最悪な災厄
無意識のうちによほどの早足で歩いていたのか、リバーの目の前には先ほどよりもさらに巨大な世界樹が、もうシルエットではなく、幹のしわ一つまでがはっきりと見せている。さすがに樹高がありぎて葉の一枚実の一つまでははっきりと見て取ることはできなかったが、明らかに世界樹の息吹が感じられる距離だった。
葉が風になり、実はうっすらと明滅し、幹は迫る異常に対して怯えているかのように脈打っている。これほどまでに世界樹の活動が活発化しているのは、あの時以来だ。
どうやら間違いないらしいことを改めて実感する。
「しかし、世界樹が怯えている、か」
自分の恐れが世界樹に投影されただけなのだと、自嘲気味に笑みをこぼす。そんな風に感じられるセンチメンタルな部分が自分の中にあることが少しおかしかった。
「ラシルといたせいかもな」
ふと、無感動なのか感情表現豊かなのかわからない、ここ数日の旅の連れのことを思い出す。
「最悪だ。生きてるうちに二度もあんなくそったれな実験に付き合わされるなんてな」
工房街を抜け、住宅地に背を向けるようにして街の中心地を目指していれば必ずその先に世界樹があるのはどの街も同じだが、この街のそれは小高い丘の上にある。
そしてそのふもとにはぐるりとフェンスに囲まれ、侵入にも脱出にも命の支払いが必要なほどに厳重な警備が敷かれている。
はずだった。
数多くの商工会やその他もろもろの権利団体が独占を恐れたせいで構築された利権構造は皮肉にもその頂点となる存在を生み出してしまい、結局は自己欺瞞と自己保身としか考えられない者たちによって歪んだ安定が築き上げられた。
そして今、リバーはその歪んだピラミッドの頂点の前にいる。
「一人や二人いるはずだけどな、普通」
護衛が全くいない。
通常であればハリネズミのように武装して人の命など塵芥とでも言いそうな物騒なやつらがありの子一匹と押しそうもないほどに警備の網を張り巡らせている。にもかかわらず、今目の眼で世界樹を守っているのは頑丈そうな鉄のフェンスただ一つだ。
しかもご丁寧に、アヴァルタの屋敷の門に至ってはあけ放たれている。さらにその向こうでは屋敷の扉までもが風に揺れて口を開いたり閉じたりしている。
しばらくは罠かと思ってじっと門柱の影に身を潜めていたが、罠にしては露骨すぎる上に、屋敷からは人の生活のにおいが感じられなかった。
窓を見ても、日も暮れたこの時間にランプの明かり一つ漏れてはこない。
「今更こんなとこで罠にかけるとも思えないしな」
意を決したリバーが敷地に一歩踏み込む。
銃には六発の銃弾が込められ、引き金には指がかかったまま。
一歩、また一歩と奥に進むが何かが出てくる気配は全くない。それどころか、近づけば近づくほどにそこがまるで廃墟のような空気に包まれていることがはっきりと匂ってくる。
まるで、何年も人の手が入らないままに放置されたような饐えた気配。それがはっきりとアヴァルタの屋敷からは漂ってきている。
「こりゃ、思ったよりことが進んでんのか?」
アヴァルタの名前が必要なのはこの街で活動を起こす初期段階だけ。動き始めてしまえば何とでも駒を動かせる。それが証拠に、あのブランという女はフリードに直接指示を出していた。しかも、リバーの存在を計画の進行に邪魔だと判断した上での指示は巧妙と言わざるを得ないほどだった。
となれば、アヴァルタに持ちかけた話は何であれ、その存在理由がなくなる段階までは話が進んでいると考えて差し支えはないだろう。
乱雑に扉を蹴り開け、かなり大雑把な足取りで屋敷の中を歩き回る。
高級なホテルのようなフロントにダイニング、調理場、パーティでも開いていたのだろうか、ダンスホールまで備えてあったがそのどこにも、案の定人の姿はなかった。しかも、どこを見ても生活の痕跡が、少なくともここ数日分は感じられない。
