高校を卒業したアーネスト・ヘミングウェイは
高校を卒業したアーネスト・ヘミングウェイは、父親の協力を得て、ミズーリ州の地方紙「カンザスシティ・スター」での見習い記者の職に就いた。彼は、大学の教室で知識を学ぶよりも、社会に出て自分の目で見て、肌で感じる経験を積むことこそが、偉大な作家になる唯一の道だと確信していた。
彼はジャーナリズムを通して、簡潔で真実に迫る文章技術を学んだ。しかし、彼は単なる速報を書く記者で終わるつもりはなかった。彼の頭の中には、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーのように、人間の魂の奥底、極限の感情を描き出す深い洞察力を持つ作家像があった。地方紙の平穏な記事は、その理想からほど遠い。彼は世界で最も過酷な真実を、最も簡潔な言葉で書きたいと飢えていた。
入隊不可
ヘミングウェイが求める真実は、ヨーロッパの戦場にあった。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、若きヘミングウェイはすぐさま軍隊への志願を決意した。彼は、自らの肉体で戦争という極限状態を体験し、真の勇気と死に触れることを渇望していた。
しかし、彼の身体は志願を受け付けなかった。軍医の診察により、視力の問題で歩兵としての入隊を拒否されたのだ。これは、常に自らの強さ、男らしさ、そして勇気を証明しようとしていたヘミングウェイにとって、深い屈辱と挫折となった。
彼は立ち止まらなかった。軍に入れないなら、戦争に最も近い場所へ行けばよかった。
彼は間もなく、アメリカ赤十字の救急車運転手としてイタリア戦線への志願に成功する。記者という安全な身分を捨て、自分の命を懸けるこの行動は、彼自身の文学的理想への個人的な宣誓だった。
フォッサルタの爆弾
1918年、彼は北イタリアのフォッサルタ戦線に到着する。彼は救急車に乗り、死が日常となる危険な任務に就いた。
そして、運命的な夜が訪れる。彼は兵士に物資を運んでいる最中、迫撃砲の直撃を受けた。彼は重傷を負いながらも、近くの兵士を助けようとした。
この一連の出来事、強烈な負傷、そして生の淵に立たされた体験こそが、ヘミングウェイの文学の「源」となった。軍隊に拒絶された男は、自ら最前線に身を投じ、その代償として、ドストエフスキーの如く「真実」を深く描くための素材を手に入れたのである。




