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フェイドアウト断章  作者: 石藏拓(いしくらひらき)


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母との最後の正月 なんとんつくれん物語

なんとんつくれん物語

目次

母の機関銃(最後の正月)

遺品整理に犬が吠えない

ぼくは母の子か?

出社するな、給料は支給

----------------------

母の機関銃(最後の正月) 

毎年の年末には大牟田に帰省していた。

大晦日に僕は188時過ぎに小浜町の実家に到着し、

大牟田で初めて鰻重を食べた。

福岡県では一般的にはセイロむしが主流のようで、濃い味付けのため敬遠していた。

大牟田には以前から鰻重があったのか、記憶にはなかった。

珍しいので注文してみると、山椒がついていなかった。

山椒のない鰻重は、自分にとっては想像できないものだった。

そういえば、大牟田では長芋もワサビではなく別の食べ方をする。


食べ終わった後に、

八十歳に近い母が機関銃のように話し出す。

継父が亡くなってから、何年も同じ話を聞かされている。

母は遺産相続を巡る争いに納得できないのだ。

継父側の兄弟は異父兄弟で、母側の兄弟は異母兄弟だった。

両家ともに遺産の取り分で争い、遺恨が残ってしまった。

継父の兄弟は遺言書を偽造してまで取り分を多くし、

母には少ない取り分しか渡さなかった。


遺産相続が終わった後、継父の弟は罪悪感に耐えられず、

母に遺産の取り分をごまかしたことを打ち明けてしまった。

「姉さん、あなたの取り分を正当な額の半分以下にしました。」

母は、あれほど親切にしていた継父の弟や妹に裏切られたのだった。


「あんたとは十八年しか一緒に暮らしとらん。

何が好物かわからん。あんたは東京外人たい」。

毎年同じ言葉で始まる。

夫を亡くしてから、母は九州で一人暮らしをしている。

特に寂しいのは年末年始だと言う。他の日には誰かしら訪ねてくるが、年末年始には誰も来ないからだ。

母が話し始めると、僕はただ黙って聞く。

母の話はまるで機関銃のように続くが、僕は聞き役に徹する。

これが僕のせめてもの親孝行だ。

「もうあの人たちとは付き合わなくていいよね」

「あの人たち」とは継父の弟と妹のことだ。

母は今度は自分の家族でも起こった遺産相続の争いの話を始め、

長い間話し続けた。

そして、話が終わったのが23時を過ぎていたので、

「寝る」と言った。


母は気づいたように言った。      

「今日は、そういえば、大晦日ね。ごめんね、年越しソバ」

「いいよ。蕎麦は毎日食べているから」


僕が母の料理を初めて食べたのは、

小学三年生のときだった。

それまではずっと祖母が料理を作ってくれていた。


夕食は鰻重だけだったので、お腹が空いて台所を探していると、

島原名物のチェリー豆を見つけた。

紀文豆乳と一緒に食べることにした。

チェリー豆はそら豆を油で揚げたもので、

生姜風味の独特な味がするが、嫌いではない。

持ってきたノートパソコンを開いて、

チェリー豆の名前の由来を調べてみた。

大正十年、鹿島中学の英語教師が「鹿島の旭が丘は桜の名所だから、チェリー豆としたらどうか」と言ったのがきっかけで、チェリー豆と名付けられたらしい。


