はめたりはめられたり
宿に帰ると同時に紙袋の中身をテーブルの上にぶちまけ、紙パックのオレンジジュースを投げてラシルに渡した。タンドリーチキンとナンは半分ずつ食べるとして、ケバブはどうやって分けようかと考えていたところでラシルが遠慮なくケバブに手を伸ばす。
ばっくりとかぶりついて中の羊肉と野菜を引きずりだしながら食べている。あまり上品とは言い難い光景ではあったが、実においしそうに食べているので見ていて不快感はない。むしろ、口の中に羊肉の独特の味が思い出されてよだれがジワリと湧き出してくる。
そんな状態で齧ったタンドリーチキンの、実に芳醇な香辛料の香りに思わず目を剥いた。
こんな旨いもの初めて食ったと言わんばかりに一心不乱にナンにかじりついていると、無言でラシルがオレンジジュースを差し出してくる。もう半分ほどになったケバブは、まだまだおいしそうな魅力を振りまいている。
「説明、して」
うっかりオレンジジュースを手に取ってからそれが策略であったことに気がついたのだが、もちろんその時には手遅れだ。せめてこの手にあるのがケバブなら、もう少し時間が稼げたはずだと思いながら、口の中に広がる芳醇すぎる香辛料の香りが果汁のさわやかさを求める。
どの道話すことだったとはいえ、こんな形でイニシアチブを握られてしまってはこちらは圧倒的に不利にならざるを得ない。
ストローから吸い込んだオレンジジュースは何とも酸っぱい。
「配達の仕事だよ、ただの」
「うそ」
もちろんこれでかわしきれるなどとは夢にも思ってはいなかったが、それにしても早すぎる。
「あのさ、普通会話にはもうちょっと順序ってもんが」
「聞きたいことはたくさんあるんだから」
ケバブを一口。やばい、このままではケバブが食べつくされてしまう。さすがにタンドリーチキンだけでは物足りない。
苦渋の決断だ。
「わかったよ。配達の仕事でも、たぶん運ばされるのはやばいもんだよ」
もぐもぐもぐもぐ、ごっくん。
「やばいもの?」
口に物が入っている間に喋らないのを徹底しているのはラシルの生真面目さが見てとれてよいのだが、こうされると会話のペースまで持っていかれるのでリバーとしては少々やりずらい。
「ほんとに?」
疑問文にしてはいるが、そこには「何なのかはわからない、とは言わせない」というプレッシャーがたっぷり込められている。それが証拠に、ケバブをもう一口かじるぞとでも言うような仕草が恐ろしい。
覚悟と言うよりも、あきらめに近い心境。
「ありゃ、クスリだな」
「くすり?」
もちろん、医薬品という意味ではないのは暗黙の了解だ。
「あの独特の臭いはたぶん。ある種の豆なんかは乾燥させて粉にしてから鼻とかの粘膜から吸い込むと最高にぶっ飛ぶらしいからな。それに、豆ってのは言いえて妙で、そういうのの隠語でよく使われる」
「それって」
「そ。俺は薬の売人まがいのことをさせられるんだよ。あくまでも俺の予想だけどな」
とはいうものの、おそらくこの予想が覆されることはないだろうという確信がある。
注意の逸れたラシルからケバブを奪い取ってかぶりつく。
「なんで」
「ん?」
咀嚼しながら何とか返事をすると、今度はラシルがひったくるようにケバブを取り返し、最後の一口をほとんどかまずに飲み込んでしまう。
「危ない仕事はしないって約束したのに」
「ああ、だから」
言い訳をする間ももらえない。いつもは大人しいラシルとは思えない剣幕で詰め寄る姿に、思わず尻ごみしてしまうほどだ。
「なのに、もうこんな」
「だ~から落ち着いて聞けよ。誰も運ぶなんて言ってないだろ?」
「でも、仕事が見つかったって」
「だから、誰も運んでそこから金もらうなんて言ってないってことだよ。ったく、思ったよりあんたは思い込みが激しいな」
きょとん、という音が聞こえてきそうなほどにラシルの目が点になる。