キッチンはよどんだ水の臭いがしていたし、ダンスホールやフロントにはうっすらとほこりが積もっている。ダイニングには誰かが飲んだままにした、冷たくなったコーヒーカップが置いてあった。スプーンについたコーヒーの跡は、きっとしばらく水につけておかないときれいに洗えないだろう。
「まずいかもな」
最悪の状況も想定して屋敷の中を歩き回る。が、結局はどこもかしこも同じように生活の痕跡が見てとれないばかりか、本当にこの屋敷に人が住んでいたのかさえ疑わしくなる。そんな中で、ようやく空気の異なる一室を見つける。
埃の上に着いた足跡と、鍵穴から漏れるかすかな明かりは少なくとも他よりも最近まで人が出入りしていたことを告げている。
「さて、これが当たりかはずれか」
ノブに手をかけてゆっくりとひねる。鍵はかかっていないようでゆっくりと扉が引きあけられる。ちょうつがいの軋む音が鬱陶しかったが、どうやらそんなことは気にしなくてもよさそうだ。
「あんたが、アヴァルタか?」
書斎だった。
古い本独特のかびたような臭いとともに、ツンと鼻を突く臭いはあまりにも濃密すぎて、それが植物の臭いだとは気付けなかったほどだ。
こちらに向かうようにして豪奢な机と椅子。そこに腰かけるのは一人の老人だった。
いや、老人のように見えた、と言うべきだろう。
よく見れば年齢的にはリバーより少し上といったところだろうか。
ただ、くすんだ肌も落ちくぼんだ目もすっかり白髪になってぼさぼさの頭も、何もかもが男の年齢を隠してしまっている。
返事のない男にリバーはゆっくりと歩み寄る。
異様なのは、世界樹のものと思しき根が書斎の半ばまでせり出してきていたことで、おそらくは地中から引きずり出してここまで持ち上げたのだろうが、そこには新しい枝や葉が生い茂っていた。パッと見ただけでは幹か根かの判断がつかないほどだ。
むせ返るような緑の臭いは、まるでここが森の真ん中であるかのように錯覚するほどだ。
机のすぐ隣に来て、返事がない理由を知る。
「ぎりぎりアウト、か」
こと切れたアヴァルタと思しき男の体はすでに体温を失っており、絶望の中で見開かれた瞳だけが、入ってくるはずのない誰かを待ちわびているようだった。
「ま、騙された方が悪いって言うつもりはないけど、人の手に余るものに手を伸ばした結果がこれでは、報われないな」
おそらくは永遠の命だとか若さだとか、それに類する何かを持ちかけられ、その甘言に命まで吸い取られてしまったのだろう。金や地位を手に入れた人間は必ずと言っていいほどに同じものを求め、得られないままに老いてゆく。それが手に入ると言われれば、誰だってこうなるのだろう。
「馬鹿だよな、人間ってのは」
込められているのは嘲りではなく、憐み。
「こんなもん手に入れたって何にもいいことはない」
リバーの言葉はアヴァルタに対してではなく、ただそこにある人の愚かさに対しての独白ですらなかった。
「それでも手に入れようと足掻いて、こんなひでぇことまでして、これ以上奪って、どうしたいんだよ」
それは、人と言う生き物に対する自己嫌悪。そして、
「なぁ、ウォード」
五十年前のあの日、すべての災厄の中心となった男の名。五十年という気が遠くなるほどの時間をかけて追い掛け、求めてきたリバーの目的地の、それは名前だった。
その言葉に答えるように、足元が激しくれる。
窓はガタガタと揺れてガラスにひびが入り、そこらじゅうにあるものが床にばらまかれると、それまで止まっていた時間が一気に動き出したかのように埃が舞いあがり始める。
「何だ?」
あまりの煙たさに耐えかねたリバーはガラスの割れた窓を思い切りけり開け、新鮮な空気を吸うべく窓の外に上半身を突き出す。
