第三話
人の本質とは何か。
この解無き命題は、太古の昔より哲学者たちの間で論じられてきた。
ある者は、『悩むこと』だと言った。人は悩み、苦しみ、考えることで新しきものを得、次へ進むというのだ。
またある者は、『経験すること』だと言った。見たことのない、聞いたことのない、感じたことのないものに触れ、経験することが、“その人”を形づくっていくのだというのである。
しかし、この“駅前”という場所においては、また別の仮説を立てることが出来た。
それは、『笑うこと』。
友人と語らう者、ショッピングを楽しむ者、旅行に向かう者――周囲にいる人間はほとんどが皆、笑っている。
そこには悩みのようなものは無く――もっとも、全く悩みがないはずがないので、これはとても失礼な言い方ではあるのだが――、また、何かを経験しているようにも見えない。
人は笑う余裕があるからこそ、新しいものに触れて、新しいものを得て行けるのではないだろうか。
少なくとも、今のアリアムにはそう感じられた。今、自分自身に笑う余裕が無いからである。
笑顔が行き交う中、アリアムたちは神妙な面持ちで街を歩いていた。
前を歩く女性――シルファは、先程から背中を向け、黙ったままで歩き続けている。
その足は速く、アリアムは彼女を見失わないよう追いかけるだけで精一杯だった。
シルファも表情こそ見せないものの、笑っているようには感じられない。
自分は何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。彼女を不快にさせてしまったのではないか。そんな不安だけが脳裏を過ぎる。だが、この状況では、声をかけて様子を窺う事もままならない。
とそこで、シルファが急に歩足を緩め、アリアムとの距離を縮めると、不意にこう切り出した。
「アリアムさんは、“神”を信じますか?」
「……遅い」
人の本質とは何か。この命題について、ここにも一人、一つの解に辿り着いた人物がいた。
腕を組み、不機嫌も顕わなしかめっ面で、少年が誰に言うでもなく呟いた。アリアムの探している連れ――ナタスである。
「どこへ行ったのやら。こんなにすぐに迷子になるとは、子供か、あいつは……」
彼にとっての人の本質とは、『待つこと』。
“待つ”という行為、それは“受け入れる体勢を整えている”ということであり、そういった状態であればこそ、人は新しい物事を経験していけるのである。
しかもこれは、受動的なものだけではない。何かを学ぼうと本を開いたり、誰かに知識を享受している者も、“受け入れる体勢を整えている”ことに違いはないので、“待っ”ていると言えるのだ。
だがこんな悟りを開いたところで、今のナタスにとっては何の意味もない。現状が打開される方が、よっぽどありがたいというものだ。
「やれやれ……」
「見当たりませんわね……」
ナタスの肩の上に座りながら言ったのは、彼の“使い魔”、黒猫のディアナ。言いつつも彼女は、すれ違う人々を一人一人確認している。
「アリアムさんのことを“過小評価”しすぎましたわね」
「ああ。皮肉をたっぷり込めて、本人にもそう言ってやろう」
アリアムが“ちょっとそこまで”行った後、いつの間にか見失ってから、もうかなりの時間が経っている。
ただ待っているのも、もはや苦痛の状態。さりとて、ここで待ち合わせている以上、探し回るわけにもいかず、なんとも煮え切らない鬱憤が溜まっていっていた。
右足で刻むリズムは、当初に比べてかなり早くなっている。
「“あいつ”もまだ来ていないようだし…… 全く、俺の貴重な時間をどうしてくれるつもりなのか」
怒りもそこそこに、もはやそれ以上に“呆れ”、あるいは“諦め”のようなものがナタスの声の端に聞こえた。
彼は一時の感情にいつまでも頓着する性格ではない。はっきり言ってしまえば、“冷めた人間”なのである。
「まぁ、そう仰らずに。それに、マスターには時間はいくらでもあると思いますが?」
「お前は誰に似たのかな……」
「もちろん、マスターですわ」
ディアナが茶化すように嬉々として答える。
ディアナの言うように、彼女は主人であるナタスに似ているところがあった。同僚のセレスと比べるとずっと口数が少なく、冷静に物事を考え、そして常にその言動の一つ一つに何らかの意味を含めて諷することもある。
