第九話
一部、ルビに見にくい部分があります。PCでの見た目を重視しているため、携帯の方には申し訳ないのですが、ご了承をお願い致します。
「これは一体、どういうことだ?」
翌朝、ナタスが自室にある椅子に腰掛けつつ、アリアムに問うた。脇の机の上には、泥にまみれ、汚れに汚れた鞄が置かれている。
「あう……」
一方のアリアムは、そのナタスの正面で、緊張感も顕わに直立している。両手を前で組み合わせ、やや俯きがちの伏し目を真っ赤にして、目尻には涙を溜めつつ、それでも背筋を伸ばして姿勢を正す。
職員室で説教を受ける生徒のような状態だ。
「えっと、ですから……」
「……」
答えを待つ少年の瞳が、静かに持ち上がる。
それを正面から直視してしまって、アリアムはビクリと肩を震わせて、また俯く。
ナタスは声を荒げるようなことはしない。むしろ怒りが深まるほど、穏やかな表情のまま、静かになっていく性格をしていた。
それが余計に怖い。アリアムはおずおずと弁明を続ける。
「野犬に、襲われて……」
「それは聞いた」
「あう……」
平静な口調で即答されて、また肩が震えた。
「もう一度聞くぞ。一体、どういうことだ?」
と言ってナタスは、くいと親指で机上の鞄を指した。中身は勿論、昨日ナタスが教団の書庫から借りて、アリアムが返してきた――“はずだった”本である。
にも関わらず、どういうわけか昨日と同じ状態……もとい、昨日よりも遥かにボロボロの状態でナタスの下へと戻ってきたのである。
「その、野犬、に……」
何度目かになる問いには、やはり何度目かになる答えが返された。
「やれやれ……」
「あう……」
が、その何度目かの答えは、やはり最後まで説明が続くことはなかった。
先程からずっと、アリアムの返答の途中でナタスが言葉を発する、という行為が繰り返されていた。もっとも、恐怖の所為か、アリアムの歯切れが悪くなっているのが原因ではあるのだが。
「君だって、一人で旅をしていたのだろう? 野犬を追い払うくらい、さして問題とは思えないが……」
ナタスが呆れたように言う。少々頭痛を感じるようになった額を押さえながら。
これらの本が、ナタスたちの宿泊しているゼピュロス邸に届けられたのは、今朝早くのことだった。
今朝方、川沿いの防波堤を散歩していた人に発見されて教団に届けられ、借り主がゼピュロスだったこともあって――借りたのはナタスだが、貸し出しの際の名義はゼピュロスになっていた――、職員が気を利かせてわざわざ届けてくれたらしい。
職員は大層迷惑そうな表情をしていたが、相手が司祭職のゼピュロスだったために強く出ることもできず、またゼピュロス自身もボケたふりをして責任を被ることで、穏便に事が済んだ。
つまり現状では、何も関与していないゼピュロスが“うっかり”やってしまったことになっているのである――当のゼピュロス自身は大して気にしている様子もなかったが――。
それ故にナタスは、罪を被ってくれた友人のためにも、また返却をアリアムに任せてしまった自分の責任としても、子細を尋ねないわけにはいかなかった。
「万が一にもこんなことにならないように、お前をやったというのに、どうして“万が一”が起きるんだ?」
涙目であうあうと漏らすだけになってしまったアリアムに見切りをつけ、今度は同じく、彼女の横で屹立している白猫――セレスにナタスが問い掛ける。
咎められたセレスもまた、感電したように全身を一回、痙攣させた。力んだ尻尾が天を衝くようにピンと伸び上がっている。
「えと、オイラが着いた時には、もう鞄を持ってなかったッスから、帰るところだったのかと、思って……」
「状況の把握、及び確認を怠った、ということですわね」
その申し開きを、ナタスが肘をつく机の上に座っていた黒猫――ディアナが叩く。こちらはセレスとは違い、落ち着いたものである。ペロリと自分の尻尾を優雅に舐めてさえ見せていた。
その“余裕綽々”といった態度に、「他人事だと思って」と、セレスは心中で怒罵する。
「怠慢ですわね」
床上と机上という位置関係が、まるで見下されているようで、ますます気に食わない。
「待って、セレスは悪くないの」
と、それを庇うように、アリアムがやや強い口調で言った。
「セレスが来てくれなかったら私、どうしていたか……」
そうしてまた、目を伏せる。
