植草甚一風にジェニファー・ジョーンズを
植草甚一風にジェニファー・ジョーンズを
新宿の裏通りの古本屋で、古い『スクリーン』を見つけた。表紙は ジェニファー・ジョーンズ である。たぶん『慕情』のころだろう。あの人の顔は、写真によってずいぶん違う。ハリウッド女優なのに、どこか「地方の娘」みたいな雰囲気が残っている。そこがいい。
戦後、日本人がアメリカ映画を見て驚いたのは、豊かさよりも「光」だったんじゃないかと思う。街路灯の光、自動車のクロームの光、それから女優の髪の光である。 ジェニファー・ジョーンズ の顔には、その光がよく似合った。
もっとも、ぼくは彼女を見ていると、ニューヨークよりも少し古いアメリカを思い出す。大都会ではなく、駅前にドラッグストアが一軒だけある町の感じだ。だから、彼女は都会派女優ではない。むしろ「途中駅の女優」である。
昔、浅草の映画館で『白昼の決闘』を見たとき、隣の学生が「この人は悲しそうだな」と言った。うまいことを言うと思った。美人というのは説明できるが、悲しさは説明できない。説明できないものを持っている女優は強い。
いまの映画スターは、自分を完成品として見せたがる。しかし、 ジェニファー・ジョーンズ は、少し未完成に見える。その「少し足りない感じ」が、映画を見ている側の想像力を刺激したのだろう。
ジャズでいえば、きれいにまとまりすぎた演奏ではなく、夜中のクラブで少しだけ音を外すトランペットに近い。
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