つまり、やはりどこか“冷めて”いるのである。
「『時間はいくらでも』、か…… 皮肉にしか聞こえないぞ」
鼻で笑いながら言うナタスだが、語気はやや強めだった。どうやら、勘気に触れてしまったらしい。
実はナタスは、相対性理論に基づいた“時間の永続回帰”を用い、肉体の老化・負傷・罹病などを取り払った、“不老不死”の魔導師であった――これは、ごく一部の人間しか知らない、極秘事項である――。
だが故にこそ、“永遠”に続く“生”を嫌悪し、“永遠”に訪れぬ“死”を――“永遠を終わらせる”術を求め、旅をしているのである。
そんな彼にとって、“いくらでも時間がある”というのは皮肉以外の何物でもなかった。
「失礼致しました、マスター」
ナタスと共に同じだけの時間を生きてきたディアナにとっても、ナタスの心境はとてもよく理解でき、だからこそ彼女は彼に仕えているのだと言うことができた。
そのため、自分は少し言い過ぎてしまったと反省して、ディアナは素直に詫びる。
「やれやれ……」
ナタスは正直に謝罪する相手に対して、それ以上の憤りをぶつける気にはなれない。
完全に癖になってしまった嘆息とぼやきで、『この話はここまで』と言わんばかりに場を終結させる。
そしてその直後、空を見上げてまた嘆息と共に当面の問題についてぼやく。
「……遅い」
「アリアムさんは、“神”を信じますか?」
「へ?」
雑踏の中で、辛うじて聞き取れるくらいの小さな声でかけられた、問い。そのあまりに突拍子もないシルファの問いかけに、アリアムはすぐに答えることができなかった。というより、答えを持ち合わせていなかった。
特別な思想に寄るでもなく過ごしてきたアリアムにとって、“神”とは都合の良い時にだけ現れるものだったからである。
苦しいときには助けを願い、わからないことがあったときにはその説明として“利用”していた、というのが彼女の中の“神”だった。
そんなことを、『教会を預かっている』というシルファに、言えるはずがない。
「いる、ような、いない、ような……」
だから、シルファの問いかけには、明確に答えることができなかった。
しかしシルファは、そんなアリアムの曖昧な生返事に構うことなく、こう言った。
「私はね、“神が存在する”ことは信じているんです。でもそれは、皆が思っているような人物ではありません。“信じていれば救ってくれる”とか、“いつか幸せを授けてくれる”とか、そういったことは決してない、と……」
アリアムとの微妙な距離を保ったまま、顔を向けることもせず、淡々と話す。
「人と同じですよ。自分の都合の良い者だけを救い、それ以外は切り捨てる…… そう、醜い人間と同じ……」
捨てるように言い放つシルファは、本当に神職を預かる者なのかと疑ってしまうくらい、冷たい声をしていた。
声をかけてくれた時の、優しい雰囲気はどこにもない。
「シルファ、さん……?」
アリアムは今までとは全く違う不安を感じ、思わずシルファの――優しいはずの彼女の名前を呼んでいた。
するとシルファは、今度は急に足を止め、振り返ると、笑顔に変えて言った。
「くす……ごめんなさい。変なことを言ってしまいましたね。今まで神を信じてきたけれど、救われたと思ったことがなかったのでつい、愚痴ってしまいました」
その笑顔に妙な“ぎこちなさ”を感じつつも、アリアムは笑顔で応える。
「いいえ。誰にだって、愚痴りたくなるときくらいありますよ。私はきっと、そんな時にそんな事を聞いてあげるくらいしか出来ないと思うけど……」
優しい彼女が戻ってきたことも感じて。
「……ありがとう。さあ、もう少し探してみて見当たらないようであれば、最初の場所に戻ってみましょうか」
「はい……」
返される笑顔はやはり、どこかぎこちないままだった。
彼女の笑顔に、次にかけるべき言葉が見つけられず、どこか強張っているのだろうと自覚しながらアリアムも笑顔を返す。
と、その視線の先、笑顔の向こうに、見覚えのある顔を見つけた。
「あ、ナタスさん!」
名前を呼ぶと共に、ばっと明るい笑顔に変わって、ナタスの下へ走り出す――それが、居たたまれなくなった雰囲気からの逃避行であったことにも気付かずに――。
「ナタスさ〜ん!!」
荷物を引きながら――彼女の“バカでかい”鞄には車輪がついている――、ナタスの胸に飛び込もうかというような勢いで、走り寄って行く。