「あのな、いくら金のために配達屋やるってったって俺にだって分別はあるつもりだ。ましてやあんな胡散臭いシャブの売人なんて百害あって一利なしだ」
「じゃあどうして?」
にやりと口元が緩む。ナンを食べたので口の中が渇いていたが、絶妙のタイミングでラシルがオレンジジュースを手渡す。
「簡単な話だ。後ろめたい商売の隙間を縫って儲けをせしめるのさ」
「上前をはねる、ってこと?」
ずばり言ってしまうと色気も何もない言葉になるが、全くその通りだ。ラシルがそんな言葉を口にするほうが意外だったが、こちらはこちらでまたそれなりに大変な旅をしてきたであろうことを考えれば納得できなくもない。
「でも、どうやって?」
オレンジジュースがわずかな苦みと甘味を残して喉の奥に滑り込む。やはりこうした肉類を食べた後のオレンジジュースは最高だと思う。
「さあ」
残っていたナンをちぎって、大きいほうとタンドリーチキンをラシルに差し出すと、ナンの切れはしをオレンジジュースでごっくんする。
「それは相手の出方を見てからかな。今頃向こうでは俺をどう利用するかの算段が始まってるはずだ。俺みたいなぽっと出のわけわからん奴に大事な取引を任せるなんて考えられないからな。せいぜいが捨て駒か何かだろう」
それがわかっていてなぜ、とはもう聞かない。ラシルはその程度にはリバーを理解しているようだ。ただ、手配書を見た段階でここまでの絵を描いていたのだとすればかなりの策士か相当の悪者かだ。
「ワルが悪いのは手くせだけだ。頭の悪い奴はワルにもなれないんだよ」
「でも」
何故とは聞かない代わりに、ラシルがさびしそうに口を開く。
「消されなきゃいいだけの話だよ。それに、クスリなんかで金もうけしてるやつらだけはどうも好きになれねぇ。そんな奴のいいようにされるのも癪だからな。それに、俺の探し物も見つかるかもしれない」
おどけて眉毛をゆがめているリバーを見て、茶化すような態度をいさめようと口を開いたラシルは見た。
笑っていない目と、その奥にある底の知れない深い、闇。覗きこめば吸い込まれて、二度と戻れなくなるほどの暗い感情の吹きだまりは、リバーという人間の闇そのものであるような気がした。
「顔、怖い」
「お、悪い悪い。ちょっとムキになったか。ま、そんなわけで今回は金になるかどうかはわからんけどな」
「なにそれ? お金稼ぐためにやってるんじゃなかったの?」
もっともすぎるラシルの言葉にもリバーは表情一つ崩さずに、口の端に付いたケバブのケチャップをぺろりと舐めて返事をした。
「さて、夕方からは大事な商売の話だからな。今のうちにゆっくり昼寝でもしておくか。今朝も早かったしな」
そう言ってソファに横になると、何を言う間もなく寝息が漏れ始める。
残ったタンドリーチキンとナンを咀嚼し、ラシルがそんなリバーの寝顔をまじまじと見つめながらつぶやく。
「悪い人じゃ、ないんだ。でも」
自分でも気づかないうちに口元が緩む。
「変な人」
聞こえていないはずなのに、リバーが苦しそうに唸り声をあげてごろりと寝がえりを打つ。
「あ」
そして気がついた。
聞きたいことはまだまだあった。あったはずなのに、答えを持っている男は実に満足そうな顔で夢の中にどっぷりとつかっている。
「明日、聞こう」
明日、その言葉が自分の口から出たことに少々驚きを感じながら、ラシルもベッドに横になる。香辛料のにおいのたっぷり残る部屋の中で見る夢は、きっとスパイシーなのだろう。そんなことを考えながら目を閉じる。
「彼は無実です、やってません!」
両方の拳を握り、力いっぱいスチールのデスクに叩きつけた。派手な音がするわりに、大して手のほうは痛くない。
「そう言われてもなぁ」
新聞の三面記事に目を走らせながらのらりくらりと目の前の男が答える。たっぷり蓄えられた髭を撫でながら半分ほどになった煙草を灰皿にねじ込む手は肉体労働者のそれとは違うごつさをしている。
胸には星型のバッジが鈍い金色を放って輝いている。
