サンズリバーサイド3 忘却の渡し
サンズリバーサイド3 忘却の渡し
発着場の名前 忘却の渡し
モリヨ「ここは“忘却の渡し”。
渡りたいなら、名前と人生を思い出すことね。じゃないと船は動かないのよ」
大きな川の流れは、今日も静かに空を映していた。夕陽が水面に揺れて、金色の道をつくっている。その先を、小さな船が一隻、ゆっくりと桟橋から離れていった。
愛理はひとり、桟橋の端に立っていた。コートの襟を少し立て、じっとその船を見つめていた。誰かを見送ったわけでもない。ただ、船が出ていく光景が胸の奥をひどくざわつかせた。
「誰か、知り合いが乗ってたのかい?」
その声に、愛理は振り返った。モリエだった。いつのまにか背後に立っていて、やわらかく微笑んでいる。
「ううん、違うの。ただ……ああいうのって、なんか、残される側の気分になるの。」
「わかるよ。私もさっき、見送ってきたばかり。」
「誰を?」
「ビオレで知り合った人。船の乗車券が発行されたって知らせがあったの。それで、今朝お別れしてきた。」
「……ビオレ?」
愛理は少し首を傾げた。
「えっ、知らない? この近くの喫茶店。静かで、窓から川が見えるの。ホテルの中にある店なんだけど、雰囲気があって、コーヒーも丁寧で……ほら、ちょっと落ち着きたいときとか、いいんだよ。」
モリエの声には、思い出の温度がこもっていた。
愛理は少し考えてから言った。
「行ってみようかな。今、なんとなく……そういう場所、必要かも。」
「じゃあ、いっしょに行こう。いっしょだと、美味しくなるから。」
ふたりは桟橋を離れ、川沿いの小道を並んで歩き出す。風は少し冷たかったけれど、足取りは不思議と軽かった。
ビオレの小さなベルの音が、扉を開けると軽やかに響いた。
ビブレのラウンジ
愛理はモリヨとともに、懐かしい「ビブレ」の扉を押し開けた。扉の奥には、柔らかな光に満たされた空間が広がっていた。時が止まっていたとは思えないほど、店内は整い、温かい空気が流れている。
木目のテーブルには淡く反射する磨き跡が残り、窓辺のレース越しに注ぐ光が、椅子の背もたれにやさしく影を落としていた。どこか懐かしく、どこにもないような、美しい午後だった。
二人は静かに腰を下ろすと、まもなくカウンターの奥から、湯気の立つコーヒーが運ばれてきた。器は上品な白磁、香りはやわらかく、少しだけ甘い記憶を呼び覚ます。
愛理が一口ふくむと、懐かしさが胸にしみ渡るようだった。
そのとき、モリヨがそっと口を開いた。
「……あの船に、乗れなかったってことは。あなたも、アレね?」
「アレ?」
「記憶の、よ」
「……ああ。アレね」
愛理は軽くうなずいた。モリヨもまた、小さく微笑んだ。
「自分が、何をしていたか。何を大事にしていたか。ぼんやりしててね。……乗船名簿に、苗字が書けなかったの」
「わたしも、思い出せなかった」
二人のあいだに、穏やかな静けさが流れた。コーヒーの湯気が、午後の光に揺れていた。
フクロウの時計が8時を知らせた
聞いたモリエは「そろそろやってくるわ」
え? 誰が?
ついてにげてよ ついていけないよ〜
鼻歌をうたいながら野間が店にやってきた。
モリエ「おはようございます」
野間「おはようございます」
野間は愛理をみて
あら、もう一人は誰?
ああ愛理さんという方です
船に乗れなかったのね。ということは苗字が思い出せないのね。
はい。そうです。
私は野間といいますが。下の名前が思い出せないの。
愛理「苗字は思いだせても、名前が思い出せないこともあるんですね」
うっすらと記憶があって「野間、ノーマ」って言われた
「ノーマ?」
ノーマ・ジーンよ マリリン・モンローの本名
なぜか自分がノーマだった
女優じゃない?