母の母方の家族は佐賀県出身で、母のいとこたちは島原に住んでいた。母は何度かそのいとこたちに会いに行っている。

母が「顔が僕とそっくりな人が多かった」と言ったのを思い出した。


「東京に行くと早死にするばい」と母が言った。

元旦の朝を迎え、

母が二階から降りてきた。

「あけましておめでとう」とお互いに言って、

母が「朝は、なんば作ったとね?」と尋ねた。

「卵焼きたい」

僕は卵焼きを作って食べていて、コーヒーを飲んでいた。

「あんたは、信夫さんと違って料理ができるから。心配なか」

妻がなくなってから二人の娘の食事を

僕が作っていたのを母は知っていた。

料理は学生時代のアルバイトで覚えた。

「味噌汁飲むね?」と母が尋ねた。

「いいね。頼むバイ」

母の味噌汁は、いりこだしだ。

僕はあごだし。

庭から青ネギを切ってきて味噌汁に加えた。

東京と大牟田の味噌汁の味は違いすぎる。

九州は麦味噌で甘い。

妻が「砂糖、入っている?」と聞いたのを思い出した。


新年を迎えて、僕は母に再度提案した。

「かあさん!東京にこんね」

母は3秒して

「東京に行くと早死にするばい。

ご近所さんも東京にいきなはったけど、

すぐに戻ってきたとよ」と言う。

母は施設にも入りたくないと言う。

「ヨイヨイになったら別やけどね」と付け加えた。


大牟田には親戚はいない。

母は、いつ倒れるか不安だという。

母の悩みを解決するために、ワン切り連絡を提案した。

母が寝起きに毎日二回、僕の携帯にワンギリの電話をさせるのだ。


僕は正月の昼に、蕎麦を食べた。

タレは、庭で育てた桜大根をおろし、そこにゴマを入れたものだ。

母は「九州では盛り蕎麦なんて食べない」と言う。

それに加えて、僕のことを「東京外人」とも呼ぶ。

午後からは、母と一緒にスーパー「トライアル」へ出かけた。

母のお気に入りの店で、安くて品がいい。

流行の物流コストを徹底的にカットし、格安の価格を実現している。

トライアルのバイヤーが、生産者から直接買い付けているのだ。

なるほど、安いわけだ。

「トライアル」の横小路には、小浜町通りから松原中学校に向かう途中、

かつて「電化センター」というアーケード商店街があった。

その中には、スーパーや魚屋、天ぷら屋などが並び、

小浜楽器の出店もあったと聞く。

レコードやスターのブロマイドを扱っていた店だったと思う。

母がよく出前を頼んでいた蕎麦屋「北海屋」も、そこにあった。

若い主人が北海道出身だったことから、そう名づけられたらしい。

独身で一人暮らしのように見えた。

具には、刻んだ卵焼きが入っていた記憶がある。

「電化センター」があった頃、小浜町通りはにぎわっていて、まるで都会のようだった。

周辺には炭鉱の社宅が広がり、5,000人以上が暮らしていた。

佐賀屋食堂の右手には小浜北社宅の門があり、僕の同級生も何人かそこにいた。

三池炭鉱の爆発事故で父親を亡くした同級生は、覚えているだけで10人はいた。

小浜町通りにはラーメン屋が三軒、うどん屋やお好み焼き屋もあり、

炭鉱社宅の人々の胃袋を満たしていた。

やがて、電化センター内にあったスーパーが火災に遭い、

アーケード全体が消滅してしまったらしい。


------------------------

僕は母の子だったのか?


母の銀行が封鎖

戸籍謄本を取り寄せて

なぜ?僕は東京に行ったのだろう?


