥き出しの屋内には冷たい風が吹き込んできていた。残された半分の壁も、家具や天井共々、真っ黒な炭に変わり果てている。
その、見るも無惨な光景はどれもが痛々しいほど、かつてここに人が暮らしていたことを物語っていた。
「報告書の通りッスね」
「確かにこれならば、ここを火元と見るのが自然ですわ……」
セレスとディアナが、状況を一つ一つ具に確認しながら、ゆっくりと歩み出した。
その確認作業を使い魔たちに任せ、ナタスは一足先に壁――だったもの――のところまで歩いていく。
「奴はどこだ?」
ナタスはわずかに残った柱の陰に隠れるようにしながら、慎重に外の様子を窺っている。
“奴”とは無論、今さっきここに入っていったはずの女――シルファのことである。彼女の後を追ってまだそれほど時間は経っていないはずだが、しかし、その姿は既にない。
そういえば、とアリアムも壁際に歩み寄る。
斜陽は西に沈み、辺りは宵闇に包まれ始めていた。
と、その闇の向こう、林の影に鮮やかな蒼の法衣が、ひらりと翻るのが見えた。
「あ、あそこ!」
アリアムが陰から指を指す。
ナタスはその指された方へ顔を向けるが、どういうわけか彼には見えていないらしかった。目を細めて林の方を凝視している。
「どこだ?」
「あっち、林の中に入っていきました」
ナタスは、改めてアリアムの示す方に目を凝らすが、やはり見えないらしかった。見出すこと諦めたようにアリアムの方へ向き直り、顎に手を当てる。
「隠れ身の効果かな。俺にはよくわからないが…… アリアムにはわかるんだな?」
「はい」
「よし、急いで後を追うぞ。先導してくれ」
そう言ってナタスは後ろの猫たちに合図すると、アリアムを先頭に、再びシルファの後を尾けるべく、林の奥へと向かった。
無限とも思える、深い闇の世界へと――。
資料室と自室を繋ぐ廊下を、険しい表情でゼピュロスが歩く。
(落ち着いて考えろ。“シルファ=ムルルーム”の遺体は出ておるのだ)
多くの人が行き交う中、小さな呟きは音になることなく雑踏に消えていく。
(とすると、昨夜アリアムさんが出逢ったという人物は……)
手には管理官から聞き出した、彼女の人物像を書いたメモと、もう一枚。
そのメモの方に目を通しながら、突如現れた霧の向こうを覗き出そうとする。
(彼女の名を語る他者ということに…… いや、)
しかし、どれほど思考を巡らせても、霧は晴れるどころか深まっていく一方だった。
歩きながらも、判然としない視界に苛立つようにゼピュロスは首を大きく横に振る。
(そもそも、身元の確認ができておらんのだ。もしかしたら、遺体は別人のもので、本人と言う可能性も…… っ!?)
そう推理するうちに、一つの仮説が浮かび上がった。
(もしや、それを隠すために遺体を焼いた……? だとすれば、今回の不可解な事件にも納得がいく。彼女が生きているにしても、他者が摩り替わっているにしても…… だが、)
目的がわからない。
管理官に聞いたシルファ=ムルルームという人物は、幼少の頃より教団に所属しており、教団の教えにも熱心だったという。また、その素行も慈愛に満ちた、誰からも好かれる優しい人物だったと教えられた。
そんな人間が、共に暮らしていた者たちを見捨て、自分の死体に見せかけるために他者を犠牲にするとは考え難い。
そもそも、そこまでして自身の生存を隠すのならば、シルファ=ムルルームを名乗るのはおかしい。
(やはり、彼女の名を語る他者がいる、という線が濃いの…… アリアムさんに、その者の容姿を尋ねて置けば良かったわい)
ゼピュロスは持っていたもう一方を眺める。それは、一枚の写真。そこには、微笑みと共に佇む、薄い赤茶の髪の若い女性が写っていた。
脇に記された名は、“シルファ=ムルルーム”。
神秘のヴェールに包まれた、女性のものである。
(シルファ=ムルルーム…… お主は今、どこにおるのじゃ?)
