第七話
「どうして……」
アリアムは野犬たちから目を離さずに、しかしわずかに目を伏せる。睨むのではなく、見つめるように。
「あんなに、傷付いているのに……」
憤る思いに、身体が震えるのを感じる。
「とっても、痛かったよね…… 苦しかったよね……」
彼らを思うと、胸が痛い。
響く呻き声は、「痛い」と訴え続ける悲痛の叫びにさえ聞こえてくる。
「怖かったはずなのに…… それなのに…… どうして!」
アリアムは瞬間、息を飲み込むと、一気に彼らの前へと飛び出した。
一方に狙いを定め、本を納めた鞄を横から勢いよく薙ぐ。
その側頭を狙った一撃は、狙いすぎたのか打点が少し高かった。躯を下げるだけで、いとも簡単に野犬に回避されてしまう。
だが、アリアムの真の狙いはここからだった。薙ぎ払った鞄を重石に、くるりと一回転すると、同じ軌道の杖による第二撃を正面に、振り抜いた第一撃をもう一方に繰り出し、二匹を同時に牽制する。
これにはたまらず、野犬たちも咄嗟に大きく飛び退いて回避した。それによって、二匹の距離が離される。
アリアムは――遠のいた一匹が、一跳びで攻勢に出られない距離に着地したことを確認すると――千切れそうになる腕に痛みを感じつつ――、地面を蹴って、分たれたもう一匹へ向かっていく。
それに反応した野犬が、迫る敵を噛み砕かんと微かに黒ずんだ牙を見せて、大きく顎を開いた。
しかし、アリアムはその牙を、今度は受け流すことをしなかった。大きく開いた顎の中に、左手に持った鞄を一気に押し込む。
――ガァッ!!
突如、口の中に打ち込まれた異物に、野犬は思わずたじろぐ。無意識の内に異物を吐き出そうとしたのだろう。カッという小さな嗚咽が響き、唾液にまみれた鞄が地面に落ちた。
その隙を突いて、アリアムは腹部を杖で突き上げる。そして続けて、痛みに悶え、庇うようにして丸めた身体に、振り下ろす一撃を加えた。
そのまま勢いで地面に叩きつけられた野犬は、意識を失ったのか、横たわって動かなくなった。
その一部始終を見ていたもう一匹が、やや遅れてアリアムに襲い掛かる。同じ轍を踏まないように――という思慮があったのかはわからないが――、両の爪を大きく前に向け、駆け抜ける。
利き手の逆、死角からの攻撃に、アリアムの反応がわずかに遅れてしまった。そのわずかな時間差が、アリアムの左腕を抉る。
「痛っ!」
痛みに表情を歪めるも一瞬、アリアムは後ろに大きく下がる。見れば、野犬は次の突撃のために肢を曲げ、力を溜めているところだった。すぐに反撃の体勢を整える。
が、その機先を火柱が阻んだ。
「させませんよ」
シルファが投げ、魔法によって火の勢いを増加させた松明だった。
野犬は溜めた力を、アリアムに向けてではなく、その火炎から逃げるために使う。アリアムと野犬との距離は、炎を中心にして再び大きく開いた。
シルファは攻撃の手を緩めない。さらに、己の最も得意とする魔法を発動させていた。
見れば彼女の後ろで、河の水が渦を巻くようにしてうねっていた。それはまるで龍か蛇かのように塒を巻きながら、その頭を錐のように尖らせて、野犬に向かっていく。
「お黙りなさい!」
シルファの声を号令に打ち出された水の錐は、しかし、寸前のところで飛び下がった野犬にかわされていた。代わりに、アスファルトの地面に深い穴が穿たれる。
「はあああ!」
そのかわした先、野犬の動きを読んでいたかのように、アリアムが飛び込んでいた。着地に合わせ、体勢を低くして振り抜いた杖が肢を払う。
唐突にその支えを失った野犬の躯が大地に打ち付けられる。そして気付いたときには、体勢を立て直す間も無く、ようやくもたげた首筋、その後ろに杖による打撃を受け、もう一匹の野犬も動きを止めた。
一瞬の攻防、ただそれだけで全ての事が静まった。
「はぁ、はぁ……」
アリアムは振り下ろした杖もそのままに、荒く肩を振るわせていた。やがて呼吸を整え終えたのか、立ち上がって残心を解く。
だが気丈に佇んだと思ったのもまた一瞬。数歩後ろ、横たわる野犬たちを視界に収める位置にまで下がると、不意に力が抜けたように、がくりと膝を落した。
「シルファさん」
片膝を付き、頭を垂れたままの姿勢でアリアムが小さな声を搾り出す。
「……この子たちは何なんですか?」
泣いているのだろうか。それとも、彼らの苦痛を思い、安息を祈っているのだろうか。夜の闇も手伝って、その表情を窺い知ることはできない。
「……」
シルファは無言のままアリアムの横を通り過ぎると、野犬を抱え上げ、棺に遺体を納めるように、その体を傍らに落ちていた大きな布の袋に入れた。袋の口を紐で強く縛る。