母の兄弟も東京に行ってしまった。

17歳の頃に寺山修司の「家出のすすめ」

を読んで僕の迷いは吹っ切れた。

寺山は言う。精神的結びつきをバッサリ切る。

特に母一人子一人の場合は、人生を寄生されてしまう。

精神的去勢をされた男になって人生は終わってはならない。

倫理と親を捨てる。

親を捨ててからしか親との関係は始まらない。

人間は生まれてからずっと一人だ。


僕は母と賭けをした。

現役で東京の大学に受かれば上京する。

早稲田か東京の国立に受からなかったら、

上京しないで福岡の大学に行く。

高校の成績は悪かったのでまさに賭けだった。


僕の性格は、三歳の頃に決まったのだと思う。

実の父は画家だったが、父との記憶はほとんどない。

かすかに「いたような気がする」という程度だ。

幼稚園に通っていた頃には、もう父はいなかった。

母も家にいることは少なかった。僕のために昼はデパートで働き、夜は酒場に勤めていた。

生まれたときの名前は「松井拓」。

松井家には祖母のタキ、父の弟である正博おじさんとその妻スミエさん、

それに父の妹――妙子さんも一緒に暮らしていた(たしかそうだったと思う)。

食卓の風景に、父も母もいなかった。

両親と一緒にご飯を食べた記憶は、まったくない。

僕はギッチョだった。

左手で箸を持つ僕を、正博おじさんが叱って右手に矯正させた。

おかげで今では両手で字が書けるけれど、みんなで食べるのが苦痛になっていった。

夜は屋根裏部屋で、一人で寝ていた。

夜中に目が覚めて「寂しい」と思ったこともある。

その頃から、孤独との長い付き合いが始まった。

今、僕がカプセルホテルで寝ると落ち着くのも、

一人で食事するのが好きなのも、

三歳の頃のあの生活が影響しているのだろう。


いつ実父が、いなくなったか記憶がない。

父はいなかったので、僕の中では存在感がなかった。

母は父の失踪については何も言わなかった。

「父さんがいなくなった」とも言わなかった。

失踪して父がいなくなったのは、別の形でわかる。


見知らぬ男と遊園地で遊んだ。

母が見知らぬ男と肩を組んで僕を見ていた。

僕は、幼稚園児なのに忖度をしていた。

黙って二人を見ていただけだ。

母は学校では首席を維持していたという。

頭がいいマリリンモンローにように、

母はお馬鹿さんを装える。

男の前でお馬鹿さんを演じない女性は男性には窮屈になっていく。

母は僕と比較して「私はずっと成績トップだったとに。

あんたはなさけなか。成績が悪か息子を持って」

と、よく言った。

デパートガールの母が貧乏画家と結婚する。

当時はデパートガールは花形だった。

貧乏画家と結婚したのは母の実母・露乃が20代で死んだことに起因するだろう。

露乃は二男二女を産んで亡くなった。

母は5歳だった。

母の父・原峯太郎は再婚して、新たに一男二女が生まれた。

母はまるでシンデレラのように後妻に子守や家事をさせられたらしい。

早く家を出たいと思っていた。若気のいたりか?

結婚をあせってしまったのだろうか?

「愛があれば」と思ったのかもしれない。


母の妹は母の結婚を無謀と言っていた。

他の兄弟は東京へ行ってしまった。

後妻と相性が悪かったのだろうか?