自室までの道は、まだ遠い。
☆
木々が来る者を拒むかの如く、不気味にざわめく。
冷風は枝を揺らして木の葉を鳴かせ、幹に刻まれた洞がこちらを見ながら嗤っている。腐食した落ち葉は泥となって地面を隠し、あるいは所々苔むして、鼻の奥を淀ませるような腥い湿気を漂わせていた。
ここは、闇が支配する場所――“深遠の淵”、あるいは“冥府の底”とでも言うべき、まさに“異界”だった。
その、叶うならば駆け抜けてしまいたい林――と呼ぶにはあまりに過ぎる鬱蒼とした茂み――を、アリアムたちはゆっくりと進んでいた。
「見失いました……」
アリアムが小さな声で、後ろにいるナタスたちに呼びかけた。同時に周囲を探るように、また視線を走らせる。
遠くからは、ガラス瓶に息を吹き込んだような、ボウという低い唸り声が聞こえてくる。朽ち果てて表皮だけとなった老木が風に侵蝕されて、その身を震わせているのだろう。
この林に入ってから、もう随分経つ。
アリアムたちは慎重に周囲に気を配りながら歩いてきたにも関わらず、未だにシルファを見つけることができないでいた。
彼女は忽然とその姿を消してしまったのである。
「そうか……」
林を吹き抜ける風鳴りに吐息を混ぜて、ナタスがそれに答えた。この先どう動くか、それを思案するように腕を組んで考え始める。
“林”という響きが、状況の認識を甘くさせたのだろう。加えて、シルファが奥へと踏み込んでいった、というのも判断を誤らせる一因となっていた。
どんなに歩き慣れた人間でも、暗い夜の森に入る者はいない。だからここは、大した林ではないのだろう、と知らずの内に油断したのだ。
だが、ここはもはや、“森”という方が正しい場所だった。林と呼ぶにはあまりに深い。この鬱蒼と樹木の茂る中で、どこにいるともわからない先行く人を捜すことのみに意識を集中させてしまった。
少し進んでは身を隠して辺りを窺い、また少し進んでは立ち止まって気配を探る。その繰り返しの果てに、アリアムたちは遭難寸前のところまできている。
この闇の中に身を置くのも、もう限界に近い。
「ここまで追ってきたのは、失敗だったかもしれないな……」
彼はぼそりと静かな声で呟くと、ゆっくりと辺りを見渡して、それから時計を見るかのように、首を上に向けた。
辺りを埋め尽くすのは、身体にまとわりついてくる霧のような薄闇と、闇に喰われてただ風にうねる漆黒。
街の明かりは遥か彼方、太陽は大地の影に眠り、星辰輝く空も今は木立の天蓋に覆われて、一筋の光さえも届かない。
いくらシルファが鮮やかな蒼の法衣を着いたとはいえ、こうも暗い茂みの中では、まして隠れ身まで使われていては、見失うのも仕方がないことだろう。
「……」
アリアムは来た道を振り返り、眉をひそめる。
林の入り口、さっきまで自分が立っていた小さな“生活の場所”は、とうの昔に見えなくなっていた。
――なんて所なんだろう……
アリアムが警戒するように、改めて周囲に目をやる。
一切の光は遮られ、あるのはただ闇に呑まれて蠢く木々。
ここには “生”の気配がまるで感じられない。にも関わらず、茂みの向こうから“何か”が出てくるのではないか、そんな不安ばかりが胸の奥から脈々と染み出してくる。
在るはずのない何か――まるで姿無き亡霊の影を追っている、あるいは追われているようで、気味が悪かった。
――怖い……
理屈ではなく、そう感じる。
足に力を込めていなければ、立っていることもままならないくらいの悪寒が全身を走り、風は息が白く濁るほどに冷たい。なのに、肌にはねっとりとした汗が絡みついて、余計に寒さを感じさせていた。
そのくせ、身体の奥の方だけは何かに備えているかのように熱くなり、それがまた不快な汗を呼ぶ。