そうだと思うの
窓から差し込む朝の光の中、モリエは湯気の立つカップを手にしていた。そこへ愛理がやってくる。
モリエ「聞きました? 池上さん、コロナで…死にかけたそうですって」
愛理「うん、知ってる。あたし、ちょっと泣きそうになった。昔からのファンでさ」
モリエ「わたくしも。あの方が舞台に立つと、それだけで世界が変わる気がして」
愛理「でも、無事だったんだよね? 退院されたって」
モリエ「ええ、少し痩せておられたけれど、お声はしっかりされていたとか」
愛理「よかった…。でもさ、それより気になったのが沢田さんのこと」
モリエ「“認知症がひどい”っていう、あのネットの噂のことかしら?」
愛理「そう。あんなの、ただの悪意だよ。共演してた子が言ってた。全然そんな様子なかったって」
モリエ「わたくしもそう思います。むしろ現場では誰よりもセリフが正確で、若い人たちが驚いていたそうよ」
愛理「なんか、年とっただけで、勝手に『もうダメ』って決めつけられるの、ひどくない?」
モリエ「老いというものに対して、この国は残酷ですね。特に女優には」
愛理「でもさ、モリエさん見てると、年って怖がらなくていいんだなって思う」
モリエ「まあ、それは…気の持ちようかもしれませんわね」
愛理「よーし、今日はいいこと言ったね。メモっとこう」
モリエ「ふふ。ちゃんとメモして、明日も覚えててくださいね」
幸枝「モリエさん なにか思い出しましたか?」
モリエ「もうわたしはどうでもよくなっています。
こうやってここにきて安らぐだけで」
幸枝「でも今の時間だけですね・・ 安らぐのは。8時半になれば。そうです。 定刻の嵐が・・野間がやってくる」
幸枝が後方に退く。「そろそろ 野間様が?」
朝の空気にまだ湿り気が残る頃、ロビーの空気が一変した。
扉が開くと同時に、舞台の幕が上がるかのように、野間夫人が現れたのだ。
鮮やかな花柄のワンピースに、肩先で揺れる緩やかなウェーブの髪。まるで銀幕のスターでも気取るかのような足取りだった。
「まあ、みなさんおそろいですのね。おはようございます。
というか――私、怒り心頭ですのよ」
きっぱりとした口調に、誰もが一瞬身構えた。
「野間様、おはようございます。それで、どうなさったのです?
何にお怒りで?」と幸枝が尋ねた。
野間夫人は両手を広げて声を上げた。
「どうもこうもありませんわ!
露天風呂に入っておりましたら、突然、猿が入ってきましたのよ!」
「え、猿?」モリエが目を丸くした。
「そうよ、猿よ、モンキーよ!」
「雨に遭いませんでしたか?」と幸枝が尋ねる。
「雨? ああ、降りましたわ。でもご心配なく。
露天風呂の横に生えていたツワブキの大きな葉を採って、
頭にかぶせましたの。帽子代わりに。すぐ止みましたし」
幸枝が思わず吹き出した。「まあ、ツワブキの葉を……!」
きっと野間夫人が葉を頭にのせた姿を想像したのだろう。
「なんですの。笑うところかしら。
それより猿よ。なんで猿と混浴なの!
獣よ、猿は。美女と野獣じゃないのよ。
猿は入浴禁止――立て札でも出しておいてほしいですわ!」
「野間様、でも猿が字を読めるかしら?」とモリエ。
「この猿はかしこそうでしたのよ。
私の頭のツワブキをじっと見つめるんですもの。
だから、猿の頭にも葉をのせてやりましたの」
「あら、お優しい」幸枝が感心したように言う。
「目に浮かびますね」モリエがにやにやしながら言う。
「ツワブキの葉をかぶった美女と野獣が、並んで湯に浸かってる光景が」
「写真に撮ってポスターにしたら、外国人観光客がどっと来たりして」
「アダムとイブならぬ、ノーマと猿ですか」
「あら、洒落てるわね。ノーマってマリリン・モンローのことね」
場が和やかになったところで、野間夫人がふと真面目な声になった。
「そうだ。モリエさん、今日は記憶に進展はありました?」
「変わらないですね」とモリエ。
「もう少しって感じじゃない?
なんとかできないの? 電気ショックとかは?」
「無茶なこと言いますね」と幸枝が苦笑する。
「だって、この施設にもAEDって置いてあるでしょう?