母は太陽のように明るい性格で、胸が大きかった。

細木六星占術からもわかる。モテモテの金星人プラスだ。

母の再婚相手に医者が浮上した。

母は医者と再婚する。

母との別れが近づいたと思った。

4歳の頃の僕には母親の存在がわからなかった。

祖母がいたからか? 母との思い出が少ないからか。

母は医者が僕を冷遇するなと気づき交際をやめたと言った。

信夫が登場した。

警察署長を歴任していた母の父・原峯太郎が、信夫の顔を見ただけで、

「よろしくお願いします」と頭を下げたという。

実父との結婚のときには峯太郎は猛反対だったと言う。

実父の母・マサキが実父の代りに求婚にきて、

マサキを気に入った母は結婚を決意したと言った。


戸籍簿によると、母は離婚協議を申し出て離婚が決定した。

マサキは「僕を置いて行け」と、母に懇願した。

マサキに僕は育てられたようなものだ。

母は僕を連れて家を出た。

マサキとの最後の別れとなった。


あっさりと別れてしまうフェイドアウト人生は、

実父や祖母から始まっているだろう。


松本清張の「鬼畜」で、不要な我が子を殺そうと旅に出る。

子供は理解していて忖度している。「嫌だ」とは言わない。

父は崖から突き落とそうとしたり、

知らない道に置き去りにしようとしている。


母が、僕を捨てる二度目のチャンスが訪れる。

祖母の家を出て母方の祖父の家に入った。

正式離婚となり、僕は母方の祖父の姓「原」となる。

名前も松井拓から原拓に変わった。

峯太郎が、信夫と再婚するにあたって、

僕を置いてゆけと言う。

コブ付きは不利だからだ。

娘の父として当然の愛情かもしれない。

母は峯太郎の後妻と僕が相性が悪いのを見抜いていて、

原家に僕を置いてゆかなかったかもしれない。

僕は信夫の養子になった。

小学3年生の時だった。

母が食卓にいて、母の料理を初めて食べた。


最後の母との正月3日目

スーパートライアルからの帰りに、僕は母に言った。

「おふくろ! レジに好きな顔の女性がいたたい」

「どんな子ね?」

「黒木瞳そっくり」

「ああ、あの顔は、筑後に、多か顔たい」

「別に顔を見ているだけでよかとよ」

「今度みとくたい。私も素敵な人がダンスの会にいるたい」

恋愛談義がはじまる。母の好きだった男性の話は面白い。

僕の恋愛した女性の評価も始まる。

僕は自己弁護ばかり。


帰宅すると、母は夕食の用意を始めた。

「私はあんたの年齢のちょっとしか一緒に暮らしておらん。

あんたの食べ物の好みがわからんたい」と昨日言った

のをくりかえす。

ひとつ覚えた僕の好物「鯛のカブト煮」を作り始めた。

「いつもはなかけど、今日はカブトが置いてあったたい」


夕食が終わると、母の機関銃が始まる。


80歳近くになるとリピート症候群になるのだろうか。

毎回同じ話を母は僕にする。

心理学者によると、加齢による記憶力の変化に関係しているそうだ。

「昔話は覚えているが、その話をさっきしたばかりであることは忘れてしまう」

お年寄りたちに「同じ話を何度もしないで」と言うと、「同じ話をした」という記憶は残っていないにもかかわらず、感情の動きを伴う「怒られた」という記憶は残りやすくなるそうだ。お年寄りに「嫌な人」という印象だけを与えてしまうだけだそうだ。

僕は母の性格がわかっている。

母は同じ話だと思っていないのだ。 

だから母のくりかえす同じ話の機関銃に撃たれるのが親孝行だと思っている。

おそらく好きな歌を何度も歌い、聴いてもらうのが心地よいのだろう。



石藏家の話

「信夫さんは子供時代に苦労しなんさった」

と母が、再婚した信夫について話し始めた。

毎年同じ話だが、新たな話も混在する。


石蔵家は播磨国(現在の姫路)の石蔵村の出身で、

黒田官兵衛に仕えて、黒田家の御用商人であった。

関ヶ原の戦いでの功績により、黒田官兵衛・長政親子が筑前福岡藩主の命を受けた際、石蔵屋も帯同して博多入りし、

博多商人としての歴史が始まる。

江戸時代の石蔵屋は、主に博多~壱岐・対馬間の廻船問屋(海運業)を営んでおり、江戸時代後期になり酒造業にも参入した。

幕末維新の際には、福岡藩の加藤司書、長州藩の高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛との密約の場として奥座敷を提供した。


