転落の母星
転落の母星
かつての私は、光の中にいた。 ニューヨークの摩天楼を見下ろしながら、宇宙の始まりを数式で解き明かす。それが私の日常だった。アイビーリーグの博士号という、誰もがひれ伏すような金色のマントを羽織って、私は銀河の覇者にでもなったつもりでいた。
けれど、重力の法則は平等だ。高く登れば登るほど、落ちた時の衝撃はデカい。
「あきさん、悪いけどここ。今日中に全部やっといて」
突きつけられたのは、数式ではなく、洗剤の詰まったバケツだった。 育児という名の空白期間を経て戻った場所には、私の居場所なんて一ミリも残っていなかった。かつての「天才」は、今や「使い勝手の悪い、派手な服を着た中年女性」でしかなかった。
ビルの地下、窓もないバックヤード。 私はゴム手袋をはめ、冷たい水で雑巾を絞る。かつて星々の軌道を計算したこの指先で、今は廊下の隅の埃を追いかけている。
(ああ、この汚れの付着エネルギーは……いや、考えるのはやめよう。今の私は、ただの掃除屋なんだから)
「ちょっと、ぼーっとしないでよ。金髪が目立ってんだからさ、もっとキビキビ動いてくれない?」
年下のバイトリーダーからの冷たい言葉。かつての私なら、論理の刃でズタズタに言い返していただろう。でも、今の私は、母星のようにただ静かに微笑む。
「すみませーん!すぐにピカピカにしますね!」
嫌な仕事だった。喉の奥に苦い砂が詰まったような毎日。 けれど、不思議と私は信じていた。
宇宙は、何もない真空から始まったんだ。 今の私がゼロ……いや、マイナスのどん底にいるんだとしたら、あとはもう、爆発的なインフレーションを起こして膨張するしかないじゃない。
「なんとかなる。だって、私は私の人生の母星なんだから」
私はバケツの中の濁った水を見つめ、そこに映る自分の金髪を誇らしげに整えた。 暗闇は、星が一番きれいに見えるための舞台装置にすぎないのだ。
やさしい物理学 カオスの母星: あなたは宇宙の一部で、星の死骸から生まれた『星の子』なんだから Kindle版