それを頭に当てるのよ」
「へえ……」
「止まった心臓が動くのだから、止まった脳も動いて、消えた記憶も戻るんじゃない?」
「意外と、うまくいったりして?」
「動いてる心臓が止まるんじゃない?」と幸枝。
「え?」
「記憶が蘇る前に死ぬわ」
幸枝がモリエの方を見た。
「モリエさん、今、心臓は動いてますよね?」
「あなた、馬鹿ねえ」と野間夫人が呆れた声を出す。
「それより、電気がちゃんと体を通るかどうか――」
モリエが苦笑いを浮かべた。
「あの、盛り上がってるところ申し訳ないんですけど……
電気ってビリビリするんですよね。それはちょっと……」
「野間様、却下だそうです」と幸枝。
「そう? なんか残念ね。遠慮はいらないのに。
私がやって差し上げますのに。1、2、3、ド〜ン!」
「爆発しちゃってるじゃないですか」
皆が笑う中、モリエが静かに頭を下げた。
「皆さん、いろいろ考えてくださって、ありがとうございます」
廃墟となった建物に。
サキと稲田が現れる。
稲田 「平賀社長、足下にお気を付け下さい」
サキ 「稲田さん、平賀社長なんてかたくるしいから止めて」
稲田 「そうですか? じゃあ、サキ社長で」
サキ 「社長なんて呼ばれると年を取った気がして嫌だけど」
(サキと稲田が入ってくる)
サキ 「(部屋を見回して)思ったよりはマシね」
稲田 「たしかに、ここまでの道の荒れ具合に比べると」
サキ 「途中、道が陥没していたところは、転落しないかビクビクしちゃった」
稲田 「落石もありましたしね」
サキ 「稲田さんの運転じゃなかったら、辿り着けなかったかも」
稲田 「ありがとうございます」
サキ 「白沢監督がね、ここはまさに最高のシチュエイションだって」
稲田 「心霊スポットとして有名ですから」
サキ 「心霊スポットか。…前に来た時よりゴミが散乱してる。肝試しにでも来てる人がいるのかな」
稲田 「ガラスの破片なんかが落ちてたら危ないですから、気を付けてください」
サキ 「ええ。ちょっと裏口の方も見てみようか」
稲田 「ここで写真を撮ると、そこには幽霊が必ず写るという噂まで広まっていますし」
サキ 「まだ浮かばれない霊がいるのかもね。可哀そうに」
稲田 「ですから、そろそろ建て直さないと」
サキ 「でもね、今度の映画、ゴーストがテーマだし、こで撮影するらしい。」
稲田 「サキ社長。このまま放置しておいたら、私たちの知らないところで誰かが怪我をしたり、もしくは死人が出たらそれこそ大ごとです」
サキ 「そうね」
サキらは廃墟のようなロビーを後にし、再びドアをくぐって外へと消えていった。
その背を見送るように、浴場の奥、休憩室の暗がり、ボイラー室の影――そこに、かつてビブレで働き、あるいは訪れ、そして帰らなかった四つの魂が、静かに姿を現した。
モリエが呟く。
「……取り壊しじゃないだけ、マシですかね」
愛理が問う。
「あの人、誰?」
「オーナーの娘……いや、もう本人が社長だって話。サキさんっていう」
愛理はロビーに残る彼女の余韻に目を向けた。
「……綺麗な人」
「たしかに」とモリエも頷いた。
幸枝「誰?オーナーには娘はいなかった・・・」
(三田が一人で入ってくる)
彼女は白沢監督の助手で映画「ゴースト」のロケハンで訪れた。
三田「はい、ここが最近話題の心霊スポットね。
(野間、ふと思いついて三田の前に立ち、手をひらひらと動かす。しかし三田は全く気づかない)
モリエ「野間さん、ダメですよ! そんなことしたらこの人、驚くじゃないですか!……って、全然驚いてない? ああ、そうか、三田さんには野間さんが見えてないんですね」
(モリエも三田の横に立つ。三田はなおもキョロキョロと辺りを見回している)
三田「しかし……噂通りの空気ね。なんかこう、重苦しいというか……。これは確かに、心霊スポットって言われるのも納得だわ」
(愛理、モリエと野間に戻るように手を振るが、二人は面白がって無視。アカンベーをしたり、三田の頭を撫でたりするが、三田は気づかない)
(三田、スマホを取り出し、愛理のいる方向にカメラを向ける。愛理、慌てて姿を隠すが、野間とモリエはスマホの前に立ちピースサイン)
(三田、自撮りを始める)
(野間とモリエは三田の両脇に並ぶ。モリエは肩を組み、野間は三田の肩に首を乗せてウィンク)
(三田、スマホの画面を確認し、固まる)
三田「……な、なによこれ?(あたりを見回す)」
(野間とモリエ、ニヤリと笑う)
三田「や、やだ……ヤダーーッ!」
(三田、叫んで走り去る)
(幸枝が登場)
幸枝「今の人、どうしたの?」
モリエ「映画のロケハンだったみたいです」
野間「あんなに驚かなくてもいいのにねぇ」
モリエ「それにしても、野間さん。なんでいつもカメラの前に出たがるんですか?」