「それを決めるのは裁判所の仕事だ。俺たちじゃなくて法廷に言ってくれや」
腰にぶら下げたオートマティックの拳銃がホルスターごと揺れる。
「そんな、でも現に」
「現に、あいつは死体の前にいた。よりにもよってヤクの売人の死体だ。その前後に店に入ったやつも確認されてないときてる。しかもあんた、昨日の朝は飯屋でもめごと起こして物騒なもん振り回してたらしいじゃねぇか。うちの若いのが見てる」
隣では昨日の定食屋での騒動の、文字通り引き金を引いた若い警官が何食わぬ顔で調書にペンを走らせている。おそらくはこのやり取りもすべて記録されているのだという無言のアピールなのだろう。
「そうだろ?」
見えない紐でも繋がれているように調書に走らせるペンを止めて若い警官が振り返る。
「はい。確かに」
「だそうだ。それに、あんたらは全く身元が割れてないときてる。俺じゃなくても拘束するぞ、普通。まだ留置程度で済ませてる分だけ温情主義だと思ってもらいたいね」
そういう口ぶりは実に尊大で、けっしてこちらを一つの人格とみなしていないことがありありと伝わってくる。ことによっては人としてすら見ていない、そういった空気が男の言葉からは見てとれた。
「しかし、彼がやったという証拠は」
「証拠はこれから探す。あんたは必死になって無罪だって証拠を探せばいい。俺たちの仕事は議論することじゃなくて犯罪者を逃がさないことだ。それとも何か? あんたは真犯人とやらを知ってるとでも言うのか?」
言葉に詰まったラシルを鼻で笑いながら警官は再び三面記事を読み進め、威嚇するように腰の拳銃や手錠をもてあそび始めた。
お前なんかいくらでも罪を作って檻の中に放り込めるんだぞ、とでも言うような態度。
ラシルが唇をかみしめる。
そのラシルに追い打ちをかけるように、若い警官が椅子を軋ませて振り返り、
「そうそう、女が来たら伝言頼まれてたんだ。独りでどこへなりとも行け、だと」
ことが起こったのは夕方。もう日も傾いて空の色がオレンジ色と黄色のグラデーションになり始めたころ。夜の商売にはまだ早く、かといって昼間の仕事はそろそろ切り上げなければ遅くなる、そんな一日の中に何度か生まれる空白にも似た時間。
たっぷりと昼寝をしたリバーはバキバキと肩を鳴らしながら通りを歩き、隣を寝ぼけまなこのラシルが追い掛ける。この二日ほどの間に出来上がったこの距離を、リバーは意外と気に入っていた。
だから、わざと大股でゆっくりとした歩調にして歩き、時折ラシルが小走りに距離を詰めるのを視界の隅っこに入れる。歩くのが速いと文句を言えばいいのだろうが、そうしないのはラシルが「リバーの旅についてきている」という意識だからだろう。
遠慮と言えば遠慮だし、そんなものが必要だとは思わなかったが、そうしようとするラシルのまじめさがリバーには面白かった。
「寝過ぎた」
まだ頭がぼやけるのか、ふわふわと雲の上を歩くような感覚だったが、これはこれで悪くない。夕方独特の空気とまだ半分夢の中にいるような心地よさがある。
隣を見れば、やはり同じようにまだ眠そうなラシルがこちらを見上げている。
ひとつ気がついたのだが、ラシルは眠くなると目じりが垂れてかなり幼い顔立ちになるようで、いつものまじめで気丈なラシルとはどこかかけ離れた印象だ。
「何か?」
「いや、別に」
さすがに口調はいつものままなので、そのギャップが面白い。ついうっかり声に出して笑ってしまいそうになるが、そうなればきっと怒られるので必死になって我慢せざるを得ない。
家路を急いでいる労働者やこれからさらに仕事を詰めにかかる職人、さらにはこれから仕事が始まる女など、通りを歩いているだけで世の中のすべてをここに詰め込んだかのように錯覚してしまうほどだった大通りだが、それも路地を一本曲がるまでの話だ。
「あれ? こっち?」
ラシルが路地の入口で足を止める。
「ん? ああ」
