拾われ少女
覚醒した意識が最初に見たものは、窓からじっとこちらを見つめる二つの月だった。
まるで黒いキャンバスに描かれたかのように、窓のフレームにぴったりと収まった月は、互いに肩を寄せ合うように輪郭をにじませて触れ合わせていた。
輪郭がにじんでいるのは、寝起き直後の寝ぼけたピントのせいだとはわかったが、それにしても月がきれいだった。
青白い光を放ちながら双子のように寄り添っている月明かりが、記憶にある最後の景色よりも幾分か明るさを増しているように思えた。
「何時だ?」
部屋に備え付けの置時計を探すが、それよりも先に自分が腕時計をしたまま眠りについていたことに気付き、左手を引き寄せた。決して正確とは言い難いが、それでも大まかな時間を把握するには十分な、頑丈さを第一に作られた時計は、短信が三のあたりを指していた。長針を確認しなかったのは、この時計の長身で分単位の時間を確認する愚かさを知っているからだ。
「何だ、まだ寝れるじゃないか」
確か、あのどんちゃん騒ぎから解放されたのが日付が変わる直前だったはずだ。二人の強盗を引き取りに来たのと同じ警官があきれ顔で近所から苦情が来てるからさっさと帰れ、と言いに来たのはさすがにやりすぎだと思った。
特に起きる時間にあてがあるわけでもなかったが、少なくとも深夜三時は起きている理由のない時間ではあった。それはこの街に暮らす誰にとっても同じようで、眠りに落ちる直前まで祭りのように賑やかだった外の喧騒は、今では嘘のように静まり返っていた。
ぼりぼりと頭を掻きながらベッドに胡坐を掻いたリバーは、何を言うでもなく窓の外にじっと目を凝らした。
昼間に見た、祭りのような活気あふれる彩り豊かな街並みはそこにはなく、四角く切り取られた町は全ての命が死に絶えたかのように色彩を失っていた。
いや、色彩はあった。ただそれは命を感じられる色ではない、と言うべきか。
死後の世界を絵に描く時に人はこういう色を使うだろうと思えるような、冷たくさびしい寒色だけに彩られた蒼白い街がそこにはあった。見ているだけで魂が凍るような寂しさ。
一人で旅をする者であれば絶えず隣り合わせの、孤独のイメージ。それは、取りも直さず、
死
一歩足を踏み外せば常に人の隣人であり、しかし絶対的な距離を持って存在しているそれは冷たく、時には甘美に、ときには容赦なく、いざないの手を差し伸べる。
その身近さと絶対性を併せ持ったそれが、四角く区切られた窓の中に満ちている。数え切れないそれを見てきたリバーには、それが物理的にそこに存在しているように見て取れた。
「賑やかだったぶん、こういう反動がでっかいのはやっぱ好きになれねぇな」
ゆっくりと立ち上がって窓枠に手をかけ、一枚の絵のように月が照らす景色の中に上半身を覗きこませる。と、そこには吸い込まれそうな静けさと、凍りつくような明るさがあった。
一度だけベッドを振り返るが、真冬の寒さの中ならまだしも、中途半端に覚醒してしまった今は毛布のぬくもりはさほどの魅力を持ってはいなかった。
「ちょっと散歩して、んで寝るか」
きっとこのままベッドに戻っても眠れなくはないだろう。ただ、それまでに布団の中でしばらくもんもんと寝がえりを繰り返すことになるだろう。
それならば、というわけだ。それに、この時間の街というのは得てして水面下での活動が盛んであったりする。それは単純に深夜営業の何某かの店があるという意味でもあるが、むしろリバーの想定しているそれは昼間の世界からつまはじきにされた者たちの活動の場、という意味合いが色濃い。そういう輩の商売は、危険が伴う反面実入りもケタが違う。
ブーツのひもを締めなおし、窓枠に足をかけたかと思うとチラッとだけ眼下の地面を確認して体を宙に踊らせる。
