その男、昼行燈
結局、チャーハンに青椒肉絲だけでは飽き足らず、帰りの露店で焼き立てパンを購入してかじりながら街を歩いたが、さすがに数時間ぶらついただけでおいしい仕事にありつけるはずもなく、収穫がないままに夕暮れを迎えた。ただ一つ収穫だったのは、行商のようなことをしている若い男から、この街には街の中だけで荷物の配達や郵便物の集配を請け負うやつがいるということだった。うまくすれば、街の外に運び出す荷物にありつけるかもしれないとおもったが、そろそろ店じまいをする商店が多くなり始めた時間でもあるため、日を改めることにした。
すでにバーとしての営業が始まっていた宿に帰ると、昼間は見かけなかった男がバーカウンターの向こうでビールサーバーを操作していた。本人がビアダルのような体形をしているが、手先は意外と繊細に動き、見事な手際でふわりとした泡でジョッキにふたをしていた。
昼間のおかみの言葉通りに、店は早い時間だというのにそこそこの繁盛を見せ、テーブルは七割ほどが埋まっていた。
「はいおかえり。どうする、このまま食べてく?」
近くのテーブルに料理を出しながら、昼間のおかみが額に玉の汗を浮かべている。どうやら酒は親父が、料理はおかみが担当するようだ。
「いや、食べてきたから今はいい」
「そうかい。じゃあ呑んでくんだね」
そう言ったかと思うと、次の瞬間には後ろのカウンターに目配せをし、それを受けた初老の男が琥珀色の液体を背の低いグラスに注いでいる。
苦笑いを浮かべるしかないリバーに女将は得意げに笑い、瞬く間に次のテーブルに、半ば強引ともいえるオーダーを取りに行っている。体型に似合ったバイタリティではあったが、それが嫌味に見えないのはもしかしたらある種の才能なのかもしれない。
そんなことを思いながらリバーは手近な椅子に腰かけ、ぐるりと周囲を見回した。入口の向こうからは、仕事上がりの陽気な話声やそれを狙った呼び込みのにぎやかさが、遠い記憶の中の音のようにぼんやりと響いてくる。
薄っすらと汚れたガラス窓から見えるのはオレンジ色に染まった街と、少し浮足立った喧騒に彩られた往来、そして夕日を浴びて昼間とは全く違う色彩をはなつ世界樹のシルエットだった。ただ、世界樹に限っては夕陽のオレンジだけではなく、その実が放つ淡い光が陽光のオレンジや影の黒の中に赤く、花のように咲いている。空にまだ星はなかったが、東のほうからは濃紺色をした夜の空気が一呼吸ごとに街を覆い始めていた。
「はいよ、お代は帰りにね」
つまり、ここにいる間はうちで飲み食いをしてくれよ、ということだろう。
曖昧に苦笑いを浮かべたリバーは、運ばれてきた琥珀色の液体に目をやると、薄暗い照明を反射してゆらゆらと金属のように輝きながらリバー自身の目を映し出していた。
とろりとした液体はその純度を現しており、それが相当の強さであることを物語っていると同時に、水で薄めていないことを証明しているようでもあった。
口に流し込むと、久しぶりのアルコールの感触に舌やのどがひりつくほどだったが、あっという間それは心地よい苦味に姿を変え、気がつけばすでにグラスの半分ほどが胃の中に消えていた。
それからの一時間ほどは残りの半分をなめるようにして味わい、日が落ちるほどに賑やかになってゆく店の中を眺めていればあっという間に過ぎて行った。
店内にいる客の半分ほどが入れ替わり、目が回るのではないかと思うほどにくるくるとフロアを走り回っているのは小間使いと言うのがふさわしいような少年だった。店の中も外も賑やかさのピークに達しようとしているのが容易にわかったその時に、予想外にというか案の定というか、店の隅から怒号が湧きあがった。
最初は火種のような言い合いが時折耳い届く程度で、おかみや周りの常連が冷やかし半分に諌めている程度だった。もちろんリバーにとっては、これが酒を飲む場所でのいつもの光景とでも言うように、視界の隅にもとどめてはいなかった。
