第十一話
林に一本通された道を進むと、やがて突然に視界が開けた。
眼前には、なだらかな丘陵が広がっており、傾きかけた陽射しを反射して、黄金色の輝きを放っている。
夏には緑が生い茂っていた草原も、今は枯れた土の匂いが溢れ、風に吹かれて乾いた音を響かせていた。
その片隅――まるでその一部分だけ色を失ったかのように、モノクロの世界が落ちていた。先日、業火に飲み込まれた教会、その跡である。
色鮮やかであったろう石の壁は、今は白一色に染まって、所々にススを湛えたグラデーションが彩るのみ。木製の扉は完全にその身を炭と化し、下側三分の一ほどを残して崩れ、形はおろか、その機能さえも失っていた。
それはむしろ、真っ白なキャンバスに木炭で描いた白と黒だけのデッサン画のようにすら感じられ、現実とは到底思えぬ光景だった。
――ここ、が……
アリアムは息を呑む。
この教会を焼いたのは、色さえも奪ってしまうほどの炎。ならば、その炎の中に身を置いた人たちは、どれほどの苦しみだったのだろうか。
想像して、思わず呼吸を忘れ、卒倒しそうになる。
と、その肩に、ナタスが優しく触れた。彼が耳元で小さく囁いてくれる。
(行くぞ。大丈夫か?)
掌から伝わる温もりで正気を取り戻し、アリアムは弱々しくもはっきりと頷いて見せた。
ナタスもまた、それに頷いて返すと、扉の方へ向かって歩いていき、アリアムもそれに続く。
二人は跨ぐようにして“扉だったもの”――その内と外とを隔てる境界を越えた。
その先に広がっていた光景もまた色を失っていた。白と黒の二色だけを残して
置かれていたはずの椅子や机の数々は、廃材にすらなりそうにないほどに粉々になって大理石の床を覆い、磨き上げられた光沢は失われ、白い灰に塗れている。
柱は中ほどから折れて砕け、屋根もそのほとんどが地に伏して、欠片が粉塗れの床に淡い灰色の点を穿っていた。
とても教会だったとは思えない、見るも無惨な状況である。
(灰しかありませんわね……)
ディアナが溜め息まじりでぼそりと呟く。
(帰る頃には私、毛色が変わってそうですわ。セレスと見間違わないで下さいましね)
静寂が広がる中、それを払拭するように軽い口で冗談を一つ。一方のセレスは、それを皮肉と真に受けて、膨れっ面になった。ぶうと漏らした吐息で、灰が舞い上がる。
それは空気に溶け込んで、朝靄のようにぼんやりと白く視界を濁す。
(あれが、件の神像か……)
ナタスが口元を手で覆いながら小声で言う。
灰で視界が淀む中、唯一黒く染まった像が、歪に口元を曲げてこちらを眺めていた。炎を受けて焼け焦げた神像は、ススを落としたのか、その足元をも黒く染め上げている。
まるで、悪魔が闇の領域を広げようとしているかのようである。
ナタスは神像の下まで歩いていくと、地面を見やった。
アリアムもその近くに屈み込み、そっと地面を指で撫でてみる。
よほど激しい熱を浴びたのか、床は表面を溶かして小さな凹凸を作っていた。ここに遺体があったというのなら、損傷が激しかったというのも頷ける。
(でも、)
アリアムが周囲を見回しながら言う。
(こんなところに、こんなになるほどに燃えるようなものがあったとは考え難いですよね)
教会の聖堂にあって燃えやすそうなものといえば、参列者が座る椅子か、神像を飾る蝋燭や花程度のものである。それにしても、石の床を溶かすほどの熱を発するとは思えない。だとするならば、
(魔法、なんでしょうか……?)
アリアムが自分の推測を口にする。様々な不思議を起こす魔法の力ならば、それも可能のように思えたからである。
(それが簡単にわかるなら、俺たちがここに来ることはなかったさ)
それには、ナタスが思案を巡らせる姿勢のままで答えた。
魔法とは不思議を起こせるがゆえに、このような状況下では判別をつけ難い。まして自然現象に則って働きかけるように考えられた現在の魔法ならば、尚更その痕を探し出すことは難しくなる。
原因の究明は、極めて困難なのである。
(アリアム)
不意にナタスが顎に手を当てたまま、問い掛けてきた。
(仮にこれがテロだったとして、君は何が目的だと思う?)