この路地を進めば豆屋のある通りに行きつく。当然、ラシルは先に調整に出している銃をとりに行ってからそちらに行くものだと思い込んでいたということだろう。
「いんだよ、これで」
腑に落ちない様子のラシルを手招きしてリバーはどんどんと路地を抜け、ここだけは昼間の活気そのままに賑わっている一角に足を踏み入れる。どうやら食べ物を扱う店が多いこともあって、夜昼問わずににぎわう場所らしかった。
「でも」
雑踏に足をふみ入れる直前でラシルが外套のすそを握る。
ツンと引っ張られる感触にリバーは足を止め、肩をぶつけた小太りの親父に睨まれながら振り返る。
「だいじょぶだって。それに、まぁなんていうか」
心配そうに見上げるラシルの頭に手のひらを置き、ポンポンと軽くたたく。首をすくめるようにしたが、まんざらでもないようで、手を当てられたあたりを嬉しそうに両手でさすっている。
「備えあれば憂いなし、ってやつ?」
そういうと再び踵を返し、器用に人を避けながら雑踏を泳いで渡ってゆく。
この時間帯の人間はだれしもが目的を持って歩いているわけではないせいか、動きがまちまちで昼間とは違う動きにくさがある。あるものは家路を急ぎ、ある者は仕事から解放された解放感にのんびりと歩き、あるものは怪しい呼びこみにふらふらとついて行ったりしている。活気のある町というのは夜を見ればわかると言うが、この街はまさにそれだった。
「この一角だけは除いて、だけどな?」
昼間と同じ店の前に立つが、そこだけは周囲のにぎやかさからは取り残されたかのように影が落ちている。とはいっても、実際には入り口にはランプの明かりも灯っているし、特別な何かが見てとれるわけではない。ただ、誰もがこの店を避けている。
「この店って、こんなだった?」
溺れるように人波を抜けて、ようやく追いついたラシルが開口一番そう言ったのも無理からぬことだろう。
「こんなだった…って言ったらうそか? まあでも、大体こんな感じだろ」
適当に答えざるを得なかったというのが本当のところだが、それをうまく隠せたかどうかは自身がない。ラシルならそのあたりのごまかしを見抜いていそうな気がするから怖い。
「何かあれば一人でこの街を離れろ。バイクのキーは宿にスペアがある」
失敗だったのは、命令口調で言ってしまったこと。たぶんなにがしかの緊張が伝わってしまったのだろう。深刻そうな表情でラシルがこっくりとうなずいて、棒でも呑んだようにその場に立ち尽くした。
こんなだったか? そんなわけがないと内心で毒づいたのと、ここに来たことを失敗だと直感したのとはほぼ同時だった。
足を踏み入れた瞬間に鼻についたのは、肉の生臭さと鉄のにおいを綯い交ぜにして鍋にかけたような不愉快極まりない臭い。何があるのかなど見なくてもわかりそうなものだったが、もうここまで来てしまえば見ないわけにもいかない気がした。
意を決して豆の詰め込まれた袋の間を抜け、頑丈な作りの扉を引きあける。
とたんに、それまでのものとは比べ物にならないほどの臭気があふれだし、その奥に何があるかを如実に伝えてきていた。
「うわっ…」
文字通りの血の海だった。
どうなっているのかについては、何もかもが引き裂かれているとしか言えない。もし鼻をふさがれた状態でこれを、トマトジュースの入った麻袋をずたずたに引き裂きました、と言われても信じられただろう。
問題はどうやってそれをやったのか、だ。
「動くな!」
背中から声が聞こえたときに、改めて先にこちらに来てよかったと思った。手元に銃があれば間違いなく抜いていたはずだ。これだけ充満した、むせかえるような血のにおいの中でなら当然の反応だ、とでも言うように。
「動いたら、どうなる?」
ゆっくりと開いた両手を頭の高さまで上げながら舌打ちをする。