菩提寺は「萬行寺」で博多区祇園町にある。



石藏家は三家に分かれ、長男が酒屋、次男が秤商人になる。

秤商人の末裔・石藏惣次郎は子宝に恵まれなかった。

黒田藩の武士だった小川家からタキを養女にする。

タキを結婚させるために大庭和三を養子にする。

和三とタキの間に生まれたのが信夫だった。


問題が起こる。 問題の詳細は封印したい。

石藏惣次郎はタキと和三を離婚させる。

和三を除籍してしまう。

あらたにタキは小島克基と再婚した。

克基は信夫を養子にしなかった。

克基とタキの間に二男三女が生まれた。

家の中で疎外感のある信夫は三池高校を卒業して

福岡の大学へ進学した。

信夫は不運だった。

受験した長崎大学の医学部に合格していたが、

電報屋に頼んで、自ら確認に行かなかった。

合格電報がこないので、福岡の大学に行ったのだ。

あとで同級生から合格していたと知らされた。


信夫は結核になり、長期病棟となる。

退院後、人生に目標がなく自堕落な20歳代だったと、

僕に話した。

大川市の女性と結婚して長男をもうけるが二年で離婚。

稲田電気に勤務した。 



信夫は稲田電機で専務になっていく。

僕が思うに、三池高校の同級生がお客になったからだろう。

幼年時代に苦労したので、決して横柄じゃなくて、

腰が低かった。家には常に新製品の家電がやってきた。

新製品の使い方を自ら勉強していたのだ。

有明町に本社があった。

太陽館の前に新たに大正町店を作った。

信夫は大正町店のトップになり、

栄町にもオーディオ部をつくった。


稲田電機は他に、明治町店、銀座店、四ツ山店、三池店、大川店、柳川店、長洲店、玉名店があった。

久留米に店はあったが、撤退して大牟田周辺に集中した。

酒は飲まず、麻雀と野球が好きだった。

ライオンズファンで、スコアブックをつけていた。

野球は球場に行かずにラジオ観戦だった。

社長の子息が二代目を継ぐと、

信夫は50歳代の若さで引退して年金暮らしを始めた。



「若い方から死んでいく」と、母は言った。

克基の子供らだ。

子供はA夫、B子、C子、D子、E夫と生まれた。

最初にC子が10代で、D子がガンで20代で、

E夫が30代で死んだ。


信夫はE夫の死後の立会で中国地方に行った。

山中で車中睡眠したE夫は練炭で暖をとり、

一酸化炭素による中毒死で、車の座席で死んでいた。

顔は真っ黒になっていたと信夫は言った。

タキは我が子・信夫が不憫で平成になって克基に

信夫を養子として認知させた。

石藏家の遺産相続の権利を信夫に与えたのだ。


母は家族は呪われていると言った。

原因は母から聞いていたが、問題があるので封印する。

克基が海で溺死した。

老人になり、徘徊が多かったらしい。

離婚したB子が実家に戻り、タキと暮らした。


克基が遺言書を書いていた。

タキが死に、信夫に遺産相続されるのを疎ましく思うB子が動いた。

済生会病院に入院中の信夫に見舞いに行き、

信夫が保管していた克基の遺言書を見せてほしいと言った。

B子は遺言書を手に取ると、無断で持って帰ってしまった。


B子からすれば克基もタキも

自分がめんどうを見ていたので、

全財産を相続するのが当然だと思っていた。

母は言う。

「よかろう? もうあん人たちとはつきあわんで」



「悪縁を断つと、信夫さんと決めたとよ」

母が話した。

再婚して妊娠したそうだ。

僕の妹か弟になるはずだった。

二人共に異母・異父兄弟で苦労した。

産まないと決めたという。

僕は複雑だった。

姉をなくして、母は僕に幼児期は女性の着物を着せていた。

誰が見ても女性としか思えない顔だったらしい。

子供に与えた影響を知っているのだろうか?