野間「だって、女優ですもの。カメラを見たら、女優魂がね……むらむらっと」
モリエ「ところで幸枝さん、改めての確認なんですけど……俺たちって、何でしたっけ?」
幸枝「わかってるでしょ。……幽霊よ」
モリエ「やっぱり。いやー、時々確認しないと、つい忘れそうになるんですよ」
愛理が語る。
川の向こうに 白い船が浮かぶとき
私たちは また「思い出せない」のね
どこで生まれたか
いつ生まれたか
名札のない魂は 桟橋で立ち尽くすばかり
乗船名簿に 空欄があると
その船には 乗れないの
「名前を書くには 思い出さなくちゃ」
でも私たち、肝心なとこが ぽっかり抜けてる
人にはみんな ソウルメイトがいて
どの船団に入るか 生まれる前から決まってるんだって
でも、相手の顔も 合図の言葉も
霧の中に隠れて見えない
だから 今日も「ビオレ」に来る
駅でもなく 港でもなく
どこかの待合室みたいな場所
コーヒーの香りと、微温い光に包まれたところ
私たちは椅子に座り
窓の外を流れる川を眺めながら
記憶のかけらが ふっと戻るのを
ただ 静かに 待っているのよ
ここはあの世行きの船に乗るために一時休憩する店でもあった。
たとえば、こんな幽霊が立ち寄った。
ある晩、ひとりの女が店のドアをくぐった。濡れたスーツにヒールを履いたまま、手にはまだ黒光りするスマートフォンを握っていた。カウンターの椅子に腰掛けると、女は「アイスコーヒー、氷なしで」と注文した。氷なしとは珍しいと思ったが、幸枝は無言で淹れた。
「電波、届いてるかしら……」女は虚空を見つめながらスマホをいじっていた。どうやら、自分がもう死んでいることに気づいていない。
幸枝が「どちらから?」と訊ねると、女はこう答えた。
「丸の内です。会議中に倒れちゃって。でも、まだ送ってない報告書が三つあるのよ。
まさか死んでも未送信が残るなんて……」と苦笑いを浮かべた。
そのとき、店の奥から「未送信の報告書は三途の川を渡る時、石になって沈むぞ」という声が聞こえた。
誰が言ったのかはわからないが、店の誰もが黙った。
やがて女は溜息をつき、スマホをそっとカウンターの上に置いた。
「じゃあ、渡るために乗船しようかしら」と立ち上がった時、スマホの画面がふっと暗くなった。
もう通知もバイブも、何も響かない。
幸枝はそのスマホを裏返して、そっと小さな引き出しにしまった。
中には他にも似たような「未練の品々」が、ひっそりと並んでいた。
ある夜、ドアがそっと開いて、ひとりの女が入ってきた。ベレー帽にトレンチコート、手には年季の入ったトートバッグを提げている。年齢は五十代後半だろうか。どこか古い映画館の空気をまとっていた。
彼女はカウンターに腰掛け、「ホットココアを。マシュマロはひとつだけで」と注文した。
幸枝は黙って頷き、やや懐かしいやり方でココアを温め始める。
女はバッグから何かを取り出した。それは、色褪せた映画のパンフレットだった。昭和の末に公開された、名画と呼ばれるには少し早すぎた作品のものだ。
「もう一度だけ、あの映画を大きなスクリーンで観たかったのよ」女は静かに言った。「あのラストシーン……主演の彼が、駅のホームで彼女を見送るあの瞬間。あれだけで、私、何年も生きていけた」
幸枝は差し出されたパンフレットに目を落とした。紙の端はすり切れ、主演俳優の名前の下に、小さな文字で「特別上映会 来場者プレゼント」と書かれていた。
「じゃあ、最後に観たんですね」
「ええ。でも……会場のシートに座ったまま、目が覚めなかったの。エンドロールが終わる前に」
そのとき、店の奥の棚にあった古いラジオから、偶然にもその映画の主題歌が流れた。女はうっすらと微笑んだ。ココアの湯気が、どこか懐かしいフィルムのようにゆらゆらと揺れていた。
やがて彼女は、パンフレットを丁寧に畳んでテーブルに置いた。「ありがとう。これでやっと、席を立てるわ」
そして、何事もなかったかのようにドアを開け、外の闇の中へと消えていった。
幸枝はパンフレットを受け取り、店の奥にある小さな箱にそっと収めた。その中には、時代ごとの「別れた映画たち」が眠っていた。
タワシ2号
「ビオレ」の壁掛け時計が、まもなく8時を告げようとしていた。
「8時ちょうどの~あずさ2号で~」の曲が流れる。
どこからともなく声が割り込む。
「たわし! は たわし! は あなたから旅立ちます〜!」
そこにいた野間が思わず吹き出す。
「……あんた誰?」
紫のフリルドレスをまとい、額にそろばんをバンダナのように巻いた奇怪な女が、
たわしをマイク代わりにして名乗る。
「わたくしざんすか? トニー谷の弟子だった、トニー谷子ざんす!」
続いてそろばんをポロンポロン鳴らしながら歌い出す。
「あなたのボーナスなあに〜ざんす〜? ふところ事情が気にな〜るざんす〜」
そろばんをジャラララッと回してパチン!