「なん、だ?」
息をするのを忘れたせいで鼻の奥にはまだ少し埃っぽい臭いが残っていたが、それもすぐに掻き消える。
体中を駆け巡ったのはむせ返るほど濃密な緑の香り。森の香り。
そして、目の前にはうっそうと生い茂る森が現れていた。少なくとも、リバーが屋敷に入るときにはこんなものはなかったはずだ。
「ここまで世界樹が活性化してるってことか? いよいよもってだな」
神をも思わせる生産能力で植物の成長を促進させ、森すら生み出す世界樹の力を改めて実感させられる。
背後では引きずり出された世界樹の根が、心臓を思わせる動きでゆっくりと脈動している。時折その中をうっすらと赤く輝く何かが流れてゆくのが確認できる。
それまでただの野原でしかなかった場所は一瞬にして森へと姿を変え、そこには今すぐにでも一つの生態系を構築できるほどにまで成熟している。もしかしたら視界を埋め尽くしているこの無数の植物もも、成長が促されたのではなくゼロから作り出されたのではないか、そんな考えさえ浮かんでくる。
「間に合わないかもしれないな」
予想をはるかに超える事態の進行に、リバーは唇をかみしめる。右手でいつの間にか力いっぱい握りしめていた銃のグリップは、じっとりと汗ばんでいる。
首筋を嫌な感じのする冷たい汗が流れているのに、脳みそだけは沸騰寸前に熱くなって今すぐ癇癪を起してしまいそうになる。
「バックレたほうが、賢いな」
そんな言葉とは裏腹に、窓から飛び降りたリバーは木の幹や枝に器用に手足をひっかけながら根元まで滑り降りてゆく。体で感じて改めて思うのだが、ほんの一瞬で育て上げられたとは思えないほど巨大な木は、おそらくその成長過程を感じさせないほどにしっかりとしているのだろう。
靴の裏はしっとりと湿った草の地面を踏みしめる。
「でも、だめなんだよな。損な性分だ、くそ」
靴の底にみずみずしい草の感触を感じながら歩く森には、月の明かりも届かなかった。それでもなお明かりなしで歩くことができるのは、おそらくは完全な闇ではないからだろう。どれほど枝葉が密集して生い茂ろうと、植物は必ず足元にまで光が届くように設計されているという。
神は細部に宿るなどという言葉があるが、まさにこのことなのだろうと感心してしまう。
「とはいえ、その神様のおかげで今大ピンチなんだけどな」
誰に言うともなくそんなことをこぼしてしまうのも、以前ではなかったことだ。せいぜいが考えるだけで言葉にすることなどなかったはずなのに、どうやらここ数日の旅で思考を言葉にするという習慣がついてしまったらしい。
そんな自分の変化がおかしくて、リバーは思わず口の端を釣り上げてほくそ笑む。
枝を押しのけ、小さな若木を蹴りのけるようにして進んでいると、いつの間にか地面はなくなっていた。あるのは地衣類にびっしりと囲まれた巨大な木の根と絨毯のようにうっそうと生い茂る下草だけ。空気はすでに濃密な湿度で、水の中を呼吸しているような錯覚にさえ陥る。それでも呼吸が乱れないのはおそらくは濃密な酸素のおかげだろう。
「いよいよ大ぴ~んち」
茶化すような口調はもちろん自分をごまかすためだ。そんなことでごまかせるとは思ってはいないが、そうでもしないとやってられない。これ以上の酸素濃度の上昇は即座に命の危険に直結する。
濃密すぎる酸素は、毒だ。
引き返すべきか、そんな考えが脳裏をよぎる、いや、冷静に考えればもちろんそれが正論なのはわかり切っている。状況もわからなければ自分がどこに向かっているのかも定かではない。しかもその先が、本当に向かうべき場所であるという確証もない。
ただ、直感に従って世界樹を目指すという愚行に命をかけるのかという問いなのだから、答えは決まり切っている。それでも、
「なんで俺、焦ってんだろな」