ただ、それがいつもの酔った上での乱痴気騒ぎではないとわかった時には、すでに火種は導火線に引火し、あとは火薬に届くだけというところだった。
テーブルが蹴りあげられ、砕け散ったグラスの欠片に隣近所の客は転がるようにして逃げ出し、片方は右手に割れた瓶を左手にはナイフと呼ぶのが憚られるような長大なナイフが握られていた。そしてその対面、ナイフの男がテーブルを蹴りあげる間にもう一人の男は、どこからか取り出した散弾銃を相手の鼻っつらにつきつけていた。
絵にかいたような一色即発。
発狂した画家の手による一枚の絵のような光景で固まった光景に、誰もが言葉を失い、警察への通報を考えられたものなどもちろんだれ一人としていなかった。あの女将ですら仲裁するのを忘れて二人の一挙手一投足に見入っていたが、それでも手にしていたジョッキを的確に客に届けたのはさすがとしか言いようがなかった。
「てめぇに何がわかる!」
随分と酒が入っているらしかったナイフの男は、呂律は怪しいながらもなんとかそう叫ぶ。ぶるぶると手元が震えているのは酒のせいか恐怖のせいかはわからない。
「わかるからこうして話してやってんだろうが。その気もしらねぇでてめぇ勝手なことばっかぬかしやがって、もう我慢ならん!」
対してライフルの男ははっきりとした口調だったが、こちらも真っ赤になった顔と若干焦点の合わない視線が完璧に酔っぱらっていることを教えている。
「んだとこの野郎、やんのか!」
「ざけんなこのやろう! てめえの脳グソぶちまけて犬の餌にするなんざ一瞬だぞこら!」
「おう、だったら!」
一瞬だった。
ナイフの男がちらりと店内に視線を向け、散弾銃の男がそれに呼応するように引き金にかかる指先に力を込める。
「有り金全部だしな!」
ナイフと割れた瓶の切っ先が、一番近くで事態を傍観していた男の首元にそれぞれ突きつけられる。と同時、ライフルの銃口があろうことか女将の眉間をしっかりととらえる。
「わるいな、いいもん見せてやった見物料だ。有り金全部置いてとっとと消えな。女将、お前は今ある売上全部だ!」
店内の空気が嵐のように全く違った方向に流れ、瞬き一つ許されないような緊張感が店の入り口までパンパンに膨れ上がる。
おそらく、ただの強盗程度ならここにいる連中はこの半分も驚かないだろう。その程度にはこの街は平和で、その程度には無法地帯だった。女将に至っては、笑っていなしてしまったかもしれない。それが、完全に自分たちには関係ないと高をくくり、安全圏にいると思いこんでしまったところへの不意打ちだ。これほど意外で効果的な強盗手段も珍しいかもしれない。
かくして、悲鳴一つ上げずに男たちはナイフ一本と割れた瓶、そして一丁の散弾銃で店にいる全員をまんまと制御化においた、というわけだ。
ただし、
「女将、おかわり」
男たちの計画の範疇に入らないやつが一人だけいた。
リバーが空になったグラスを振り、あろうことか立ち上がって自らカウンターに向かおうとさえしている。
「おい」
不機嫌そうにどすの利いた声で散弾銃の男がつぶやく。先ほどまでの激昂したような口ぶりは演技だったようで、その口調には今は酒の気配も感じなければ先ほどの軽薄そうな雰囲気はみじんもなかった。しかも、銃口はいまだしっかり女将に向けられたままだ。
全く聞こえないふりでリバーは店を横切り、カウンターに肘を置きながらグラスにビンの中身をあける。トクトクというバーボンが流れる音までが店中に届き、あきらかにそれにいらついた散弾銃が再び、今度は先ほどよりも声を荒らげながら口を開く、
「てめぇ!」
同時に銃口が女将から外され、向けられただけで気の小さい奴なら死にそうな勢いで照準がリバーをとらえる。
それが、男の見た最後の光景になった。
銃口を向けた先にはいるはずのリバーの姿はなく、代わりにどんどん大きくなる琥珀色の塊。それがビンであり、琥珀色は中身の液体の色だということに気がついた時にはビンが男の顔面を直撃する、
がしゃんっ!
ドンッ!!