はめられた、それもものの見事に。へたな策氏は相手の行動を可能性として取り入れて策を練るから失敗の要素が発生するが、すぐれた策士は相手の行動を包括するような策を作りだす。相手の打つ手にかかわらずに同じ結果が出せるように。ときには、相手が策にはめられたことにすら気付かせないほどに狡猾に。
「どうにもならんよ。死体が“もう一つ“増えるだけだ」
少しだけ振り返って確認すると、警官が二人、こちらに銃を突き付けながら店の入り口をふさいでいる。
すぐ横をすり抜けるようにして部屋に入ってきたのはまだ若い方の警官で、実に仰々しい態度でこちらを振り返ると、ほくそ笑みながら、勝ち誇ったような視線をからめてくる。
「どうやらたっぷり聞くことがあるようだな」
後頭部に、わざわざそうする必要もないのに銃口が押し付けられ、ぐりぐりとねじこまれる。
「俺は話すことなんか、ないんだけどな」
奥をひとしきり確認した若い警官がリバーの手首に手かせをかける。ジャラリという鎖の音がなんとも大げさだとは思ったが、その重さよりもむしろ両手の自由を奪われることのほうが苦痛だ。
「あろうが無かろうが吐いてもらう。それが俺たちの仕事だからな」
うんざりするような権力の誇示は聞き流し、駆け寄ろうとするラシルを目だけで制してリバーは歩きだす。今自分のところにくれば間違いなく同じ目にあわされる。そうなってしまうのだけは避けなければいけない。かといって、自分だけがここを切り抜けたところで同じだろう。警官がラシルの存在を見て見ぬふりをしているだけだとすれば目も当てられない。
少なくとも、今回の罠を考えたやつは実に巧妙に仕掛けを施し、最高のタイミングで警察まで動かしている。となれば、その中で動いたところでデメリットのほうが大きいと考えるべきだ。
「おら、とっとといけ」
尻を固いだけが取り柄とでも言うようなブーツの裏で蹴りつけられて、否応なく通りを進まされる。
「覚えてろよ」
目の前の警官だけではなく、この仕掛けを仕組んだどこのどいつかわからないやつに対して、リバーは口の中だけで呟いた。
「なあ、あれでよかったんだろ?」
雑踏を外れた路地の影からリバーが連行されるのをらんらんとした眼で眺めている男が訪ねる。昨日、朝の定食屋でリバーに追い払われた賞金首だ。どうやらベルトは買い換えたようで、妙にピカピカのバックルが安物っぽい。
「ああ、上出来だ」
隣では金髪の男が見向きもせずに答える。
フリード・G。しかし、その形相はすでにリバーに敗北した時のそれではない。
サングラスで目元を隠しているから表情は読み切れないが、口元が我慢しきれない笑いに震えている。ただ、喜んでいるとかそういう類の笑みではない。どちらかと言えば、狂気に近いような笑み。
「もう、もういいんだよな? 俺はもう消えるぜ」
「ああ、ご苦労だったな」
フリードが雑踏の中に姿を消す。
ドサリと、路地の奥で何かが地面に落ちる音がする。
「で、あいつは今檻の中、か」
今日の作業を終えたウェーランドが作業台の上を片づけながら抑揚なく言う。おそらくは言葉のままに大して興味もないのだろう。
「はい」
結局、面会一つさせてもらえなかったラシルは当てもなく夕闇の街を歩き、せめてリバーのためにできることを、と思ってウェーランドのもとを訪れた。
今日の夕方、という約束だったはずだ。
「まあ、あいつの場合はそれも考えのうちだったんじゃないのか? あの無茶苦茶なやつがおとなしく警察の世話になるなんて思えないしな。ほら、物はもうできてる」
カウンターの上に、新品のようにピカピカに磨かれたリボルバー式の拳銃が重い音をたてておかれる。
「ウェーランドさんは、彼のことをよく知ってるんですか?」
「馴染みの客だ」
作業台の明かりを消し、カウンターに向き直ると一日の終わりを告げる煙草に火をつけた。決して高価なたばこではないただの紙たばこだったが、これがなければ一日が終わった気がしない、というのは職人見習いのころからの習慣だった。
「爺さんの代からのな」
細い煙が吐き出され、独特のニコチン臭が工房に広がる。