瞳の前では緑とも白ともつかない色の、夏の陽炎のようにゆらゆらしたものが踊って、眩暈を起こしたときのような感覚を呼び起こす。
意識を保つことに神経を集中させていなければ、気が狂ってしまいそうだった。
だが、折角見つけた手掛かりを、このまま簡単に諦めてしまうわけにもいかない。
それを代弁するように、ナタスが口を開く。
「この辺りに来たことは、確かなはずだ。もう少し様子を見てみよう」
そう言ってナタスは足元の猫たちに、顎をしゃくって指示を出す。すると二匹は各々、別の木に登っていった。猫ならば人間よりは夜目が利くはずだ。高いところから周囲を探らせようというのだろう。
そうして彼自身も近くを歩き、人影がないかを捜している。
アリアムは急にセレスたちの姿が見えなくなって、また胸の奥の不安が膨らむのを感じた。
――息が、苦しい……
瞳を閉じてしまいたくなる衝動を必死に押さえつけ、アリアムも別の場所を捜してみようとするが、それはナタスに半ば無理矢理に引き止められた。現状が現状なだけに、あまり離れるな、ということだった。
「どこに行ったんでしょうか?」
アリアムは、はぐれないようにナタスのすぐ近くに身を寄せて、小さく声を出す。
「さあな。それより、何故教会にいたのか、何故こんなところに来たのか。俺にはそっちの方が気になるが……」
広がる闇は影を隠し、木々の慟哭が物音を掻き消している。朽ちた落ち葉の上では、足跡さえも残らない。
こんなところに、自分たち以外の何がいるというのだろうか。
もし、いるとするならば、それは……
そこまで考えて、アリアムは首をぶんぶんと振った。脳裏を翳める嫌な幻想を、できるだけ現実味を帯びた明るい想像で消し去ろうとする。
長い髪が、揺れながら宙をさ迷った。
その時――
迷いを許さぬように、冷たく鋭い風が空気を切り裂く。
「!? なんだ……?」
前方、ほんの少し向こうに、ぼんやりと光が浮かび上がる。それは薄い靄のように揺らめき、血のように鮮明な紅の明滅を繰り返しながら、一つ、二つと徐々にその数を増していく。
「マスター、あっちにも光が!」
「こっちでも光ってるッスよ!」
木の上から二匹が叫んだ。
はっとして周囲を見ると、光は彼らを囲むように灯っていた。それは大小、様々な明かりとなって辺りを照らし、次第に形を為していく。
皮の捲れた頭、ぶら下がる眼、腐食した臓物、肉の剥がれた躯。
それは、狼――もしくは、猿――そして、カラス――“だったもの”たち。
「っ!?」
そしてその中に、一際大きな輝きを――異彩を放つ存在を認めて、アリアムが息を呑む。それは彼女の描く“理想の現実”を薙ぎ払い、吹き散らしていく。
――ア……
そこには、一人の老人が立っていた。
力なく首を斜めに傾け、されど何かを求めるように腕を前に突き出し、人の良さそうな顔に生気は無く、感情が宿らない瞳を虚ろに開けている。
――ア、ア……
喉の奥を、吹き荒ぶ風に鳴らしながら現れたそれも――人間“だったもの”。
あるべき姿を大きく崩し、他の意志で“動かされる”、ただの肉塊――魔法生物へと変わり果てた“モノ”だった。
「馬鹿な…… 人間を、だと……?」
「そんな、そんな……」
信じられない、あるいは認めたくない光景を前に、二人は瞳を大きく見開いた。戦慄以外の全てを忘れ、全精力を理性に働かせてもなお、現実と捉えるにはあまりに難しい、現実。
だが、時は二人に理解の間を与えてはくれなかった。
――ア、ア、ア……!
波打つように動き出す、それら。
屍人の行進が、始まった。
いかがでしたでしょうか?
ドロドロした不気味な雰囲気を感じ取っていただけたなら、幸いです。