「っ! ……アリアム、どこまで行っていた?」
「わ、とと…… えへへ、“ちょっとそこまで”」
しかし、ナタスは身体が触れ合うよりも早く、身を翻してかわした。
アリアムは予想外だった行動に驚いて足を縺れさせたが、何とか転倒することだけは避けることができた。
転びそうになったことを隠すように照れ笑いをしながらも、心中では踏み止まって転ばなかったことに満足し、避けられたことを不満に思う。
そんなアリアムの意は介さず、ナタスは先の宣言通り、ややの皮肉をたれる。
「確か、飲み物を買いに行くと言っていたな。それがこうも時間がかかるとは…… 君はそんなに優柔不断な人間だったか? いやそれとも、しこたま飲んできたのかな?」
「むぅ…… そんな意地悪言わないで下さいよ」
頬を膨らませて抗議するアリアム。ナタスには、その様子が何だか紙風船のようで可愛らしく感じられた。
ただそれだけのことなのに、色々と文句を言ってやろうと考えていたのが、どうでも良くなってしまった。肩の力が抜けたような気がする。
「マスター、心配なさっていたんですのよ」
と、ディアナが逆に、自分の主人をからかいながら声をかけた。
「え、本当ですか?」
「そんなわけがあるか」
どこか嬉しそうなアリアムに答えながら、ナタスは恨みがましそうにディアナに視線を向けるが、今度は黒猫は謝罪することをしなかった。
「あ、はは…… ですよね」
「まぁ今後は、待たされる身のことも考えるようにしてくれ。セレスも、ご苦労だったな」
「オイラは、別に」
いつの間にか、ナタスの声には穏やかさが戻ってきていた。
セレスはそんな主人の様子を見ながら――本当に心配してたのか…… と感じつつ――、その時に出逢った、ある女性のことを話すべきかどうかを考えていた。
「ところで、よく帰ってこれたな」
からかいでもなく、皮肉でもなく、ナタスが率直な感想を述べる。
「あ、はい。あの人が一緒に探してくれたんです」
と言って、アリアムが振り返った。
しかし、彼女の言う“あの人”は、まるで氷の溶けるように、すでにそこにはいなくなっていた。
「どの人だ?」
「あれ、おかしいな? そこにいたはずなんですけど…… どこに行っちゃったんだろう」
首を振って周囲を見るが――おまけに上までも確認してみるが――、やはり彼女の姿は見当たらなかった。
急に消えてしまった友人、その最後の笑顔のことを気にかけて、アリアムは不安げに俯く。
「せめて、お礼が言いたかったな……」
「そうだな。アリアムをここまで連れてくるなんて、並大抵のことじゃないだろうし……」
「もう、またそんな意地悪を言うんですから!」
そう言って再び、ぷっと頬を膨らませたアリアム。その姿を見て、多少なりとも元気を取り戻せただろうか、と案じながら、今度はナタスが促す。
「さあ、行くぞ。もう一人、待ち合わせしている奴がいるからな」
「はい」
歩き出すナタス。それを追うアリアム。
案内役に先導されて、その後についていくという構図は変わらない。
アリアムは、今度こそ先行く人を見失わないようにと、しっかりとした足取りで歩き始める。
と、その時、耳の奥で声が聞こえた。
「アリアムさん……」
他でもない、シルファの声が。
「アリアムさん、急にいなくなってしまってごめんなさい。少し用事を思い出してしまったもので」
アリアムはナタスの方を見るが、彼にはこの声は聞こえていないようだった。先程、セレスの使った魔法と同じものなのだろうと、推察する。
「でも、お連れの方が見つかったようで、良かったですね」
だが、声は聞こえてくるだけで応えることができず、とてももどかしくなってしまった。
だから、多少周囲に変な目で見られようとも構わないとアリアムは思い定め、今はどこにいるかわからない友人に向かって声をかけた。
「はい。シルファさんのおかげです。ありがとう」
いっぱいの気持ちも笑顔に込めて。
そして、二人はまるで図ったかのように、同じ言葉を、同じ気持ちを、同じタイミングで、口にする。
「「また、会いましょうね」」
いかがでしたでしょうか?
そろそろナタスをださなきゃなぁと思って、彼のシーンを入れたのですが…… 妙な構成になってしまいましたよね。反省。
さて、次回は少しだけお話が進みます。今しばらくヌルイシーンが続きますが、これからもよろしくお願いします。