アリアムの言葉を聞いて、ナタスは彼女が混乱から醒めたことを察しつつ、気にかかった言葉を繰り返す。
「“どうしていたか”、とは?」
「私、あの子たちに何もしてあげられなかったんです。彼らはずっと、苦しい、辛い、って言っていたのに。自分は無力なんだって思い知って、それで……」
「“あの子たち”とは、野犬のことか?」
「はい……」
ナタスは自分とアリアムとの間に、どこか食い違いがあることを感じた。
アリアムが今、大した怪我もなく、ここにこうして立っているということは、何らかの方法で野犬を追い払っただろうことは、ナタスにも推察ができていた――その“何らかの方法”で、本が汚れてしまったことも――。
それにしても“何もしてあげられなかった”というのは、いささか妙である。野犬が腹でも空かしていたのに、何も食べさせてやれなかった、とでも言うのだろうか。
だがその疑問は、アリアムの次の一言が払った。
「あの子たちは、一度死んでしまったにも関わらず、私たち“人間”の身勝手で、また生き返らせられて、利用されて……」
「なるほど、そういうことか」
ナタスが机をトントンと指で鳴らしながら言った。アリアムの言葉には若干の語弊はあったが、事態を理解する。
「君を襲ったのは、どこぞの魔導師が作った、魔法生物だった、というわけか」
毒づきつつ、具合を改めるように座り直す。呆れか憤りか、深く息を一つ吐いて、
「もう少し詳しく聞かせてくれるか?」
問い掛け方が変わる。語気はいつものような、優しげなものに戻っていた。
それを感じ取ったのか、アリアムもいつの間にか、元の調子に戻る。目尻の涙は乾いていた。
「はい」
昨夜の様子を思い出しながら、一つ一つ説明していくアリアム。
その横で、密かに白猫の尻尾がくにゃりと曲がったことを、黒猫は見逃すことにした。
★
街外れの教会からやや離れた森の中、人の侵入を拒むかのように木々に覆われた岩山に、ぽっかりと口を開いた洞穴があった。
その岩穴の奥へと、一人の女が周囲を確認しながら入っていく。両手には、大きな紙袋を抱えていた。
「ただいま」
風除けのために仕切られた簡素な扉――というよりも、開閉が可能なだけの木の板――を開けると、小さな声で呟く。彼女の高い声が壁に天井に反響して、木霊していた。
そこはかつて、大戦時代に教会が作った、避難用の壕だった。万が一、市中が戦火に見舞われた際に、民衆が頼れる唯一の場所である。それ故に今も、水を溜めておく大きな瓶が数個と保存食、多量の毛布や薪が備えられており、さらには調理が可能なスペースまで有していた。
だがこの場所も、時の流れの中で次第に人々から忘れ去られ、今やその存在を知る者はほとんどいない。
「ただいま、皆」
女は両手の紙袋を、これも簡素な作りの机の上に置くと、洞窟のさらに奥に入る。
その暗い室内には、一つの彫像が据えられていた。朽ちて崩れたのか、その像はすでに両腕がなく、また頭部には、顔だけが抉り取られたような跡さえある。
と、その近くに、ロザリオを下げた小さな体が五つ、横たわっていた。
「遅くなってごめんね」
女は五人の子供たちに話し掛ける。しかし、返事は返ってこない。
「ちょっとしたトラブルがあって……」
女は構うことなく語り掛ける。それでもやはり、応えはなかった。
「でも、もう少しだから」
言いながら、女は壁際に取り付けられた燭台に火を灯していった。徐々に室内は明るさを取り戻していく。
するとそこに、“ロザリオを下げた小さな骨体”が五つ、横たわっていた。
「大丈夫だから」
女が幼子をあやすように、頭骨を一つ一つ、優しく撫でていく。
「だから、安心して待っててね」
捻じれた瞳で、狂喜に笑みながら。
「必ず、生き返らせてあげるから……」
蝋燭の光に照らされて、ロザリオがきらりと輝いていた。
洞窟の入り口、その少し奥の方に、まだ真新しい老人の死体が無造作に転がっていた。
☆
「ふぅ、ん……」
ナタスが片肘で頬杖を突きつつ、息を漏らすように鼻を鳴らす。視線は机の上に開かれた、件の本、魔法生物に関する記述が記載されているページに注がれていた。
「付近にそれを操っているような魔導師はいなかったんだな?」
確認にと、変わらぬ姿勢と視線のまま、ナタスが問い掛けてくる。
窓から斜めに差し込む朝の陽射しが、白い光の帯を作って彼を照らし出していた。まるで太陽に祝福される賢者の姿のようだ。