僕は女性服に興味があり、大学を中退して、

ケンゾウのようにパリで修行したいと真剣に考えた。

映画を観るとファッションに注目してしまう。

ココ・シャネルの(モード)が好きだった。

日本のブランドでは「VAN」より「JUN」が好きで

アイビーやトラッドと真逆なコンチネンタルでおめかしした。

学生時代は青山まで歩いて行ける場所に住み、

青山通りを散歩して原宿にあった「レオン」でお茶するのが日課だった。

店はファッション業界のたまり場で、おしゃれの見せあいの場だった。

ヴィトンのバッグが好きで、よく見せびらかした。

フィリップ・ロスの「さよならコロンバス」で、

女性は、男性の来た服や靴で男性を好きにも嫌いにもなると言う。

身分相応の妻が僕とつきあってくれたのは、

僕が六本木に住み、コンチネンタルファッションで中身をごまかしていたからかもしれない。



大学は卒業したが、成績が悪く、

無名の製薬会社に入社した。

言い訳かもしれないが、就職不況だった。

スポーツのクラブで活動していたか、

有名なゼミに入っていた同級生は

超有名な企業に入社していた。


信夫のコネでソニー、東芝、松下の第一次面接を受けた。

日本全国にある電気屋の子息を集めて面接だけはするのだ。

知能テストをさせて天才レベルの成績だと二次面接に行くようだ。

僕は一次で落とされた。

面接は一応あったが、僕を激怒させた思い出がある。

松下での面接だ。

「君の顔は松下の顔じゃない。何万人も社員のいる我社にはふさわしくない」

と言われた。


日本橋にある無名の製薬会社に入った。

詳細はヴィオロンの妻に書いたので、割愛する。




エージェントの仕事


大学を卒業して製薬会社に入った。

ITの技術者として経験を積んで、以降は外資系の会社を転々とした。

40歳代になり衰えを感じた。

野球の選手と同じだ。

過酷な頭脳労働は30歳代がピークだ。

仕事はコンピュータとの対決だ。ぼくはうんざりしていた。

休日も夜もない。24時間戦う仕事なのだ。

破格の退職金に目がくらんで、会社をやめた。

システムコンサルタントとして独立をめざすが、

あてにしていた大口のお客に裏切られた。

システムコンサルタントでは食べれない。

ぼくに残った仕事はエージェントだった。

正社員での再就職ができずに、

半年間はフリーでエージェントの仕事を行う。

なかなかフリーのぼくに紹介を頼む技術者はいなかった。

だがエージェントの仕事で技術者の受け入れ先の名刺が100枚以上になった。

49歳で、ソフト会社に営業職として潜り込んだ。

半年のエージェント活動だけで、正社員として間違って採用されたが、売上が上がらないと首にする会社だった。


会社は、茨木県に本社がある「イーストジャパン」だった。

社員数は約千名。支社が10以上あった。

日立系のシステム開発を受託して業績を伸ばした。

社長はソフトバンクのソンさんのように最初は二人から始めたと言う。

東北ではトップクラスのシステム会社だ。

2年前に念願の東京進出を果たし、

3年目を迎えたばかりの神保町にある東京事業所に着任した。

東京事業所での僕のタイトルは営業部長だった。

所長と女性事務員1名、技術者が5名いた。


茨城県にいる優秀な技術者は東京事業所の仕事を手伝わない。

技術者5名は東京で新規採用していた。

所長は60歳代で、生命保険会社からの転職だった。

業績があがらないために、所長を解雇するために、

社長は事務員に所長の日々の行動を報告するように命じていた。

事務員は、密告のようで嫌だと、僕にぼやいていた。

噂では、所長は離婚していた。

韓国人の愛人がいて、愛人が事業所に来たらしい。

生命保険会社では所長はセールスレディの管理をしていた。

所長の経験はシステムの会社では役に立たない。

所長も売上を上げなければならないために、苦戦をしていた。

システムの専門用語がわかるはずもなく、

大手システム会社が必要とする技術者を紹介するのは難しい。

