ティファニーで朝食を食べないで(4)村上春樹評
村上春樹氏が『ティファニーで朝食を』の新訳を手がけた際のあとがきやエッセイで触れている視点は、非常に鋭く、作品の本質を突いています。
歳月の試練を越える「完璧な文章」の魔力
トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』は、現代のちょっとした古典として、今この瞬間も世界中で読み継がれています。かつて「古典候補」と呼ばれた多くの作品たちが、無慈悲な歳月の試練に耐えきれず、時の坂道をずるずると滑り落ちて消えていったなかにあっても、この物語だけは驚くほどタフに生き延びているのです。その色彩豊かな物語世界は、時代を超え、多くの人々の心の奥底にしっかりと根を下ろしています。
村上春樹氏は翻訳の作業を通じて、その文章の完成度に何度も溜息をついたといいます。カポーティという作家は、天性のストーリーテラーではありましたが、実は「何もないところから物語を自由にでっち上げる」タイプではありませんでした。彼はあくまで自分自身の鋭敏な触覚が捉えた「直接体験」を、完璧に磨き上げられた言葉の器に盛り付けることでしか書けなかった作家なのです。
そこにあるのは、感覚的な描写が過剰に浮き出ることを排した、見事なまでに均整の取れた文体です。簡潔でありながら、語るべきことはすべて語り尽くされている。翻訳者を「うまいなあ」と幾度も唸らせるその文章の美しさこそが、この小柄な物語に不滅の生命力を与えているのでしょう。
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映像という「別の物語」への違和感
ここで改めて強調しておかなければならないのは、私たちがよく知るオードリー・ヘプバーン主演の映画版と、カポーティが書いた原作小説の間には、埋めようのない深い溝があるということです。
映画は華やかなロマンティック・コメディとしての一つの正解を提示しましたが、それは小説が持つ「剥き出しの孤独」や「捉えどころのない魂の彷徨」とは、あまりに性質の異なるものでした。映像のきらびやかさの背後で、カポーティが文章の襞に忍ばせた、あのヒリヒリとするような切実な「現実」が削ぎ落とされてしまったことは否定できません。
物語が消費される過程で、ホリー・ゴライトリーという象徴的なキャラクターは一人歩きを始めましたが、その本当の鼓動を感じるためには、やはりあの「完璧な文章」へと立ち返る必要があるのです。