(目的、ですか?)
(ああ。“テロ”というのは、自分たちの“正義”を示せて初めて意味を持つものだ。なのに、これはそれが全くわからないし、そもそもテロなのかどうかすら怪しい。君はここに、どんな正義があると思う?)
アリアムも、う〜んと唸りながら、腕を組んで考える。
(恨みがあったとか……)
(それではただの怨恨殺人だろう)
ああ、と空気を漏らすような声を出すアリアムは、今更ながらに理解する。確かに、復讐だけが目的なのであれば、それは“テロ”とは言い難いかもしれない。
しかしながら、テロとは常人にはおよそ理解できないような思想の元に行われることが多々あるのも事実である。アリアムが理解できないのも当然のことだった。
(俺はな、)
ナタスが今なおこちらを見ている黒い神を見上げて言った。
(何らかの意図を持って、事件を引き起こした人物がいるんじゃないかと思っている)
(どういう意味ですか?)
アリアムが立ち上がって、それに尋ね返す。
(テロならば、こんなに手の込んだことをする必要はない。怨恨殺人ならば、被害者が六人も出るのはどうかと思う。だから、これは“何か別の目的を持った誰か”が引き起こしたんじゃないかと思うんだ)
勿論、六人全てに恨みを持っていたかもしれないし、誰か一人を殺すために他の五人を巻き添えにした可能性も否定はできないが、とナタスは付け足す。
(別の目的、ですか)
(もっとも、それが何かわからないのだから、結局は同じことなんだがな……)
そう言って、ナタスは肩を竦める。この場の状況証拠だけでは、彼でも人間の心理を知ることは難しいらしい。やれやれ、といつもの口癖を漏らした。
――コツ……
(しっ! 静かに……)
とその時、ディアナが祭壇脇にある通路の方へ目を向けて言った。耳をピンと立てて、慎重に音を探っている。
(足音が聞こえますわ)
ナタスたちも息を潜めて通路に目を向ける。
――コツ、コツ……
確かに、小さく聞こえてくる。それも、耳を清ましていないと聞き逃してしまいそうなほどである。
だが、その小さな音は、次第に大きく、はっきりとしていく。
やがて、一つの影がその姿を現した。
――コツ、コツ、コツ……
暗がりの向こうから、やけに響く足音を引き連れて現れたのは一人の女性だった。
紅の夕空とは対照的な蒼の法衣。痩身ながら端整な顔立ちには、首までの金髪が朧に輝いて、その垣間に見える瞳にはアウインの光が宿っている。
――あれは……
その姿を見たアリアムの脳裏に、まだ刻まれて間もない記憶が甦る。
この街で知り合った――人ごみの中で、道に迷った自分を導いてくれた――『また会おう』と約束した――深夜の河原で、共に人の生み出す“理不尽”に相対した――共に死者の魂を見送った――、ある一人の女性。
紛れもない、シルファの姿だった。
「シルファさ……んぐっ!?」
「!?」
アリアムは友――と思っている――、シルファに声をかけようとして、しかし思いきり後ろから口を塞がれた。
突然の出来事に戸惑いつつも首を捩って何とか後ろを窺うと、声どころか動きさえも封じるように、ナタスが腕を絡めて押さえ付けてきていた。
(声を出すな……!)
