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フェイドアウト断章  作者: 石藏拓(いしくらひらき)


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蒸発の男 第一章 消えようと思った朝

蒸発の男

第一章 消えようと思った朝


---


その朝、男は電車に乗らなかった。


いつもの駅だった。

いつものホームだった。


通勤客が長い列をつくり、誰もがスマートフォンを見ている。

顔を上げている人間はほとんどいない。


男もその一人だった。


毎朝同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ会社へ行く。

それが十年以上続いていた。


別に不満があるわけではない。


給料は高くないが、生活はできる。

妻もいる。

小さなマンションもある。


だが、その朝だけ、ふと男は思った。


――もし、このまま消えたらどうなるだろう。


電車がホームに滑り込んできた。

人の波が動き出す。


男も一歩前に出た。


だが、そこで足が止まった。


押し込まれるようにして人々は車内へ吸い込まれていく。

ドアが閉まり、電車は発車した。


男はホームに残った。


次の電車まで三分。


男はベンチに腰を下ろした。


三分後、次の電車が来た。

それも満員だった。


男は乗らなかった。


三本目の電車が来た。

それにも乗らなかった。


そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

会社からの着信だった。


男は画面を見つめた。


しばらくして、電源を切った。


それはほんの小さな行動だった。

だが男には、大きな決断のように思えた。


男は立ち上がった。


改札を出た。


会社とは反対の方向に歩き出した。


空はよく晴れていた。

平日の朝とは思えないほど、町は静かだった。


男はコンビニで缶コーヒーを買った。

こんな時間に街を歩くのは久しぶりだった。


思わず笑いそうになった。


「俺、蒸発したのか」


まだ誰も気づいていない。

まだ誰も探していない。


会社では、少し騒ぎになっているかもしれない。

妻もそのうち連絡してくるだろう。


だが、まだだ。


まだ誰も知らない。


男は歩き続けた。


駅から離れ、川沿いの道に出た。

春の風が少し冷たい。


男は橋の上で立ち止まった。

川を見下ろした。


水はゆっくり流れていた。


その流れを見ながら、男は小さくつぶやいた。


「今日から俺は、いない人間だ」


男はポケットからスマートフォンを取り出した。

電源は切れたままだった。


しばらく眺めてから、ポケットに戻した。


そして再び歩き出した。


どこへ行くのか、男自身にもわからなかった。


ただ、会社へは戻らない。


それだけは決めていた。


男の蒸発は、

こうして静かに始まった。


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