忌々しげにブーツの底で巨大な根を蹴りつけ、大きくため息を漏らす。吸い込む空気はかつて味わったことがないほどに濃厚で、旨い。
「たぶん、これのせいだ。こんなもんが聞こえてくるから。ったく、ほんとめんどくせぇ荷物拾ったもんだ」
絶えず風に鳴る木の葉も、音を立てるほどに成長する木も飛び越して耳にずっと聞こえているのは、今にも消え入りそうな歌声。
バイクを走らせていると、時に楽しそうに、時に眠そうに、覚えてしまうほどに聞こえていたあの歌だ。
「ってわけで」
かき分けるようにして背丈ほどもある草の中に押し入り、踏み込んだ先は森ではなかった。
そこだけがスポットライトを浴びたように青白い光が差し込み、昼間のような明るさに一瞬目がくらむ。
その中で無言ながらも圧倒的な存在感を誇る巨木。
世界樹の幹。そして、
「あら、お早いお着きで」
言う割にはシッカリとこちらを見据えて、準備していましたと言わんばかりのセリフで出迎えたブランがゆっくりとした動作で立ち上がる。さすがにフリードが絶世の美女と評しただけあって、月明かりの下でまじまじと見つめるその美貌に陰りはない。
だが、リバーの眼に映ったのはもちろんそんな美しさではなかった。
「リバー」
それまでリバーの知るどの瞬間のラシルよりもか細い声で呼ばれた名前が、耳に痛いほどに突き刺さる。
十字架に磔にされる聖者のように、世界樹に打ち込まれた手枷と足枷がラシルの自由を奪っていた。薄っぺらな布一枚に包まれた線の細い体が恐怖に震えているのがわかる。
「迅速確実、配達屋の仕事には必須だからな」
月明かりの青白さの中にあってさえ世界樹の幹はうっすらと輝いているのがわかるほどで、ほんのりと赤い光がラシルを中心に周囲を照らし出していた。
「あはっ、あなたのそういうとこ、嫌いじゃないわ」
ブランの手が泳ぎ、指先が裸のラシルの体をなでる。
「そうか。ならその俺のお願いだ。荷物返してくれないか? 種さえあればあんたらにはそっちは用なしだろ。そりゃ俺んだ」
「どうしようかしら。お姉さん優しいからお願い聞いちゃいそう」
「ありがたいな。ついでと言っちゃなんだが」
そこからの一瞬に起きたことを時系列で追うことは神様でも不可能だ。
リバーは最速のクイックドロウを見せる。マナーは守ったつもりだ、きちんと言葉を終わらせてからトリガーを引いた。もちろんその動きは常人はおろか、どれほどの達人超人でも追えるはずはない。
絶対に当たるという物理法則が存在するかのような一発の弾丸は、音の速さで視界を横切り、そして、
「おしい」
背後の世界樹が音を立ててえぐれ、幹の破片がはじけ飛ぶ。
「まさかあれが当たらないなんてな」
二発目、三発目も完ぺきに動きを読み切ったはずだった。にもかかわらずコマ落としのような動きでブランは、紙一重で銃弾かわす。はじけ飛ぶ世界樹の破片は月明かりにキラキラと輝き、とても植物とは思えないほどだ。
「乱暴なのは嫌い。でもそういう緊張感は好きよ。と言うわけで出血大サービス」
相変わらずのあざけるような口調で頬笑み、ブランは踊りでも踊るようにステップを踏む。軽やかな動きからはとても銃弾をよけるような速度は想像もできないが、現に三発の銃弾がその体をとらえられずに背後の闇に消えた。
そのカラクリがわからなければ勝ち目はないのはもちろんだが、今はそんなことよりもブランの指先がリバーの意識をくぎ付けにする。
どこから取り出したのか、モデルのようなきれいな人差し指と中指で挟まれているのは、赤く輝く小さな塊。
世界樹の種。
「この老いた世界樹を依代に、この世界樹の種を触媒に、ウォード様は帰ってこられるわ。神の肉と神の力を手に入れて、私たちに永遠を授けてくれるの」
ほほ笑む瞳には、先ほどまでの美貌とは違った色の輝きがあふれていた。
