ティファニーで朝食を食べないで(6)原作の最後
映画の『ティファニーで朝食を』は、雨のニューヨークで猫を抱きしめ、ジョージ・ペパードと結ばれるロマンチックな結末が印象的ですよね。しかし、カポーティの原作が描く余韻は、それとは正反対の「漂泊の切なさ」に満ちています。
あなたが挙げてくださった要素を繋ぎ合わせ、原作が持つ独特の空気感をさらに深掘りしてみましょう。
### 自由という名の孤独な旅路
物語の終盤、ホリーは当局の追及を逃れるようにしてニューヨークを去り、南米へと飛び立ちます。しばらくして届いた最後の手紙には、彼女の相変わらずのバイタリティと、どこか綱渡りのような生活が綴られていました。
ブラジルでは期待していたような「大富豪」を仕留めることには失敗したものの、彼女は決してへこたれません。次なる目的地、アルゼンチンのブエノスアイレスで、新たなパトロンとなる裕福な男を見つけ出したという報告が届きます。それは、彼女がどこへ行っても「野生のままで、檻には入らない」という生き方を貫いている証でもありました。
### 捨てられた猫が見つけた「居場所」
そして、読者の心に最も深く刺さるのが、物語の語り手である「僕」が目撃する猫のその後です。かつてホリーが「名前をつけるとお互いに縛り合ってしまうから」と拒み、最後にはタクシーから冷たく放り出したあの名もなき猫。
ある冬の日、光の差し込む窓辺で、「僕」はその猫に再会します。
> 「でもある日曜日、明るい日の差す冬の午後、ようやく僕はその猫に巡り会った。
> 鉢植えに両脇をはさまれ、清潔なレースのカーテンに体のまわりを縁取られ、
> いかにも温かそうな部屋の窓辺に猫は鎮座していた」
猫は、ホリーがどうしても手に入れることができなかった「安住の地」を、皮肉にも彼女と別れた後に見つけていたのです。手入れされたカーテンと鉢植えに囲まれ、誰かの家族として「名前」を持ち、温もりの中に落ち着いた猫の姿。それは、都会の孤独を象徴するホリーの影と鮮やかな対比をなしています。
### ホリーに寄せる、祈りにも似た願い
「僕」は、幸せを掴んだ猫の姿を眺めながら、今ごろ世界のどこかにいるであろうホリーに思いを馳せます。
> 「そしてきっと猫は落着く場所を見つけることができたのだ。
> ホリーの身にも同じようなことが起こっていればいいのだがと僕は思う。
> それがアフリカの掘っ立て小屋であれ、なんであれ」
映画版のように特定の男性と結ばれることが、彼女にとっての幸せとは限りません。たとえそれがアルゼンチンの豪華な邸宅であっても、あるいはアフリカの質素な小屋であっても構わない。どこか空の下で、彼女がこの猫のように「ここが私の居場所だ」と心から思える瞬間に巡り合えていることを、「僕」は切に願うのです。
映画が「愛による定住」を描いたのに対し、原作は「魂の放浪とその平穏への祈り」を描いて幕を閉じます。このラストシーンがあるからこそ、ホリー・ゴライトリーという女性は、文学史の中で永遠に色褪せない輝きを放っているのかもしれません。