二つの音がほぼ同時に鳴り響き、一瞬にしてむせ返るような火薬の臭いと酒の臭いが店中に充満する。
「はい、よそ見しない」
次の音は声。
全員の意識が散弾銃の男に向けられた瞬きほどの間に、人の波を縫って走ったリバーが現れたのはナイフの男の懐数十センチのところ。ナイフと素手ではどちらが有利とも言えない極めて微妙な間合いだった。
ただし、それはどちらもが極限に集中をしていれば、という前提があってこその話であり、散弾銃の男がやられたことに動揺した状態ではどんな間合いも有利足りえなかった。
ナイフが翻った時にはリバーの無造作な蹴りが男の鳩尾に突き刺さり、目を剥いたまま気絶した男は自分がぶちまけたガラス片の上にあっけなく崩れ落ちた。
時間にしてわずか三秒に満たない、まさに瞬間芸。
誰一人として動くどころか息をすることもできないような静寂の中で最初に動いたのはやはり、あの女将だった。
「すごいじゃないかあんた!」
その一言をきっかけに店中から拍手と喝さいが沸き起こり、あっという間に店は元の活気を取り戻し、それどころかお祭りのような大騒ぎへと発展してしまう。
隣にいるおっさん同士で抱き合うもの、誰のものともしれない酒を一気にあおって奇声を上げるもの、便乗しようとそれまで遠巻きに外から眺めているだけだったものまでが店になだれ込んできて、小間使いの少年はそれに次々と酒を売りまくっている。
リバーの周りにはあっという間に黒山の人だかりができ、やれこれを飲めあれを食えとテーブルの上には山のような食い物と浴びてもなくならないほどの酒が用意されていた。
傍らには誰が縛り上げたのか、頑丈な麻のロープでこれでもかというほどにぐるぐる巻きにされた強盗二人組が粗大ごみのように店の隅に打ち捨てられている。
「あんた、ただの配達屋じゃなかったんだね? ありゃなんだい? 本職は用心棒かなんかじゃないのかい?」
礼だと言わんばかりに、先ほど出されたものよりもずっと透明度と粘度の高い酒を瓶ごと置いた女将が満面の笑みを浮かべてリバーの向かいに腰をおろした。少し上気したピンクの顔は恐怖の裏返しだろう。
「そんなもんじゃないよ。自分の身を自分で守って暮らしてきただけだ」
確かに用心棒を頼まれることも少なくはなかったし、一時期はそれを本職にしようと街に居つくことを考えたこともなかったわけではない。ただ、そうした商売の欠点は敵を作ることであり、それはもちろん街に居つくこととは相反する道理でしかない。結局最後に落ち着いた時は流れの配達屋を営みながら必要に応じて対象の護衛なんかもやる。
「黒髪のバイク乗りで凄腕の用心棒。これで赤い眼をしてりゃぁ伝説のお尋ねものなんだがなぁ」
「違うだろ、そりゃ壊し屋だろ」
「赤目の殺し屋なんてほんとにいんのか? 賞金稼ぎにとっくに狩られたって話だろ?」
「そもそも実在すんのかよ? ライフルの弾でも避けられるなんて、完璧なフカシだろ?」
先ほどまでの緊張の糸が溶けたのと一気に酒が回ったのとで次々に男たちの口から言葉があふれ出る。
曰く赤い目の悪魔。曰く人の形をした兵器。曰く史上最高額の賞金首。曰く人間大災害。
歩いた後にはぺんぺん草一本残らないといわれる伝説の破壊魔。そんなおとぎ話のような存在に話が及んだのは今日の恐怖をさっさと酒で洗い流すためだろう。
リバーはそんな話を聞くともなしに聞きながら、女将から出されたバーボンを流し込むと、先ほどのものよりもずっと強い熱気が喉を焼いたが、風味も味も先ほどのものとは比べ物にならないほどの上ものだった。
自分が話題の中心からそれたことにはほっとしたが、どうやらこの酒盛りは自分を放すつもりがないらしいことに気がついた時には、半ばあきらめ気味にボトルを半分ほど開けていた。
こうして、世界樹に愛でられた街の夜はいつもどおりに更けていった。