「……あら、50万円ざんす! 薄給ざんすね〜!」
野間がむっとしながらも笑いを堪えきれずにいると、
モリエが顔を出す。
モリエ「……あんた、トイレから出てきたと思ったらなんなの?」
トニー谷子はくるりとターンしながら投げキッス。
「ざんす芸は突如あらわれ、突如去る。それが美学ざんす!」
野間「なにそのプロ意識……ていうか、“ざんす芸”ってジャンルあるの?」
トニー谷子がそろばんを持ち直し、決めポーズ。
「芸は身を助けるざんす。そろばんは、音も出るし計算もできる便利アイテムざんす!」
そのとき――
「ボ~~~~~~ッ!」
という船の汽笛のような音が店内に鳴り響く(※店の空気清浄機の故障音である)。
トニー谷子はぴたりと直立して一礼。
「そろそろ……時間ざんすね」
そう言い残し、カウンターの後ろにスッ……と姿を消す。
野間「え、どこ行った!? この店、秘密通路あるの!?」
モリエ「……ちょっと、椅子にこれ置いてあったわ」
と差し出したのは、ピンクの紙ナプキンに走り書きされたメモ。
『また来るざんす♡ 今度はナポレオンズの弟子も連れてくるざんす』
野間「いや、連れてこないで!」
モリエ「てか、あの人、トニー谷に似てたわね……」
野間「……イヤミってキャラのモデル、トニー谷だったらしいよ」
モリエ「じゃあ、イヤミの弟子の弟子ってこと?」
野間「もう何代目かわからんけど、“ざんす”の血だけはしっかり受け継がれてる」
そして、何事もなかったように野間が歌い出す。
「たわし〜 は たわし〜〜 は あなたから〜〜〜」
モリエ、ぽつりとつぶやく。
「……歌詞だけは地味にクセになるのよね」
芸人つや子
「記憶があらへん。だから船に乗れへん」
と歌いながら、女が店に入ってきた。
「……どーもどーも〜。ようこそ地縛カフェ『ビブレ』へ〜。
本日も乗船——じゃなかった、ご来店ありがとうございます〜!」
その声とともに現れたのは、くすんだスーツに、マイクスタンドをずるずる引きずるような女だった。
野間が目を細める。
「……あんた、誰?」
モリエが首をかしげる。
「芸人……っぽい?」
女は勝手にステージもない店の床に立ち、そのまましゃべり出した。
「うちは花岡つや子。芸人やってました。
でもなあ、最後の舞台でオチをつけ損ねてもうてな。
なんか気持ち悪うて……地縛霊になってしもたんですわ」
滑るような喋り。たまに噛む。
でも、それすらも笑いに変えてしまう独特の間と調子。
いつの間にか、店内の空気がやわらいでいた。
つや子は続ける。
「オチって、そんなん必要?
最後にちゃんと笑えるように、ってことやろ?」
「ここに居るってことは、あんたらも皆、
“ちゃんと”終われてへんのやないかい。
せやから、うちは——」
つや子の語りが始まった。
お笑いの劇場でやらかした恥ずかしい話。
師匠にどやされた夜。
客にブーイングをくらって、逃げるように舞台を降りたこと。
「笑ってええんやな」
「成仏しきらんでも」
「オチがなくても、生きてたんやな」
その瞬間、乗船案内人が店内に現れてあの世行きの乗車券をつや子に渡そうとする。
「……あんた誰?」
案内人「なんかの手違いで、乗車券が発行できてなかったんです。
今、発行できましたので、船はまもなく出港します」
「ほんまか……?
