ウクライナで起きていること
頭上を不気味な羽音が切り裂き、次の瞬間、地面が揺れ動くほどの爆発が起きました。ケニア人ランナー、エバンス・キベット(35)が命じられるまま敵陣へと足を進めていた矢先のことです。ウクライナ軍のドローンが放った爆弾が、彼のすぐそばで炸裂しました。
部隊は一瞬で散り散りになり、キベットはただ本能のままに、泥濘を蹴って走り続けました。ようやく足を止めて周囲を見渡したとき、そこには人影ひとつありません。無線機も持たされず、どちらが味方でどちらが敵かも分からぬ戦場のど真ん中で、彼は孤立無援の迷子になりました。
足元には、無残に散乱する遺体。自分もこのままここで野垂れ死ぬのか。そんな恐怖が襲う中、彼は「死にたくない、まだ生きたい」という一心だけで、当てもなく歩き続けました。
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飲まず食わずで戦場を彷徨うこと3日。体力の限界に達したとき、再びあの死を運ぶドローンが飛来しました。必死の思いで逃げ込み、飛び込んだ先は一本の塹壕でした。
そこには、銃を構えた兵士たちがいました。ウクライナ軍の陣地です。
「殺さないでくれ!」
キベットは震える両手を高く上げました。絶体絶命の瞬間。しかし、敵であるはずの兵士たちが彼に差し出したのは、銃弾ではなく、渇いた喉を潤す一杯の水でした。
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そもそも、なぜケニアのランナーがこの極寒の地で銃を握ることになったのか。そこには残酷な「罠」がありました。
当初、彼に提示されたのは軍務などではありません。ロシアでの「高給な仕事」という誘いでした。工場勤務や警備の仕事があると信じ込み、家族のためにと海を渡ったキベット。しかし、現地に着いた途端、彼は強制的に武器を持たされ、教育も不十分なまま最前線へと放り出されたのです。
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現在、ロシア政府は捕虜交換において自国民のみを優先し、キベットのような外国人の身柄引き取りには応じようとしません。出身国の政府もまた、この複雑な問題に及び腰です。
「自分がサインしたのは、仕事の契約書ではなく死刑宣告書だった」
そう語るキベットの目は、悔しさで赤く腫れています。
それでも、彼は自らの足をさすりながら前を見据えています。
「足を失わずに生き残れた。いつかまた、ケニアの風を感じて走りたい」
騙され、戦場に捨てられた一人の男。彼の切実な願いが届く日は来るのでしょうか。
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