ライ麦畑に赤頭巾ちゃんはいない
ライ麦畑に赤頭巾ちゃんはいない
『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドと、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の庄司薫。この二人の語り口は、一見すると乱暴だったりおどけていたりしますが、その裏には鋭すぎる感受性が隠されています。
もし彼らが同じ場所で、自分の物語を語り始めたらどうなるか。それぞれの文体を意識してアレンジした比較文を作成しました。
インチキへの嫌悪と、育ちの良さの混在
ホールデンの独白を借りるなら、彼はきっとこう言い始めます。
「もし君が本当にこの話を聞きたいんなら、まず僕がどこで生まれたかとか、僕のひどい子供時代がどうだったとか、僕の両親が何をしていたとか、そういうデヴィッド・コパフィールドみたいなクソ面白くもないことから話さなきゃならないんだろう。だけど正直なところ、僕はそんな話はしたくないんだ。そういうのは全部インチキだし、話してるとへどが出る。ただ、僕が去年のクリスマスの前あたりに、どうやって自分を見失いそうになったか、そのおかしな話だけを教えてやるよ」
これに対して、薫くんの語り口はもう少し軽やかで、理屈っぽさが混じります。
「さて、そんなわけで僕はいま、自分の部屋でこの文章を書いているわけなんだけれど。世の中には本当にいろんな種類の狼がいて、みんな虎視眈々と僕たちの純粋さを狙っているんだ。だからこそ、僕は自分に向かってこう言わなきゃいけない。『赤頭巾ちゃん気をつけて』ってね。もちろん、僕がこうして言葉をこねくり回しているのだって、ある種の自己弁護かもしれない。でもさ、東大入試が中止になって、行く場所を失った僕のこの所在なさを、誰が笑えるっていうんだろう?」
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二人の語り口に見る共通の構造
この二つの文章を並べてみると、ある共通したパターンが見えてきます。
第一に、読者に対して「君(あるいは僕)」と直接語りかけるスタイルをとっていることです。これは既成の文学が持っていた堅苦しい三人称の視点を拒絶し、一対一の親密な告白という形をとることで、読者の心に直接入り込もうとする手法です。
第二に、既存の価値観に対する徹底的な不信感です。ホールデンはそれを「インチキ(phony)」と呼び、薫くんはそれを「狼」や「既成の秩序」として捉えています。二人とも、大人が作った出来合いの言葉で自分の感情を説明されることを、死ぬほど嫌がっているのがわかります。
第三に、言葉遣いはラフであっても、その根底には高い教養と繊細さが流れている点です。ホールデンは古典文学を引き合いに出し、薫くんはクラシック音楽や哲学的な思考を織り交ぜます。彼らは野蛮なのではなく、あまりに知的で繊細すぎるからこそ、世の中の無神経さに耐えられず、あえて斜に構えた態度をとっているのです。