ちょうど時間となりました。
……これが、あたしの“千秋楽”ですわ。
船から落ちんようにするやさかい」
つや子は、ゆっくりと振り返った。
「ほな皆様——さいなら」
そう言って、つや子は店をあとにした。
パトラ
「パトラ、 ペラルーナ、パトラ、ぺーラ、ルーナ」と歌いながら
クレオパトラを演じたら、
日本で一番の女優が現れる。
とうとう、ヘビに噛まれて死んだクレオパトラよろしく――ではなく、“ヘビー”な現実に押しつぶされるように、清水の舞台から真っ逆さまに転げ落ちた。気づけばそこは、まさしく奈落の底。
拍手も喝采も届かない、誰にも見られていない舞台の裏側だった。
そして彼女はふと振り返り、シェイクスピアのあのセリフを口にした。
「私の衣を、冠を持ってきて。私の中に、不死の渇望がある)」
それからワインのグラスを掲げ、「出港よ!」と叫びながら、颯爽と店を出ていった。
森みつえ
「野間さん……今、音がしました」
愛理が耳を澄ませる。
「これは……三味線だな」
モリエが静かに答えた。
野間が手を合わせる。
「なんかすごいオーラが 来るよ 来るよ いやな予感」
和服姿の女が現れた。
静かに佇むその姿には、時間が止まったような品格と、ほんの少しの恨み節が混ざっていた。
「みつえです。座長です」
女は堂々と名乗った。
「座長……」と愛理がつぶやいた。
「千回公演をやる予定だったのよ。でもね火事で全部パー。
観客は来ないし、私の最後の舞台も消えちゃったの」
「先生……まだここに?」と野間が問う。
「そうなの。悔しくて悔しくてね。死んでも死にきれないって、こういうことなのよ」
みつえは乗船切符をもっている。
みつえは愛理の前にまっすぐ近づいた。
その瞳は燃えるような情熱と、どこかあっけらかんとした軽やかさを湛えていた。
「ちょっと、あなた。私の最終公演、脚本書いてくれない?」
「……え?」
「え、じゃないわよ。あなたの顔は脚本家の顔よ。それに目が脚本家してるのよ」
「わたしは記憶がないので・・・・」
「座長、頼みますから乗船してください」
「やだ。舞台に立たずにあの世だなんて、私の美学が許さないの」
大鳥ヘップバーン
「船着き場→」という板切れの看板が、風に揺れている。
その前に、優雅な佇まいでたたずむ女――
白いワンピースに黒いサングラス、手には小さなトランク。
大鳥ヘップバーン。自称“日本のオードリー・ヘップバーン”
大鳥「ここが……あの世行きの船の乗船場、ね……」
彼女はため息をつきながら、空を見上げる。
そこへ、モップを手にした温泉スタッフのケイコが現れる。
ケイコ「……あの、お客さん。そこ、温泉の入口ですけど」
大鳥「あら。てっきり、三途の川クルーズの乗り場かと。
受付で“ご乗船までお待ちください”って言われたものだから……」
「それ、浴槽にお湯がたまるまでの話ですってば!」
「あらまあ。でも納得だわ。あの世にしては、お肌がツルツルしてきたと思ったの」
「そりゃビブレの泉質ですよ! “死んだ気になる湯”じゃなくて、“生き返る湯”!」
ふと、山の風が吹き、彼女のサングラスがふわりと飛ばされる。
それを追って慌てて転びかけるヘップバーン。
大鳥「ああっ! 私の黒い未来が!」
ケイコ(いやそれただのサングラス……)」
大鳥「でも……この温泉、悪くないわね。天国の手前くらいの心地よさ」
ケイコ「……そう言って帰らないお客さん、今年もう3人目です」
パンフレット
愛理は「ビブレ」の床に落ちていたパンフレットを手に取った。
「これ……」
黄ばんだ紙は、映画のパンフレットだった。そこには女優の横顔と、大きな明朝体でタイトルが記されている。
「見て、みんな」
愛理が手にしたパンフレットを広げると、モリエと野間が顔を寄せた。
「なんだか懐かしい匂いがするわね」とモリエが言う。
愛理は紙の手触りを確かめながら、呟いた。
「この映画に関わっていたのを……思い出したの。
変ね、なぜかしら。ずっと忘れていた」
「もしかして、愛理さんは脚本家だったんじゃないかしら?」
モリエがそう口にしたとき、野間がゆっくりと声を上げた。
「『夜の流れ』……1960年、吉村公三郎監督……」
野間の目はチラシの小さな文字を追っていた。
「山本富士子が演じる妻は、夫の裏切りにより家を出て、ホテル暮らしを始める。
でも、どこかで信じているの。夫がいつか、愛人を捨てて戻ってくるって。その信念が……やがて残酷な希望に変わる。静かに崩れていく心。それでも、彼女は『帰ってきて』とは言わない。誇りを失わない、ただの女じゃなく……誇り高い女として、待ち続ける」