「は、はい……」
その姿に、アリアムは思わず見惚れてしまっていた。不意に振られた質問に、慌てて返事をする。
自分も彼のように知的に振舞ってみたいと感じて、しかしすぐに自分の実情を思い、気分が沈んだ。
「とすると、何か特殊な“仕掛け”でも施されていたのかもしれませんわね」
本のすぐ脇で、それを覗き込んでいたディアナも呟くように言った。
その本の“魔法生物”の項にも、シルファの言ったように『遠く離れた場所から、それを操ることはできない』という旨が記載がされていた。
「オイラがもう少し早く着いていたら、何か見つけられたかも知れないッスね……」
セレスが口惜しそうに言う。
「そうだな」
「そうですわね」
今更言っても仕方ないだろう、というような慰めを期待していたセレスだったが、彼の主人と同僚は全く容赦がなかった。ブーイングのように声を出すも、気にもとめられない。
ナタスたちは無論、セレスの心境には気付いている。気付いて、それでいて彼を“からかって”いるのである。
一方のセレスもそれを理解して、傍目にも明らかなほど不満そうな表情で、抗議の態度を示す。
彼らの絆の強さがわかる一瞬だ。
「もしかすると、」
相変わらず視線を本に落としたまま、ナタスが言う。
「関係があるかもしれないな」
「関係って…… 何とですか?」
「今回の事件と、さ」
「事件って…… 街外れの教会で起きた火事ですか?」
そうだという肯定として、ナタスは本を閉じて無言のまま頷く。
――とはいえ、目的が全くわからないな……
心中でそう推理を巡らしながらも、テロという行為について、果たして他者がその意図、目的を理解することができるのかとも思う。
いずれにしろ、調べてみる価値はありそうだ。
「教会跡の方へ行くのは、河原を見てからにしよう」
「あ、そういえば調査をするんでしたよね」
忘れていたのか、アリアムが今更のように言う。
彼らはゼピュロスたっての頼みで、教会で起きた火災――ゼピュロスがテロではないかと睨んでいる――について、調査することになっていた。今日一日は、それに付きっきりになるはずだ。
それを思い出して、街を巡ってみたいと思っていたアリアムは少し残念に感じる。
「不満そうだな」
その思いが顔に出てしまったらしい。ナタスがこちらを見やりながら、からかうように妙な笑みを浮かべていた。
相変わらず自分はわかりやすい性格なんだと、改めて感じさせられて、アリアムはつくづく自分に嫌気を感じる。
しかし、同時に、
――昨日あんなことをした人たちを捕まえられるかもしれない……
そう考えると、無性にやる気が出てくる自分もそこにいた。
アリアムは力強く頷いて、はっきりと言い切る。
「私、頑張ってお手伝いします!」
二度とあのようなことが起こらないように。
今できることに、自分の全力を尽くすのみ。
昨夜の誓いを確かめるように、アリアムは朝日差し込む部屋の中で、もう一度力強く頷いた。
「それじゃあ、行ってきます」
アリアムたちはその後、遅めの朝食を取って、昼過ぎに家を出ることにした。
ゼピュロス邸の玄関先で、見送りに出てきてくれたゼピュロスと、その脇の数人のメイドたちに挨拶をする。
「いってらっしゃいませ」
メイドたちがナタスとアリアムに深々と礼をする。
「ホ、気を付けてな」
それに合わせるように、ゼピュロスも微笑みながら手を振った。
「ああ……」
対してナタスは、苦虫を噛み潰したような不愉快な表情を浮かべていた。
彼はどうやら、このように派手に見送られるのを苦手としているらしい。一瞬だけ深く頭を下げるメイドたちを見て、すぐに背中を向けてしまった。
言うまでもなく、それをわかっているゼピュロスの悪戯である。
「行ってくる」
それだけを言うと、ナタスは振り返りもせずに、足早に家の門を潜る。
「あ、置いてかないでください〜」
アリアムも慌てて、小走りで彼の後を追いかけていった。
――“シルファ=ムルルーム”か…… はて、どこかで聞いた名前じゃのう……
二人を見送った後、ゼピュロスがふと思い出したように視線を上げた。
顎髭を擦りながら、聞き覚えのある名前を記憶の底から引っ張り出そうとする。
「調べてみるかの……」
ぼそりと吐き出した言葉は、わずかに白く染まって流れていった。
いかがでしたでしょうか?
なかなか話が進まなくて大変ですが、今後も頑張ります。