狂信、そんな言葉がしっくりくる。まさに思考を超え、信条の行きつく先にあるものがこれだと言わんばかりの視線は目の前のラシルも種も見えてはいないだろう。そのために今まで何を犠牲にしてどれほどのもを得てきたのか、想像したくもない。
「あの男にそれほどの価値があるかね?」
皮肉にもならないだろうと口にしたリバーの言葉に、果たしてブランはぴたりとその動きを止める。睨みつける動作には優雅さのかけらもなく、その瞳には容姿からは想像もつかないおぞましさがにじみ出ていた。
「お前、ぶち殺すぞ」
豹変、そんな言葉のままにブランの何もかもが変わった。
スイッチが入ったとかそんな生易しいレベルの変化ではない、人格そのものが根本から入れ替わったとしか思えないその言動は、リバーの本能をダイレクトに抉る。
やばい
「あの方の意向がなければ」
見えなかった。
いきなり目の前に現れたブランは情け容赦なくリバーを蹴りあげる。無造作な一撃のはずなのに、全く知覚の外から来た一発を避わす術などあるはずがない。
「あなたのようなクズ虫を生かしておきはしないのに」
「げぁっ!」
吐しゃ物をまき散らし、リバーは背後の木の幹に半ばほどまでめり込む。あばらが二、三本おかしくなっていたが、多分ひびどころではないだろう。肺に刺さっていないことだけが不幸中の幸いだ。
普通の人間なら五体満足でいられるかどうかも怪しい一発をもらって、皮肉にもリバーは自分の体の特異さをかみしめる。
「まったく、これだから下賤の輩は。これから起こることの気高さを理解しないというのなら生きている価値もない。まあ、あの方が現れればすべて消し尽くしてくれるでしょうけど」
再び従来の穏やかな動作と口調に戻ったブランがくるりと振り返り、手にした世界樹の種を高々と掲げる。
「さあ、始めましょう」
その言葉にも動作にも一切の淀みはなかった。まるで今から自分のすることが絶対の正解だとでも言うように、躊躇いのない動きで掲げられた右手がゆっくりとおろされ、
「ぅあっ!」
ラシルの体が小さく痙攣し、閉じられたままの瞳が苦悶に歪む。
「やめろ、何やってんだ」
ラシルの上に掲げられた世界樹の種が、吸い込まれるようにしてラシルの胸元に落ち、ゆっくりと光を放ち始める。
何とか木の幹からひっこ抜いた体は、たった一発もらっただけだというのにボロボロで、指先一つ動かすだけで体中が搾り上げられるような痛みが走った。いったいどれほどの打撃を受ければこうなるのかなど、考えるのも吐き気がする。
「何って、簡単でしょ。この女は世界樹の種と同化してもらったの。この種の生命力を最大限に引き出すための触媒、ってとこね」
さらりと言ってのけるブランに、もちろん人の心は感じられるはずもない。
「っざけんな! なんでラシルを巻き込む!」
悲鳴を上げる体を振り回してリバーは残りの三発を撃ちつくす。もちろん、当たるはずのない弾丸はプラチナブロンドの髪に弄ばれるように虚しく闇の中に消え、はるか向こうで弾けた。
「ラシル! 帰るぞ!」
その隙を突いた、などという甘っちょろい理屈が通じる相手ではないことなど重々承知だ。それでもリバーは、トリガーを引き終えると同時に思いきり地面を蹴り、うめき声をあげるラシルに駆け寄る。枷を力任せに引き抜き、抱き寄せたラシルの体は驚くほど軽かった。
その間にも輝きを増す淡い光がラシルを包んでいる。
「あら、困るわねぇ。それ持ってかれるとうまくいかないのよ」
よほど余裕があるのか、ラシルのすぐそばにリバーが寄り添うさまを見ても顔色一つ変えず、髪の乱れを直すブランが妖艶な笑みを浮かべている。
「黙れ! ラシル、行くぞ。その種を然るべき場所に届けるのがお前の仕事なんだろ?」
差し出した手を、意識があるのかどうかも怪しいラシルの手が掴む。