「どういうことですか?」
「どうもこうも、そのままの意味だよ。俺の爺さんの代からの常連客だよ、あの男は。何の因果か知らんがな。なんでも砂漠でくたばりかけてんのを拾ったのが最初らしいが」
ゆっくりと煙を吸い込み、吐き出す。
「腐れ縁だよ」
『くたばりかけていた』という言葉が引っかかりはしたが、それ以上にラシルは興味深そうにウェーランドに詰め寄る。
「おじいさんの代から、ですか?」
「そうだ。俺が物心ついた時にゃあいつはもううちの常連だったよ」
そういうウェーランドの年齢は決して若くはない。祖父はおろか、父親もどうやらここで作業をしていないところを見ると引退したとみて間違いないだろう。引退していないとしても、ウェーランドが跡目をついてからずいぶんと経っているはずだ。深いしわの刻み込まれた顔と手が、それを物語っている。
「あの顔でな」
リバーの言葉を何度も何度も反芻する。いや、これまで、たったの一日の間に数え切れないぐらい反芻したことばがようやく少しだけ飲み込めた。
死なない。
比喩でも何でもなく、銃弾で頭と心臓を吹き飛ばされても、職人の工房が三代にわたって代替わりを繰り返すような時間を生きても死なない存在。
「彼は、何なんですか?」
思わず口にした疑問を飲み込もうとするがもちろん間に合わない。言葉はこぼれおち、ウェーランドのたばこからは灰が落ちる。
「客だよ」
はっとなる。
「相手が化け物だろうが神様だろうが殺人鬼だろうが聖職者だろうが、俺にとっちゃ客だ」
そう言ってほとんど吸い終わった煙草を灰皿にねじ込んで火を消す。
なんとなく、リバーがこの工房を選ぶ理由がわかった気がして、ラシルは小さくうなずいた。
紙袋に拳銃を入れて立ち上がる。
「喋りすぎた。忘れてくれ」
帰りがけに背中に声を投げかけられる。
扉を引きあけ、月明かりも届かない路地に踏み出す。かろうじてそれぞれの工房が軒先にランプを掲げてはいるがそれでも明るいとは言い難く、注意して歩かないとすぐに何かにつまずいて転んでしまうほどだ。幾重にも重なった屋根が、空を迷路のように細く切り取っている。
「あいつ、捕まったんだ」
そんな暗闇の中から声をかけられても驚かない異様になったのは、リバーといるせいでそんな騒動にも慣れてしまったからなのかもしれない。
「誰?」
振り返ると同時に胸元の紙袋が強烈に意識される。
「は~い、あたし」
「と、僕」
ラシルの眼に映ったのはリバーよりもさらに巨大なシルエットが一つだけ。
まだ暗闇に慣れていない目を凝らしてじっと見つめると、ランプのオレンジ色にほんのりと輪郭が照らしだされてくる。
セフィとその弟のロト。
「あ、そんなに警戒しなくてもいいから。あたしらが追っかけるのはあくまでもあの野郎だけだから」
コンパクトな体に似つかわしくない起伏の激しい体が、妙にエロティックにランプの明かりを受けている。ショートカットなので、うなじのラインまでもが艶めかしい。
「そう言われて信用するほどお人好しでは」
後ずさりするラシルを、実に乱暴な足取りで距離を詰めたセフィが捕まえる。両肩を勢いよく掴まれて思わず肩をすくめたラシルだったが、そんなものお構いなしセフィが続ける。
肩越しに見たロトが少し申し訳なさそうにただでさえ細い目を細めている。
「利害関係が一致すると思うの」
「は?」
思わず間抜けな声を上げるが、そんなことを気にする性格ではないようで、さらにセフィがまくしたてる。
「あいつが檻の中にいて困るのは二人とも同じ。あなたは旅を続けられない、あたしらはあの男を捕まえてしかるべき場所につきだすことができない。となれば」
ここまで聞けばいったい何を言っているのかわからない方がどうかしている
「チャンスは今夜。明日になればたぶん留置所に移されるか、最悪どこかに移送されてそれこそ本当に手出しができなくなる」
「でも、本当にリバーさんは」