出来得る限り小さな声で、懸命に息を殺し、身を潜める。
アリアムは首に絡んだ腕を――音を出さないように――ぽんぽんと叩き、謝罪の意味も込めて首を小さく縦に振る。
それでやっと、締め付けてくる腕の力が抜けた。
(じっとしていろ。今は気付かれるわけにはいかない)
そう言うとナタスは、我が子を庇う父親のようにアリアムを胸の内に隠す。その緊張からか、落ち着きを取り戻したはずのアリアムの心臓は、再び高鳴り始める。
そのまま口を塞がれた状態で、アリアムは乾いた舌を潤すように、ごくりと唾を呑み込んだ。呼びかけた声が、彼女に届かなかったことを念ずる。
「誰……?」
しかしその声は、すでに彼女の耳に入ってしまっていたようだった。女が小さくもはっきりと伝わる声で、見えぬこちらの姿に言葉を発する。
「誰かいるのでしょう?」
視線だけを流して、一つ一つ確認するように慎重に探りを入れている。それは仮面のように感情のないまま、されど声だけは冷たく、言い放つ。
「いるのなら、出てきなさい」
彼女はこちらの居場所を正確に把握できていないらしい。そのおかげで、まだ見つかってこそいないが、これ以上探索を続けられては、人間の無意識の内に姿を隠すという、“隠れ身”が破られるのも時間の問題だろう。
残された時間はわずかしかない。それでも視線は徐々に、しかし着実に、近づいてくる。
――どうしよう…… このままじゃ……
アリアムは体中が氷のように冷たくなっていくのを感じた。呼吸は浅く、血液はすでに凍てついたように冷たい。
何とかしなくては、と必死に思考を巡らせるも、感じるのは頬を伝う汗の感触と、危機感からの焦燥感だけ。
それは、後ろで自分を隠すように覆って身を縮めるナタスにしても同じで、その表情から、おそらく彼は“最悪の事態”も考えているのだろう。
もはや、見つからぬことを祈る他なかった。
「そこにいるのでしょう?」
女の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
――お願い、気付かないで……
アリアムは、ぎゅっと瞳を閉じた。
「さあ…… 出てきなさい」
「にゃあ」
万事休すかと思われたその時、セレスが女の足元に駆け寄って、鳴いた。
「あら?」
不意に女の瞳が下に逸れる。その先では、セレスが頬を女の足に摺り寄せていた。
――でかした、セレス……
ナタスが深く息を吐く。
その吐息を耳に受け、アリアムは思わず声を出しそうになったが、未だナタスに口を塞がれていたおかげで、音にならずに済んだ。
眼前の女の方も、セレスの機転のおかげで、どうやらこちらの存在には気付いていない様子である。
しかし、ナタスは引き締めた面持ちで、呼吸を殺して女の様子を窺っていた。
「猫、か…… 白い毛並みだから、気付かなかったわ」
呟くと女は、肺の中の空気と共に肩の力を抜いて、しかし足元の猫を追い払うでもなく、しゃがんで愛でるでもなく、冷たい瞳のまま白猫を見つめる。
「悪いコね。立ち入り禁止の場所に入ってくるなんて…… ま、私もそうだけど」
直立不動の姿勢は変わらず、口元が一瞬だけ緩む。それを契機に女は緩慢にも、幼児や小動物を追い払うときのあの動作で掌を振り始めた。
「さ、もうお行きなさい。見逃してあげるから」
「にゃあ」
返事をするように一声鳴くと、セレスは聖堂の扉を跳び越えて外へと出て行った。
その姿を見送って、女はまた微笑を浮かべる。
「いいコね。それにひきかえ、こっちは……」
改めて周囲に視線を流し、独り言のようにごちる。
「ここに来れば見つかるかと思ったのだけど…… 一体どこにいってしまったのかしら」
そして、その蒼い瞳に黒衣の神像を映すと、最後に溜め息を小さく漏らして、もと来た場所へと向き直る。
「早く捜さないと、お爺様に叱られてしまうわ」
――コツ、コツ、コツ、コツ……
暗がりの向こうへ、響く足音を引き連れて、女は去っていった。
「ぷはぁ!」
重い雰囲気、締められていた首、その双方の解放感から、アリアムが大きく息を吸い込んだ。宙に舞った灰も同時に大きく吸って、思わず喉の奥が痒くなる。
咳を堪えてナタスの方を見ると、彼は通路に目を向けながら、難しい顔で何やら思案しているようだった。
ディアナも同じく、険しい表情で口を開く。
「あの女――シルファさんと仰いましたか? あの方も何かを探しているようでしたわね……」
「それに、隠れ身も使っていたみたいッスね」
慎重に辺りを窺いながら戻ってきたセレスが、付け足すように言う。
それを受けて、ナタスがアリアムに問い掛けた。
「何か思い当たることは?」
「そういえば…… シルファさん、『街外れの教会を預かっている』って言っていましたね」
問われてアリアムはシルファと出逢った時のことを思い出す。
うっかり自分が魔法使いであることを漏らしてしまった際に、彼女も教団の人間である、と告げ、そして確かに、そう言っていた。
「本当か?」
「はい」
「だとすれば、何か関係があるかもしれないな……」
ふむ、と悩むことわずか、ナタスは決断を下す。
「後を尾けるぞ」
四人は頷き合うと、祭壇の脇にある通路の奥へと入っていった。
いかがでしたでしょうか?
個人的には、もう少し緊迫感が出せれば良かったなと思うのですが、どうでしょう?