第八話
やがて、櫓と共に炎の柱が崩れると、終わりの刻を迎えた炎が轟と煌めく。その一瞬の輝きを最後に、儚く散って、火の粉の舞と共に消えていった。
シルファはその光を見届けると、すっと立ち上がり、黒い炭と化した塊へと歩み寄る。残った薪の一本を手に、塊を崩す。
まるでその欠落を埋めるように、シルファの魔法――その水が、炭でできた穴を覆った。刹那に残る、しゅっという小さな音と共に、闇と静寂と寒さが帰ってくる。
「……」
アリアムはその間も、無言のまま、膝を抱えて座り込んでいた。瞳も一点をぼんやりと見つめて、動くことはない。
シルファもまた言葉を発することなく、火が完全に消えたことを確認すると、それに背を向けて歩き出す。足音だけが、やけに大きく響いて聞こえた。
そして、蹲るアリアムのところまで来ると、彼女は顔を合わせることもせずに、ただ、ぽんと肩に手を添えて、そのまま夜の帳の向こうへ姿を消していった。
それから、どれくらいの時が過ぎただろうか。数秒か、数分か、もしかしたら数時間、そうしていたのかもしれない。
アリアムは急に思い出したかのように固く結んだ腕を解くと、手足を広げて寝転がる。地面に触れた背中が、とても冷たかった。
見るでもなく見上げた空には、天を覆い尽くさんばかりの幾つもの星々が浮かんでいた。少し前に見上げた時とは形を変えて。
そういえば、『死んだ者は星になる』という逸話があったな、とアリアムは思い出す。
だとするならば、あの星には一体どれほどの哀しみが宿っているのだろうか。
今、悲しみの内に散っていった彼らも、この夜空のどこかで輝いているのだろうか。
悠久の時に比してあまりに短い生の時間、その中で幸福を感じることができたのだろうか。
人間の手前勝手な欲望に振り回されて、それでも何一つの悔いも残すことなく逝けたのだろうか。
そんなことを思いながら、少女は静かにその瞳を閉じた。
――「どうして、人は死んじゃうの?」
あの日、少女は尋ねた。
「それはね、“次”へ繋ぐためよ」
それに、老婆が答えた。
今にしてみればなんてことはない、ただの興味本位からのものだったのだろう。深く考えることもせずに、ただその答えに耳を傾けていた。
「次へ繋ぐ?」
再び、少女が尋ねる。
「そう、次へ繋ぐの」
また、老婆は答える。
「人というのはね、世界にとって大きすぎるものなの。『偉人』とか『英雄』の話、あなたも聞いたことがあるでしょう?」
「うん、おばあちゃんのことでしょ?」
瞳を輝かせて言った少女に微笑みながら、少しだけ困ったように老婆は返す。
「あらあら、ありがとう。でも、私はどうかしら……?」
「違うの?」
「私は“今”に生きているからね。英雄というのは“今”を失った者、“過去”になってしまった人を指すの。だから、私がそうであるかどうかは、後の“世界”が決めることなのよ」
ふ〜ん、と頷きつつも、少女は『よくわからない』といった表情を浮かべた。それを見た老婆も、くすくすと笑みを零す。
「これは難しいけれど、簡単なこと。例えばあなた、魔法使いになりたいのよね?」
うん! と、今度は勢いよく少女が頷く。自らの意志を、夢を、希望を何一つ隠すことなく、強く。
その成長を見て、老婆は“時の流れ”――“次”に思いを馳せる。
「あなたが望めば望んだだけ、叶えれば叶えただけ、世界が広がっていく。過去の英雄たちは、そうやって“新しい世界”を築き上げてきた。そう……」
老婆は深呼吸をするように、一息置いた。
「人は世界をも作り変えるほどの力を持っている。だから“人”は世界にとって大きすぎるの」
少女はやはりわからない、というように疑問を投げかける。
「どうして大きいとダメなの?」
「あなたにも我慢できることとできないことがあるでしょ? それと同じ。大きな人が多くなると、世界が我慢できなくなってしまう」
老婆は諭すように、優しく語り掛ける。
「人が死なない、ということはその人がずっと存在し続けるということ。世界を変えてしまうほどの人が。そうなれば、世界は世界でいられなくなってしまう。“次”へ向かうことができなくなってしまう」
たとえそれが理解されようと、理解されまいとも、自分で考えてもらえるように。
「だから世界は人が死ぬように定義したの。世界が世界でいられるように。でもね、それは人が生きようとするのと同じこと」
「じゃあ、“せかい”も生きようとしてるんだね」
その少女の答えに、老婆はとても嬉しそうに言った。