軽業師のようにすらりと伸ばされた両腕でバランスをとり、舗装されていない道路に靴底がつく直前でゆっくりと膝を曲げて着地の衝撃を軽減する。かすかに砂利を踏む音だけが夜の通りに幾重にも残響を残したが、その音も夜色の布に吸い込まれるようにして溶けて消える。
外に出てみてわかるのだが、この街は世界樹がある割には街灯が少なく、月明かりと窓からこぼれるわずかばかりの明かり以外には世界樹の実が放つ赤だけが夜空に色を持っている。
この街は世界樹の利益を誰かが独占しているわけではないという果物屋の小僧の言葉を思い出す。おそらくは街灯一つにとっても共有の財産である世界樹のエネルギーを使うことを節約しているということなのだろう。となれば、ますます世界樹を街全体で共有している世にも珍しい構図が真実味を帯びてくる。
「とはいえ」
おかげで昼間と印象の違いすぎる街を、昼間の記憶を頼りにゆっくりと闊歩する。
「もうちょっと明るくてもいいと思うんだがなぁ」
わざわざ聞こえるようにそう言うと、さらに歩調を落として通りの真ん中を歩く。さすがにこの時間では車も馬車も通りはしないが、ど真ん中を歩く理由は他にあった。
三人
窓から飛び降りて五十メートルと歩かないうちに物陰からこちらを見る視線の数がその人数を教えている。
光が大きければそれだけ生まれる影も大きさを増す。昼に対して夜があるように、活気あふれる昼の対極に位置するのはその歪みに身を落としたもののなれの果てなのかもしれない。
ただ不思議なことに、こちらに向けられる三組六本の視線以外にも奇妙な感覚がある。
(まるで街全体が蜘蛛の巣みたいだな。とはいえ、何だこりゃ?)
とりあえずやることは一つだった。それまでと全く同じ歩調で通りを歩き、辻に差し掛かったところでくるりと向きを変えて右に折れる。ここで重要なのは、いかにそのあともまっすぐ歩いて行ったと相手に思わせられるか、だ。
果たして作戦は成功したようで、角を曲がってすぐのところにある看板に身を隠していると、にわかにこちらを追う足が速まったのがわかった。数は二つ、おそらく最後の一人は警戒して後ろから様子を見ているのだろう。それなりには連携の取れた連中のようだった。
(でも、素人なんだよな)
一つの足音が角に差し掛かったところでゆっくりと首から上だけを覗かせ、
「はい、いらっしゃい」
先手必勝を絵にかいたような一撃。ひょっこりと覗いた顔を思い切り右手で鷲掴みにし、そのまま地面にたたきつける。幸いにも足元は未舗装の砂利道ではあったが、頭の形に地面がへこむほどたたきつけられてはそれも関係なかったのかもしれない。
本人は用心していたつもりかもしれないが、あれだけしっかりと壁から顔をのぞかせていては狙ってくれと言っているようなものでしかない。たぶん、男は何をされたのか気がつかない間に意識が途切れたことだろう。
二人目に関しては不意打ちを食らったことには気がついたようだったが、それでも反応の隙は与えなかった。目の前で一人目が通りの向こうに引きずり込まれるように消えたのを見てその場にとどまったまでは良かったが、陰から飛び出してきたリバーの速度には全く反応できなかったようで、頬に手のひらを叩きつけられ、そのままコンクリートの壁に反対側の頬を叩きつけられ、これも瞬きほどの間に意識が途切れる。
「ってわけだ。悪いけど、こっちもおいそれと財布の中身くれてやるわけにはいかなくてさ」
叫ぶわけではなかったが、今の一連の出来事が確認できるほどの距離にいるなら聞こえるだろうという声で言う。
「てめぇ、邪魔すんのか?」
三人目が姿を現したのは、意外なほどに近くの路地からだった。もう少し離れていたかと思ったが、どうやら思っていたよりはできる手合いらしい。
「じゃま? こっちの散歩の邪魔してきたのはそっちだろ?」
「は?」
「ん?」
話がかみ合わない。こちらが何か見当違いをしているのではないかと、窓から飛び降りるところから今までの記憶を脳内で再生してみるが、やはりそれらしい個所は見当たらない。
