苗場のマンション、30万円
苗場のマンション、30万円
その文字を見た瞬間、松島は心が揺れた。
東京で四十年以上暮らしてきた。町工場で働き、定年まで真面目に勤め上げた。だが、退職した途端に現実が迫ってきた。毎月の家賃。年金は十一万円。貯金は七百万円ほど。贅沢をしなければ生きていける。だが、“家賃を払い続ける老後”に、どうしても不安が消えなかった。
独身。身寄りなし。
病気になったらどうなるのか。
働けなくなったらどうなるのか。
そんな時に見つけたのが、ネットの不動産広告だった。
「苗場エリア・リゾートマンション 30万円」
思わず二度見した。
東京では駐車場も借りられないような値段で、“自分の家”が持てるという。
しかも苗場――。
若い頃、スキーブームの時代に憧れた土地だった。テレビで流れる苗場プリンスホテルのCM。白銀の世界。ユーミンの曲。あの時代の空気が、一気によみがえった。
「最後は、こういう場所で静かに暮らすのも悪くない」
そう思った。
翌日には不動産会社へ電話していた。
現地で見たマンションは古かった。バブル時代の名残を感じさせる建物だったが、部屋は意外と広い。窓の向こうには山が見えた。
「ここが、自分の城になるのか」
松島は即決した。
三十万円。
東京で払う家賃数か月分だった。
管理費や修繕積立金、固定資産税を合わせても年間四十万円以下。計算上では、東京にいるよりはるかに楽になる。
移住した最初の頃は、本当に天国のようだった。
夏は涼しい。
空気はうまい。
夜は静か。
「もっと早く来ればよかった」
そう思っていた。
だが――。
十二月。
地獄が始まった。
朝、玄関を開ける。
そこには、腰の高さまで積もった雪。
駐車場の車は完全に埋まり、出勤前に一時間近く雪かきをしなければならない。スキー場で始めたアルバイトに向かうだけで、体力が削られていく。
雪は美しいものではなかった。
命を削るものだった。
腰が痛い。
膝が悲鳴を上げる。
転倒したら終わりかもしれない――そんな恐怖が、六十九歳の身体に重くのしかかる。
さらに追い打ちをかけたのが光熱費だった。
暖房。
プロパンガス。
灯油。
冬タイヤ。
車の維持費。
東京時代より金が飛んでいく。
「話が違う……」
思わず呟いた。
だが、誰に文句を言えばいいのか分からない。
安さだけを見て、自分で選んだのだから。
春になっても、不安は消えなかった。
ここで十年後、生きていけるのか。
七十歳を超えた時、自分一人で雪かきができるのか。
もし病気になったら。
もし車を運転できなくなったら。
そして松島は、あることに気づく。
東京へ戻ろうにも、戻れない。
苗場のリゾートマンションは、買う時は三十万円だった。
だが、“売る”となると話は別だった。
問い合わせは、ほとんど来ない。
「無料でもいらない、という人も多いですよ」
不動産屋は苦笑した。
その瞬間、松島は理解した。
自分は「終の棲家」を買ったのではない。
“出口のない部屋”を買ってしまったのだ、と。




