『沢田研二と原爆:ライ麦畑と檸檬爆弾の人間失格(日本文学・映画考察)』
『沢田研二と原爆:ライ麦畑と檸檬爆弾の人間失格(日本文学・映画考察)』
第一章:レモンが原爆に変わるまで(前半)
京都の寺町通りにある果物屋の店先で、その男は足を止めた。
梶井基次郎が手にした一個の冷ややかな「檸檬」は、得体の知れない憂鬱を抱えた彼にとって、丸善という巨大な「インチキ」を爆破するための、ささやかな聖域だった。
それから五十年余りが過ぎた。
スクリーンの中の沢田研二は、その想像力のレモンを、本物の「原子爆弾」へと作り変えてしまった。
長谷川和彦が監督した『太陽を盗んだ男』において、ジュリーが演じる城戸誠は、アパートの自室で孤独に核を練り上げる。
それは、ホールデン・コールフィールドがニューヨークの街角で唾を吐きながら探し求めていた「純粋さ」への、最も過激な回答だったと言えるだろう。
サリンジャーが書いた『ライ麦畑』の言葉は、海を渡り、日本の湿った自意識と混じり合い、やがて核という絶対的な物理力を手にしたのだ。
城戸誠は、太宰治の『人間失格』が描いたあの「道化」の系譜に連なる末裔である。
しかし、彼はもはや、自分を偽って世界に媚びるような真似はしない。
彼は、自分を傷つけた世界そのものを「心中」の相手として指名したのだ。
丸善の棚に置かれた一個のレモンが、一都市を壊滅させる熱量へと膨張した瞬間。
そこには、文学という名の「インチキ」を現実の暴力で塗りつぶそうとする、若者の悲痛な叫びが凝縮されている。
私たちは、この美しすぎるテロリストの中に、自分自身の姿を見出さずにはいられない。
なぜなら、私たちもまた、自分だけは生き残るための「自分だけの爆弾」を、常に心のどこかで組み立てているからだ。
すべては、あの静かな京都の午後、一個の果実を棚に置き去ったあの日から、すでに始まっていたのである。