技術者の紹介は、野球で言うとスカウトのようなもので、

システム開発の経験者でなければ、技術者の紹介はできない。



東京事業所は大赤字だった。

社長が所長を首にしたいわけだ。

僕の前職の営業マンは独立して辞めたらしい。

システム会社は技術者社員が10名になって初めて採算がとれてくる。

技術者5名では赤字なのだ。

常駐している技術者は2名。

残り3名は、社内失業者と言う派遣できない社内待機社員。

あだ名で、コマツブルドッグ(33歳)、ウスバカゲロウ(27歳)、ボンタン飴(25歳)。

コマツブルドッグは「シーケンス」という特殊なプログラム言語しか

経験がなかった。産業機械で使う言語だった。

事務系が多い大手ソフト会社からお呼びがかからない。

しかもコマツブルドッグの奥さんが精神を病んでいて、

家と会社を行ったり来たりしていた。

所長はシステムオンチなので、コマツブルドッグを営業として使っていたが、

実績が上がらない。

営業として入社してきた僕に冷たい視線をあびせ、非協力的な態度だった。

僕は、コマツブルドッグを大田区にあるマイコン制御の仕事をする会社に派遣した。

目黒駅からバスで会社訪問を行い、なんとか受注できた。

中小企業だが、驚くべき仕事を行っていた。

自衛隊の対戦車攻撃用ヘリコプターにからむ仕事なのだ。


次に派遣が決まったのはウスバカゲロウだった。

金融で通常のプログラム言語であるCOBOLができると言うので、

電力会社関連のシステム会社へ派遣が決まった。

数カ月は何事もなかった。

ウスバカゲロウは派遣先でうまく仕事をしていると思ったが、事件が起こった。

派遣先から無断欠勤の電話があり、

携帯に電話するが不通だった。

無断欠勤の翌日の朝だった。

「息子が昨日から帰らないんです」と母親から電話があった。

 失踪しているウスバカゲロウが気になって、

何度も携帯に電話すると、午後の2時ごろ

ウスバカゲロウの携帯電話とつながった。

「昨日からどこにいたんだ?」とたずねた。

「ずっと公園で」と、ウスバカゲロウは言ったが、

それ以上は沈黙だった。

僕はこれ以上質問しないほうがよいと思って、

「会社で待っている」と言った。

30分もしないだろう、東京事業所へ、

ウスバカゲロウはすっかり憔悴した顔で登場した。

おそらく東京事業所付近の公園にいたに違いない。

自殺しかねない落ち込みようだった。


ウスバカゲロウは、COBOLを使ったプログラムの経験が

職務経歴書上では、2年以上あることになっているが、

ブログラムを作成したことはなく、見ていただけだった。

業界での表現で「自分の上をCOBOLが通過しているだけ」というものだ。

ウスバカゲロウが行った仕事は資料の作成で、

コピー作業も含まれていたという。

今回、電力会社関連のシステム会社に常駐して、

最初の上司は、うまくかばってくれていたが、

数カ月後に上司が変わり、新しい上司はかばわなかった。

ウスバカゲロウを経歴書詐欺だと罵倒して、

「戦力外だ。もうこなくていい」と言い放った。

ウスバカゲロウは東京事業所をやめた。


社内失業者三人衆の最後はボンタン飴だ。

風貌は、アンパンマンのような顔で、25歳、

鹿児島市にある菓子屋の御曹司だそうで、

どこか坊ちゃん風だ。

職務経歴にVBとあるので、本人に確認すると、

エクセルの延長のVBAができる程度で、

プログラマーではない。

前の会社の村直先輩にお願いして、

ボンタン飴をやとってもらえた。

村直は転職して銀座にある外資系のT社で

経理部長をしていた。

ボンタン飴はT社経理システムの

エクセル作成補助で常駐した。

1ヶ月が過ぎた頃の朝9時すぎに、村直から電話があった。

「せっかく紹介してもらったが、もう我慢できないんだ」

「いったい何があったんです?」

「ストーカーだよ」

「え!」

 村直は続けて言った。

「社長室に美人の秘書がいるんだが、

あいつ、何を勘違いしたか、

その秘書にストーカーしているんだ」