「ええ、そうね。やがては来る最期の時だけれど、その時まで精一杯生きようとしているのね。“生きることは素晴らしいこと”だから」
「『生きることは素晴らしいこと』……」
少女は言葉を繰り返す。自分の心に、深く刻み込むように。
「だからアリアム、あなたも決して、生きることを諦めてはいけない。死を望んではいけない。人は世界を動かす力を持っている。生きている限り、世界は広がっていくんだから」
少女は、満面の笑みでこう言った。
「うん。わかった、おばあちゃん」
老婆は、満面の笑みでそれに応えた。
ほんの少しだけ、“次”を憂いながら――。
アリアムは瞳を閉じたまま、頭上の輝き――その一際強い光を放つ光に、小さな声で呼びかけた。
「お婆ちゃん……」
かつて、自分を悲しみの淵から救ってくれた人を。亡き今も、尊敬と感謝の念を抱き続ける人を。
「私、やっぱり駄目だった」
あの老婆の微笑を、少女――幼い頃の自分は、はっきりと見ていなかったのだろうか。今も、あの笑顔を、何故か思い出せないでいる。
「また、見ていることしかできなかった……」
あれが、自分の尊敬する偉大な魔法使いの最後の教えであったことにも、気付くことなく。
ただ、ぼんやりと眺めてしかいなかったんだ。
「私が、こんなんだから、」
どうしてあの時、もっと深く考えようとしなかったのだろう。
「あの子は、苦しんで、傷付いて。それでも私は、何もできなくて」
どうしてあの時、ただ微笑みを返す、それだけで答えとしたのだろう。
「だから、もう二度とあんなことが起こらないようにって、誓ったはずなのに」
どうしてあの時、愛する人たちの最後の笑顔を、真摯に受け止めなかったのだろう。
「一つでも多くの幸せが、この世界に灯るようにって、頑張ってたはずなのに」
どうしてあの時、“次”があるものだと信じて疑わなかったのだろう。
「私は、また何もできなかった…… 私はあの頃と何も変わらない」
どうしてあの時、“終末”という存在に目を背けたのだろう。
「ずっと、無力なまま……」
瞳が、熱い。視界が、濡れる。
星は、声もなく、ただ煌めいていた。
このまま眠ってしまおうかと思ったその時、不意に耳元で声がした。
「アリアム…… 泣いてるッスか?」
瞳を開くと、暗い夜空が真っ白に変わっていた。
そこにいたのは、一匹の猫だった。純白の毛並に長い尾。ややの丸顔には、ぴんと立った耳と、不揃いの髭が伸びている。
その白猫が、心配そうに頬を舐めた。
「何か、あったんスか?」
ざらりとした彼の舌は、くすぐったくて、そして、温かかった。それで――それだけで、何故か救われたような気持ちになる。
「うん…… ちょっとだけ、ね」
アリアムは、もう一度だけ、と瞳を閉じた。
――そうだ、私は、何もできない
かつて、老婆は自分に手を差し伸べてくれた。血の繋がらぬ身でありながら、時に厳しく接し、そして優しく微笑んで、共に歩んでくれた。
――今は……
あの日、幼い男の子が静かに自分を見つめた。憔悴した顔で、それでも精一杯に笑いながら最後に一言、『ごめんなさい』とだけ、呟いた。
――それなら、今は叶えるために努力しよう
それを糧として、それを罪として、自分は今までやってきた。どんなに辛くとも、どんなに苦しくとも、強く在らなければならない。そうすることが、生きる希望をくれた老婆への報恩であり、悲しませてしまった男の子への謝罪になるはずなのだから。
――今は自分にできる精一杯をやろう
そして、その向こうで、灰色の瞳の少年が背を向けて歩いている。自分の進むべきその道を指すように、またあるべき姿を示すように。それでいて時々、少しだけ立ち止まって自分を見守ってくれる。変わらぬ表情の中に、ほんの少しだけしか見えないけれど、本当はたくさんの優しさを伴って。
――そうすれば、きっと……
少しでもその人に近づこう。少しでも自分の願いを叶えよう。それが、今の自分にできる最大限の努力であるはずなのだから。
アリアムは力強く、その瞳を開いた。
決意を新たに見上げた星は、とても綺麗に輝いて見えた。
「……」
彼女を黙って見守り続けていた白猫――セレスは、それから、こう声を掛けた。
「それじゃあ、帰ろうッス」
アリアムにはその響きが何よりも優しくて、だから嬉しくて、思わず声に、顔に、喜びが滲み出る。
「うん。帰ろう!」
暗い夜道。冷たい北風。
今はそれも、気持ちよかった。
いかがでしたでしょうか?
何だか構成がごちゃごちゃして、読み難いですよね……反省。
アリアムの信念のようなものが伝えられていると良いのですが……