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フェイドアウト断章  作者: 石藏拓(いしくらひらき)


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蒸発の男  第四章 黒いコートの男

蒸発シリーズ

『蒸発の男』


第四章 黒いコートの男


 その男は、雨の夜にやってきた。


 管理人は、そのことをはっきり覚えていた。古いアパートの廊下に、雨の匂いが流れ込んできたからだ。


 黒いコートを着ていた。


 長いコートだった。肩のあたりが濡れて、鈍い光を放っていた。


 男は管理人室の前で立ち止まり、低い声で言った。


「三〇二号室は?」


 ぶっきらぼうな聞き方だった。


 管理人は、反射的に答えていた。


「突き当たりです」


 男は礼も言わず、廊下を歩いていった。


 足音が妙に静かだった。古い木の床なのに、ほとんど音がしない。


 管理人は、なぜかその後ろ姿を見続けていた。


 黒いコートの裾が、ゆっくり揺れていた。


 それが、妙に印象に残っている。


 女はその話を黙って聞いていた。


「時間は?」


 管理人は少し考えた。


「九時くらいだったと思います」


 女はノートに書き込んだ。


「そして?」


「三〇分くらいで出てきました」


「三〇分」


 女はその数字を小さく復唱した。


 管理人は続けた。


「出てくるとき……笑っていたんです」


 女の目が少し細くなった。


「どういう笑いです?」


 管理人は言葉を探した。


「うまく言えませんが……」


 そして、ゆっくり言った。


「仕事が終わった人の顔でした」


 部屋の空気が、しんと静まった。


 女は窓の外を見た。


 夕方の光が、古い町の屋根を赤く染めている。


「その男、見たことは?」


 管理人は首を振った。


「ありません」


 女は少し考えた。


「身長は?」


「高いですね。百八十くらい」


「年齢」


「四十……いや、もっと若いかもしれない」


 女はノートを閉じた。


「わかりました」


 管理人は、たまらず聞いた。


「その男、知ってるんですか」


 女は少しだけ迷うような顔をした。


 そして言った。


「ええ」


 管理人の背中に寒気が走った。


「知ってるんですか?」


 女はうなずいた。


「たぶん」


 少し沈黙があった。


 女は静かに言った。


「黒いコートの男」


 その名前を言うように、ゆっくりと。


「蒸発屋です」


 管理人は意味がわからなかった。


「蒸発屋?」


「人を消す仕事をする人間です」


 女の声は、まったく感情がなかった。


「戸籍も、住まいも、過去も、全部消す」


 管理人の喉が乾いた。


「そんな……映画じゃないんですから」


 女は言った。


「映画より多いです」


 窓の外に夜が落ち始めていた。


 女はバッグを持った。


「その男が来たということは」


 管理人は黙っていた。


 女ははっきり言った。


「この町に、消える予定の人がいる」


 管理人の声が震えた。


「……もう一人?」


 女は答えなかった。


 その代わり、静かに言った。


「早く見つけないと」


 そしてドアの前で止まった。


「次は、本当に消えます」


 女は振り向かなかった。


 廊下の電灯が、ひとつずつ灯り始めていた。


 管理人はその場から動けなかった。


 黒いコートの裾だけが、頭から離れなかった。



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