焼けつくような熱さが手の平から全身に伝わり、鼓動が何倍にもなったかのような強烈な脈動が全身を貫いたが、決してそれは不快なものではなかった。むしろ、内側から破裂しそうなエネルギーは力強さを感じさせる。
ラシルから伝わる力強さと自分の内にある力、それが命の力であることを直感的に理解する。
「もう駄目。あの方が戻ってこられるわ」
ブランは唇を三日月形に歪めて壮絶な笑みを浮かべながら、シャツの胸元からネックレスのような鎖を手繰り始める。その先には小さな瓶がぶら下げられており、中に満たされた液体に真っ赤な球体が浮かんでいた。
何も言われなければ、それも世界樹の種だと思っただろう。
それを見た瞬間に、リバーは再装填した六発の弾丸をすべて撃ちつくしていた。
ただ恐怖に駆られてパニックトリガーし、絶叫とも咆哮ともつかない雄叫びとともに神業のごとき速撃ちで撃ち出された六発が、あろうことか今度はブランの肩口や腕の肉をえぐり、確実に急所を貫いた。
恍惚とした表情のブランを。
おそらくは自分の肉体の損傷ですら意識に上らないほどに、その時のブランは魅入られていたのだろう。
小瓶の中に浮かぶ、真っ赤な眼球に。
「うふ、うふ、たまらない。この瞳に見つめられるこの時間以上に幸せな時間があるなんて、ねぇ、そう思わない?」
致命傷とも思える失血は純白だったコートの左半分を朱色に染め上げ、唇はがくがくと震えているが瞳だけは悪魔との契約に成功したかのようにトロリととろけそうな快感に浸っている。
「どうして! なんでお前がそれを持ってる!」
リバーの絶叫。
苦悶の表情を浮かべながらうずくまるラシルの体は、すでに全身が真っ赤な光に包まれている。その輝きに呼応するように、世界樹の幹にも脈動する赤い力の流れが見えるようになっていた。
「どうしてお前が、俺の眼を持っている!」
手は意識を離れて何千回何万回と反復した動作をこなし、右手は確実にトリガーを引く。
「どうしてぇ! おまえがぁぁぁぁ!!!」
ツンと、外套の裾が引かれる。
発射された一発がかろうじてブランの耳元をかすめ、幾本かのプラチナブロンドが光の中にゆっくりと舞う。
「はぁ、はぁ、は…ぁ」
肩で息をしている。まるで何十時間も首を絞め続けられたかのような息苦しさに、意識がもうろうとする。
「お願い。もう、あなただけでも、逃げて。」
外套の裾を掴み、必死にリバーを引き戻そうとするラシルの胸元に、ひときわ赤く輝く世界樹の種が埋め込まれている。半分ほどを覗かせて、残りの部分はどうやらラシルの体と一体化しているらしかった。
「お前…」
「大丈夫、もともと私が、持ってたものだから、大丈夫」
そんなはずはない、強がりもいいところだ。すでに光は直視できないほどに強く、そばにいても温かさを感じるそのエネルギーの量が直接体に流れ込んでいるとすれば意識を保つのもやっとのはずだ。
「あぁ、ほらもうそこまで!」
もはや外界のすべてから隔絶されたように一人快楽の境地に至ったブランは、完全に正気を失った瞳で小瓶に浮かぶ眼球を見つめ、真っ赤に発光して大きく脈動し始めた世界樹に寄り添い、頬ずりをしている。
「やめろ! そうなった世界樹は」
そんなリバーの言葉も届くはずもなく、光に包まれたブランは恍惚とした表情のまま粒子へと姿を変えて霧散する。
「ここまで活性化した世界樹は、物質の生産すらも超えて、すべてをエネルギーへと昇華させる。文字どおり永久機関だ。ただ」
ブランが姿を変えた粒子に包まれるようにして、赤い光がゆっくりと明滅しながらこちらをじっと見つめている。
「お前だけはそうはいかないみたいだな」
忌々しげに吐き捨てるリバーに、眼球が答えるように輝きを増す。そして、声が聞こえた。




