めぐり逢い(4)~「めぐり逢えたら」での引用
メグ・ライアンとトム・ハンクスの『めぐり逢えたら』(1993年)は、一本の映画が、もう一本の映画へのラブレターになっている、そんな不思議な作品である。中で語られるのは、ケーリー・グラントとデボラ・カーの『めぐり逢い』(1957年)。つまりこの映画は、恋愛映画を観て泣く人たちを描いた、恋愛映画なのだ。
冒頭に出てくる「思い出のない冬」の場面で、メグはぽつりと言う。「あの頃は、本当の愛し方を知っていたのよ」。その一言で、半世紀前の物語が、ただの古い名作ではなく、今を生きる私たちの胸に差し込んでくる。恋愛のかたちは変わっても、「人を想う」という感情の輪郭は、驚くほど昔と変わっていないのだと気づかされる。
メグがトムに会い、友人に報告する場面がいい。「どうだった?」と聞かれて、答えるのはたった一言。「ハローと言っただけよ」。それだけの出来事を、彼女は宝物のように語る。恋の初期にあるのは、大事件ではなく、こんな取るに足らない一言なのだ。だからこそ、友人と一緒に『めぐり逢い』の「ハローとしか言えない」場面を観て、二人で泣いてしまう。その涙は、映画のせいで流れているのではない。自分自身の、忘れかけていた感情に触れたから流れている。
さらに印象的なのが、トムの友人の奥さんの場面である。「エンパイアーステートビルで会いたい、ですって?」と聞いた瞬間、彼女はすべてを悟る。「それ、『めぐり逢い』と同じじゃない」。そして、ケーリー・グラントとデボラ・カーの物語を語り出したかと思うと、ついには大泣きする。男たちが呆気にとられる中で、彼女だけが、この恋の行方を、本能的に理解している。その姿は、恋愛映画の正しい観客の姿を、そのまま映しているようでもある。
やがてトムの息子のガールフレンドが言い切る。「最高の映画よ。あなた、エンパイアへ行くべきよ」。若い世代であっても、この映画の魔法はちゃんとかかる。この一言で、トムはついに動き出す。恋に必要なのは、理屈ではなく、背中を押す一行なのかもしれない。
そしてクライマックス。メグがエンパイア・ステート・ビルに駆けつけるが、もう閉館時間。「運命がかかっているの」と訴える彼女に、守衛が返す。「ケーリー・グラントだね」。この返事が、たまらなくいい。「『めぐり逢い』を知っているの?」と聞くと、「カミサンが大好きでね」と照れたように答える。ここでこの映画は、登場人物全員を、恋愛映画の共犯者にしてしまう。スクリーンの中だけでなく、世界のどこかで、誰かがこの物語を愛しているという事実が、この一場面に凝縮されている。
『めぐり逢えたら』は、ただのラブコメではない。これは「恋愛映画という文化」そのものへの賛歌なのだ。人は、誰かの恋物語を見て泣き、震え、救われる。そして、いつか自分もそんな物語の一行になれたらと、ひそかに願う。
だからこそ、この映画を観終わったあと、私たちは無性にエンパイア・ステート・ビルに行きたくなるのではない。行きたくなるのは、「誰かに、めぐり逢いたい」という気持ちのほうなのだ。
そしてそれこそが、この映画が、いまなお愛され続けている理由なのだと思う。