野間の声が震えていた。
「……思い出したの。なぜここに来たのか」
その場にいた誰もが野間の言葉を待った。
「私、自殺しに来たのよ。ここに。
そして……愛理さんだけじゃない。私も記憶をなくしてた。
死んだ理由も、生きてた頃のことも……」
愛理は、パンフレットを見つめて呟いた。
「誇りをもって生きた女の話。
私……この映画の脚本を書いた気がする。
だとしたら――なぜ、記憶喪失に?」
(皆に背を向け、キョロキョロしながら三田が入ってくる)
三田 「誰かいますか?」
(一同、三田を見る)
三田 「誰もいないなら入りますよ」
(三田、振り向いて一同を見る)
三田 「……わッー!! なんですかあなたたち!」
愛理 「三田さん、私たちが見えるんですか?」
三田 「え、なんで私の名前を?」
愛理 「心霊写真売りの三田ノリコさんですよね」
三田 「そうですけど。以前どっかでお会いしましたっけ?」
モリエ 「以前ここに来られてたじゃないですか。お人が悪い」
三田 「人が悪いってどういうことですか?」
モリエ 「ほら、私たち。ほら、スマホの写真に写ってたでしょ?」
三田 「あ! あの幽霊! ちょっとまって。あ、そっちの方も」
(入ってきた野間を指さす)
野間 「それが心霊写真の正体ですわ」
三田 「ばっちりの心霊写真! これは、お金になるわ!」
モリエ 「それは無理だと思いますよ。だって三田さん、死んでるでしょ」
三田 「え?」
モリエ 「だって私たちが見えるでしょ?」
三田 「…そうだ。心霊写真にひどく驚いて、バイクを飛ばしていたら、スリップして…即死でした」
愛理 「即死ですか」
野間 「それはお気の毒に」
三田「ここは?」
「サンズリバーサイド・・・」
映画のパンフレットを見たモリエは、指先がふるえた。何気なくページをめくったその瞬間、紙の匂いとともに、脳裏にぼんやりとした映像が浮かび上がる。
――この映画、私、観たことがある。
呟いた声はかすれていた。誰に向けたわけでもなく、自分自身に確かめるように。その映画は、たしかに昔観た。劇場の暗闇の中で、夢中になってスクリーンを見つめていた。面白くて、翌週、もう一度観に行ったのだ。二度目の上映中――。
突然、非常ベルが鳴り響いた。何かが焦げる匂いがして、場内にざわめきが広がった。誰かが叫び、それを合図にしたかのように観客たちが一斉に立ち上がった。
暗闇のなかで押し合い、叫び、転び、逃げまどう人の波。その混乱のなか、彼女は娘の手を握っていた。小さな手。そのぬくもりだけが、唯一の拠り所だった。
「ママ、こわい……」
「だいじょうぶ、走って」
そう言って、娘を先に押し出した。非常口の明かりを目指して、背中を押してやった。だがその瞬間、後ろから押し寄せる人の波に呑まれ、誰かの重みがのしかかってきた。彼女は転び、そのまま床に倒れこみ――そこから先の記憶は、ない。
けれど今、なぜかこの映画のパンフレットが、忘れていた光景を呼び覚ました。娘の小さな後ろ姿。非常口に向かって走っていく姿。あの子は、助かったのだ。
そうだ。私には――娘がいたのだ。
逃げのびたのは娘だけだった。モリエは、劇場の火事で命を落とした。そして今もなお、その事実を完全には受け入れられないまま、この世をさまよっている。
胸の奥にぽっかりと空いた空白。その正体が、いまようやく形を持ちはじめていた。なぜ自分がこの映画館に引き寄せられたのか。その理由も、すべてがつながる。
私はここにいる。けれどもう、生きてはいない。
あの子は、私の記憶の中で、ずっとあの小さな声で呼びかけている。
――ママ、ありがとう。
モリエはパンフレットを胸に抱きしめた。その紙の感触すら、本当はもう感じていないのかもしれない。それでも、今だけは確かにあの子の命をつなげたという実感が、彼女の心を満たしていた。
「ああ……思い出した。私、火事で死んだのね。娘は助かったけど……そう、それだけじゃない。あの子……あの子は、本当は私の娘じゃなかった。思い出したの。昔、ビブレが火事になったとき、消防士がひとりの女の子を助け出したの。不憫で……放っておけなくて。私が育てたのよ、自分の娘として――そうだったのね……」
モリエの回想
幼いサキが見つかったのは、まだ夜が明けきらない早朝だった。
健康ランド「ビブレ」の裏手、消火活動が終わったばかりの宿泊棟跡。崩れかけたコンクリートの影に、すすだらけの毛布にくるまって、ひとり蹲っていた。
「……あなた、大丈夫?」