「お前、俺達の邪魔をしにきたんじゃないのか?」
「あんたらが何してるかも知らないのに邪魔もへったくれもないだろ」
「じゃぁ何で?」
何となく言いたいことはわかる。
「そりゃ、こんな夜道でこっそり後ろをつけられりゃ、誰だって警戒するだろ。それこそ、俺みたいな流れものなんか殺されたって誰もかばっちゃくれないからな。自分の身は自分で守る」
正論か否かは別として、リバーの身に付けた見知らぬ街での護身術だ。結局は、自分を守れるのは自分しかいない。ただでさえ食いぶちを奪い合うようにして生きている世界で、よそ者と言うのはそれだけで理不尽な扱いを受けるものだ。
「ちっ」
男は露骨に舌打ちをすると、忌々しそうに回れ右をして歩き出す。捨て台詞の一つも残していくかとも思ったが、何も言わずに消えるあたり潔さは身につけているらしかった。
視線だけで眠っている男二人を、最後にもう一度だけ歩き去った男の姿が見えなくなったことを確認し、
「これでいいかい?」
先ほど自分が曲がったほうとは反対側の通り、リバーから見て右側の通りに体を向けおどけたような口調で言い放つ。相変わらず街灯が少ないため、通りを曲がって三軒向こうはもう闇に呑まれかけているような有様だ。
「どうして?」
闇が口を利いた。
ぼんやりと、淡い照明の中に浮かび上がるように人のシルエットが切り取られ、遠近法を無視したように両足が動く。
「あなたも、あいつらと同じ?」
ギリギリでシルエットが見える距離。おそらくは向こうから見てもリバーがギリギリ確認できる距離、ということなのだろうか、立ち止まった影は驚くほど淡々とした口調で言葉を紡いでいる。
それが、今しがたまで男に追われていた少女のものとは思えないほどに。
「だったら、さっさと逃げたほうがいいんじゃないのか?」
何がどう同じなのかを聞くようなことはしなかった。少女は、女というにはまだ少し時間を必要としそうな、女らしさよりもあどけなさのほうが目を引くような姿を月明かりの下に晒す。斜めに切り取られた陰から姿を現した少女の姿に、リバーは息をのむ。
踏み出した足音が、水面に生まれた波紋のように周囲の空気を乱し、次の瞬間に引き締める。
「そうしたいけれど、もう」
綺麗な娘だ、そう思ったのは流れる髪を見たからで、顔立ちに関しては表現する術をリバーは持ち合わせなかった。まるで計算しつくされた造形物を見せられているような、現実味を帯びないほどの美しさは、後から思い返せばあの夜の月明かりにいくらかは割り増しされていたのかもしれない。それを差し引いたとしても掛け値なしに綺麗な少女。それが重力に引かれるようにその場に崩れ落ち、
「こら! おい!」
限界だったらしい。
あわてて飛びつくようにして少女の肩を支えようとするがあまりにも細いその肩をわしづかみにするかどうかで迷った。その一瞬に少女の赤みを帯びた亜麻色の髪が流れ落ちてゆく。
「くそっ!」
滑り込みセーフで、自分の体を下敷きにして少女を支えると、一張羅のジーンズ越しに尻に砂利の感触が突き刺さる。たぶん破れてはいないはずだが、もしかしたらちょっとぐらいは擦り傷ができているかもしれない。
少女の体が鳥の羽のように軽い、などという妄想を抱くほどには子供ではないつもりだったが、あまりにも重量を感じさせない少女の体がどれほど華奢であるかは想像の範疇を超えていた。その程度にはまだ女を知らない。
「ちゃんと食ってんのか?」
気を失った少女の口元から一筋の血が、糸を引くように滴り落ちる。男らに追われている間もずっと歯を食いしばって逃げていたのだろうか。そう思うと、この年の少女にはどれほどの恐怖だったかは想像もしたくない。怒りよりも自分が男であることへの情けなさのほうがこみ上げてくるような気がして、リバーはふとそんなことを口走ってしまった。