「やったかやってないかなんか関係ない。あいつらに必要なのは『捕まえた』という実績。事実なんて後からいくらでも作り出せるのが警察ってやつよ」
そんなことをするはずがない。そう言いきれないラシルの胸が唐突に不安で潰れそうになる。
「そうなるとさすがにあたしらも困るのよね。いくらなんでも脱獄させるわけにはいかないし。今なら連中の面子のために逃げたら逃げたで、ってことになるだろうし」
実に真剣にそんなことを言うセフィを見ていると、リバーとこの二人の因縁というのはただただ陰鬱とした追う側と追われる側なのではなく、何かもっと深いものがあるのではないだろうかと推測する。それが何であるのかは到底想像もつかないにしても、もしかしたら今回の話を信用する程度には値するのではないか、と。
「で、問題はどうやってカチコミをかけるかなんだけど」
「姉さん、そういう物騒な言葉はどうかと思うよ。僕らがやるのは単なる陽動なんだから」
さすがに止めに入るロトはあきれるを通り越して、かなしそうな表情になっている。
「なによ、同じでしょ。警官おびき出してその間にあの野郎を引きずり出すだけじゃん。どう言いつくろったって」
ずずずずずず……
地響きとも地震ともつかない振動が足元から伝わる。
最初に駆けだしたのはセフィで、ラシルの体を押しのけるようにして路地をかけ下ってゆく。あと追うようにして、ラシルが走る。ロトはがたいのでかさが災いしてラシルの後ろをついて行かざるを得ない。
どこをどう走っているのかはわからなかったが、セフィの後を追って何とか通りに飛び出したラシルは、セフィの視線の先を追って顔を向ける。
「あれってさ、警官の詰め所があるあたりじゃないか?」
もうもうと巨大な煙が立ち上っている。何事かと通り沿いの店にいた人間や住人たちが窓から顔をのぞかせ、通りに踏み出しては口々に好き放題を言い合っている。
「爆発だよ、あっちの一角が赤く光って、窓が割れるかと思った」
エプロンにサンダルで飛び出してきた初老の女が、自分が第一発見者であることを触れまわっている。
「これって」
ラシルが何かを言いかけてセフィを見ると、さもそれが正解とでも言うように苦笑いを浮かべる。
「こんなトラブルが降りかかるのはあいつぐらいのもんでしょ。ほんと、探すのに苦労しないやつだわ」
「でもあいつ、今丸腰なんじゃないの?」
追いついてきたロトがぼそりと言う。
ラシルの胸元には、ずしりとした重量感のある紙袋が一つ。ただ、何かを躊躇うようにラシルは二人の顔を交互に見つめる。
「別にあたしらに気兼ねする必要ないんじゃない? それに、あんたはあれを旅の連れにって選んだんでしょ? だったら、自分が思うようにやれば? あたしらの用事はそのあとでもいいわけだしさ」
ただでさえ大きな胸を突き出すものだから、ラシルの目の前のセフィは半分ほどが胸でできてるように見えてしまう。
「ごめんなさい!」
叫ぶと同時に駆けだすラシルの背中を、セフィとロトの二人がやれやれと言った様子で見送る。
「姉さん、なんで行かせたの? あいつ、この一件が片付いたらまたどっか行くんじゃない?」
そんなことを思ってもいないくせに、ロトがセフィの二の腕を肘で小突く。
「そうなればまた追っかければいいだけじゃんあたしらはどうせ時間制限のない鬼ごっこなわけだし。それに」
「それに?」
ふっとセフィが鼻で笑う。
「あたしらにごめんなさいだって。お人好しにもほどがあると思わない?」
まんざらでもなさそうに、ほくそ笑んだセフィは残念ながら実にオヤジ臭い笑顔で歩き出す。
「また面倒なことに巻き込まれそうだね、姉さん」
「あたしらが追っかけてんのはそういうやつよ。あきらめなさい」
さらに一発、今度ははっきりと炎が上がり、地響きのような振動とともに周囲の建物の窓ガラスがびりびりと震える。
黒煙が、より一層激しく空に向かって登ってゆく。