エステティシャンのモリエが声をかけると、少女はかすかに顔を上げた。焦げた前髪、焼け焦げたぬいぐるみを抱いたその手は、まだ赤くただれていた。
「サキ……」
近くにいたスタッフの誰かがつぶやいた。予約名簿に記載のあった名前。母親は宿泊客のひとりで、昨夜の火災で亡くなったと聞いていた。
漏電か、ヒーターの誤作動か――詳細はまだ分からない。だが、モリエの胸には、かすかな痛みが残っていた。
自分がその場所の一角で働いていたこと。見落とした何かがあったのではないかという疑念。
そして何より、目の前で呆然と座る幼い少女を、放ってはおけなかった。
「……私が育てます」
翌朝、モリエはオーナーにそう告げた。
オーナーは黙って煙草に火をつけ、しばらく何も言わなかった。
火災の責任は、彼自身が重く感じていた。
客が死んだ。そして、その子どもが遺された。たとえ設備上の過失がなくとも――「ビブレ」の敷地内で起きたことだ。それは、彼の人生の汚点として残るはずだった。
「名前、サキって言うんだってな」
「はい。まだ、四歳です」
「……だったらなおさらだ。責任は、俺にもある。おまえに託す。あの子の面倒と……この“ビブレ”の未来もだ」
モリエは目を見開いた。
「え?」
「俺の跡を継げ。ビブレは、おまえと……サキに任せる」
冗談のように聞こえたが、オーナーの目は本気だった。
もともとモリエは誠実で、客にも信頼されていた。だが、それ以上に――オーナーは、サキという存在に自分の罪の重さを見ていた。贖罪とは言わない。ただ、せめてもの責任として、未来を託す場所を用意したかったのだ。
モリエは黙って頭を下げた。
サキの手を引いて、ビブレの廊下を歩く。
かすかな温泉のにおい。誰かの笑い声。かつて母娘で泊まった記憶が、この子の心にどう刻まれているのかはわからない。
でも、自分がこの子に与える日々が、少しでも温かく残るように――それだけを願っていた。
ペンダント
その日、ビブレの廃墟に、若い女性がひとり現れた。
サキである。コロナ禍で経営が傾いてビブレ売却の報告に来たのだ。
春霞の中を歩いてくるその姿に、モリエは目を見張った。
「え!……?」
モリエが呟く。幽霊である彼女たちに、人間の姿は曖昧にしか映らないはずだった。けれど、彼女だけは違った。まるで記憶の奥底に焼きついたような、懐かしさがこみ上げてくる。
若い女性――サキは、首から銀色のペンダントを下げていた。古びた楕円形のそのペンダントを見た瞬間、モリエの中で、何かが弾けた。
「……そのペンダント……!」
声が震えた。指が勝手に伸びる。
「それ、私の……いえ、母の形見……。どうして、あなたが……?」
サキははっと立ち止まり、周囲を見渡したが、幽霊の姿は見えない。けれど、モリエにはもう確信があった。
「そうだ……そうだった。私、あなたを育てたのよ……」
「育てた……?」
一緒にいた愛理が呟いた。モリエの瞳がすっと細められる。
「私はたまたまあの子――サキを見つけたの。……不憫で……だから……」
モリエの声は涙ににじんだ。
「私、あの子を……サキを育てたのよ」
愛理は顔を上げた。胸に鋭い衝撃が走った。
サキ。
その名前が、心の奥で何かを強く叩いた。サキ――それは、彼女が記憶の彼方に忘れていた、大切な響きだった。
「……待って。まさか……」
愛理はモリエを見つめた。幽霊同士、目を合わせることはできた。
「その子……本当は……私の……?」
モリエは驚いたような、まさかという顔をして引き出しへ向かった。ぎいと音を立てて開いたそこには、名簿が一冊、残っていた。
ページをめくると、あの日の記録。そこに書かれていたのは、「三浦愛理」という名前と、その下にもうひとつ――「三浦サキ(幼)」。
愛理はその文字を見つめたまま、崩れるように膝をついた。
「……私……あの子の……母親だった……」
そのとき、愛理の背に温もりが走った。忘れていた時間、忘れていた痛み、忘れていた愛情。すべてが一気に押し寄せて、涙がこぼれた。
サキは遠く、廃墟の入り口に立ち尽くしていた。
なぜか目に涙を浮かべていた。
サキはその場所をあとにした。
二人はみつめあって それから二人は サキの後ろ姿を暖かく見送った。
幸枝は二人の会話を聞いていて思い出した。
あの日愛理がサキと乗船するときに立ち寄ったことを
サキにチョコレートを上げたことを
そして自分は火事で死んだことを
終わり
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初稿 2025年7月5日