「アリアムさん、薪を集めるの、手伝って下さいませんか?」
シルファが言うとアリアムは黙って立ち上がり、やはり無言のまま、歩き出したシルファの後を追う。
これから行われるであろうことを思うと、また胸が痛くなるのを感じた。
シルファは河辺まで下りると、そこに落ちていた流木を拾い上げる。
「さっきも言った通り、彼らは魔導師たちが自身の魔力を注ぐことによって、生きているかのように動かす人形……」
「……」
言いながら、木をアリアムに手渡す。アリアムも黙ってそれを受け取った。
季節柄、河の勢いが増しているのだろう。流木はあちこちに見つけることができた。すぐにその数はいっぱいになる。
「俗に“魔法生物”と呼ばれるもの。魔導師の意のままに操られる」
「……」
着火剤に使うのか、次にシルファは葦の枯れ葉を刈り集め、束ねて抱える。手が泥で酷く汚れていた。
「でも、彼らは違ったみたいね。魔法生物は魔力が供給されなければ存続し得ないし、主たる魔導師が近くにいなければ自発的に動くことはない」
「違う!」
と、不意にアリアムが大声を上げた。眉根を寄せ、奥歯を噛み締め、目には今にも零れそうなほどの大粒の涙を浮かべていた。
「私が聞きたいのは…… 私が聞きたいのは」
その涙を隠そうとするように、アリアムはまた俯く。流木を抱えた腕に、力が込められているのがわかった。
そしてそのまま、再び黙り込んでしまう。
アリアムにはまだ心の整理がついていないのだろう。いつだって彼女は、生きることを喜びと感じてきたのだから。だからこの、一度死に伏した者を“再び”葬らなければならないというあまりの現実を前に、ただただ憤り、困惑するしかないのである。
「どうしてこんな酷いことができるの……」
「そう、ね…… でも、きっと答えは簡単」
「……?」
アリアムは涙を浮かべたまま、シルファを見る。だがシルファはその視線から目を背けた。表情も変わらない。
「コレを作った魔導師にとって、コレはただの道具だったというだけのこと」
「道、具……?」
「ええ。あなたもそうでしょう? 使い終わった“紙くず”はゴミ箱に捨てて燃やしてしまう…… それと一緒よ」
「そんな、でも、あの子たちは――!」
「一緒よ」
反論しようとしたアリアムを、シルファが言葉で静止する。
それは優しく窘めるような声ではなく、静かながらも強い怒気が込められている声であるのがわかった。
「一緒なの…… あなたにとっては、どうかわからないけれど」
シルファは対岸の河辺をじっと見据えていた。つられて、アリアムも対岸を見つめる。
彼女――シルファの、その睨みつけるような視線の先には、そしてその瞳には、何が映っているのだろうか。
何故かふと、そんな疑問が頭をかすめていった。
☆
二人は炎を眺めていた。河縁で轟々と上がる、真っ赤な炎を。
普段ならば心弾むような光景も、今のアリアムにとっては暗鬱なものでしかなかった。
これはキャンプファイアではない。
それを、“喜”あるいは“楽”の象徴とするならば、これは“怒”と“哀”の象徴だった。
そう、これは死者を火に葬して弔うための炎なのである。
あの後しばらくして、アリアムとシルファは集めた薪で櫓を作った。そして、櫓の中心に野犬を納めた袋を置いて火を点けた。
アリアムにはそれが、まるで棺を載せる輿のように思えて、胸が苦しくなった。
火葬を選んだのは、二度とこのような辱めを受けることがないように、との配慮であろう。利用される肉体が灰になってしまえば、いかに魔法でも操ることはできないからだ。
鎮魂の炎は高く煙を上げつつ、猛っている。
それを眺めて見ても、アリアムの心はこの炎のように力強くなることも、明るくなることもなかった。
あれ以来、二人は一つとして言葉を交わしていない。
だが、それもどうでもいいと感じていた。今はただ彼らのために祈ろうと思う。
――ごめんね、私たち、“人間”のせいで
瞳を瞑り、
――苦しい思いをさせて
膝をついて、
――本当に、
手を組み合わせる。
――ごめんなさい……
火照る頬をしてなお“暖かい”と感じるものが一筋、流れていた。
炎が、燃える。
どうしようもない、怒りを表すように。
白煙は、昇る。
不幸な魂魄を、連れて逝くかのように。
少女が、祈る。
こんな悲しみが、繰り返されぬように。
女は、誓う。
二度と同じ過ちを、繰り返さぬように。
時が経つにつれ、辺りを照らす光は薄らいでいった。
いかがでしたでしょうか?
迫力とスピード感のある戦闘シーンを目指しました。自分としてはイマイチ納得のいかない部分もあるのですが……