仮想短編:月見草、キングカズを叱る
仮想短編:月見草、キングカズを叱る
場所は神宮球場のネット裏。老眼鏡を鼻先にずらした野村克也が、グラウンドで誰よりも早くウォーミングアップを始める「背番号11」をじっと見つめている。
「……おい、シダ(記者)。あいつは一体、何を追いかけとるんだ?」
野村のトレードマークである、低く湿り気を帯びた声が響く。記者が「カズさんは自分自身の限界に挑戦し、現役であることにこだわっています」と模範解答を返すと、野村は鼻で笑った。
「限界? 限界なんてのは、とっくに通り過ぎとるよ。プロっていうのは、客に夢を見せる仕事かもしれんが、その前提には『勝利への貢献』という絶対条件がある。今の彼に、チームを勝たせる具体的な根拠がどこにある?」
野村は手元のスコアブックをパタンと閉じ、ベンチから重い腰を上げた。そのままカズのもとへ歩み寄る。周囲の空気が凍りつく中、野村はカズの目の前で立ち止まった。
「おい、三浦。ちょっと耳を貸せ」
カズが足を止め、敬意を込めて深く頭を下げる。野村はその鋭い眼光を緩めることなく言葉を継いだ。
「お前の情熱は認める。だがな、プロの世界に『思い出作り』の居場所はないんだよ。お前がその椅子に座り続けることで、本来ならそこで泥をすするべき若手のチャンスが一つ消えとる。それは考えたことがあるか?」
カズが何かを言おうとするのを、野村は手で制した。
「三流は財を残し、二流は名を残し、一流は人を残す……。ワシはそう言ってきた。お前は十分に名を残した。だが、今の姿で何を残しとる? 『自分がやりたいからやる』。それはプロじゃなく、ただの贅沢な趣味だ。本当の一流になりたいなら、お前のその膨大な経験を、次の世代に注ぎ込んでみろ。言葉で、理論で、あいつらにプロの怖さを叩き込んでやれ。それが日本サッカー界に対する、お前の最後の責任じゃないのか?」
カズは黙って野村の言葉を噛みしめている。野村はふいと視線を逸らし、若手選手たちが練習する向こう側に目を向けた。
「……ま、ワシみたいな月見草には、ひまわりの枯れ時は分からんがな。ただな、ボロボロになって散るのが美学だなんて、マスコミの書く絵空事に酔うなよ。プロは、引き際までプロであるべきだ」
そう言い残すと、野村は一度も振り返ることなく、重い足取りで監督室へと消えていった。