「わかりました。お昼に彼と会います」

 T社付近の喫茶店でボンタン飴と待ち合わせした。

ボンタン飴と会うと、

何で呼ばれたのかという顔をしている。

「秘書の優子さん、知っているかい?」と僕はたずねた。

「ええ・・・・。今交際しているんですが」と、

自信満々に、ボンタン飴はこたえた。

 「藪の中」という芥川の小説があるが、

男と女の関係はストーカーすれすれで、

お互いに妄想の世界にいるのかもしれない。

ボンタン飴が優子との出会いを語りだした。

会社の仕事を終えて帰ろうとすると、

外は雨だった。

ボンタン飴は傘がないので、立ち往生していると、

優子が見つけて銀座駅まで相合傘をした。

ボンタン飴は何を思ったか、

優子が帰る時間を見計らい、

1階でいつも待っている。

 優子が、いっしょに帰りたがっていると思っている。

僕は優子の方はどう思っているのか、

村直に確認した。

ボンタン飴と別れてから、村直に電話した。

「今からお伺いしてよろしいでしょうか?」

「ああ、いいよ、7階だよ」

7階のT社会議室で、

ボンタン飴から聞いた話を村直に伝えた。

すると村直は言った。

「優子嬢はアイツが待っているのを嫌がって、

社長に直訴したんだ。俺はアイツをかばったよ。

しかし俺が命じた残業を拒否して、

1階で優子嬢を待っていると今朝知って、

許せないと思ったよ」

「わかりました。即刻退場させます。

ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。

長期の社内失業者は各々に問題をかかえている。

無理に常駐させると、

客先に迷惑をかけるだけだと痛感した。


 社内失業三人衆は半年もしないで、会社を去っていった。

所長が三人をかばっていたのだ。

三人は技術者を装った素人だった。

所長は見抜けないで雇ってしまった。



新所長


生保出身の所長を追い出そうと、

社長は、日本三大商社のM商事にいた哲郎を入社させた。

哲郎は僕と同じ大学の先輩で、稲門会の会長をしたこともあり、

僕と同じシステムエンジニア経験者だった。

システム開発未経験の所長とはスキルが違う。

役職は「所長付き」として哲郎は入社した。

なぜウチの会社に、しかも社員5名の東京事業所に来たのか?

M商事は名門企業だ、定年を迎えても、

大企業のお誘いがあってしかるべき。

哲郎は、行く会社がなかったと言っていた。

牛丼をはじめて食べて、毎日食べずにはいられないとか、

ニューヨーク支店長時代が長く、日本ボケしていると言った。

三千万以上の退職金もあるだろうし、

働かなくても年金で生活できるはずだ。

哲郎は言った。「俺は仕事が趣味なんだ」

性格は、お世辞を言ったり、ゴマをするのが嫌いで、

直球勝負で、社長が嫌がることもズケズケと意見してしまう。

大学気質だが、哲郎の性格は大企業では煙たがられるだろう。

M商事では役員になっていいキャリアだが、所詮、宮使い。

上司に迎合して、男芸者になれないと出世できない。

僕も上司には逆らってばかりだったから、今の境遇にある。

社長はシステム関連で利益を出しているうちに、

会社の柱をもうひとつ作ろうと、健康器具のビジネスに進出した。

哲郎だけが猛反対するが、

古参の幹部は犬のようにしっぽをふっていた。

社長は、健康マッサージチェアの製作販売担当を、

なかなか会社をやめようとしない所長に命じて、 

東京事業所の新所長に哲郎が就任した。


年2億円 

僕はラッキーだった。

技術者の僕に営業ができたのだ。

母が言った。

「あんたが営業できるとは思わんかった」


仕事はエージェントだ。

野球でいうと「スカウト」。

客が欲しいIT人材を見つけて紹介する。

売りつけるのではない。

紹介するだけだ。

技術者の紹介料は一名で月10万から20万になる。

10名紹介して月200万、年間で2400万。


会社は売上が給与より低いと、首にされる。

僕は幸運だった。

フリーで営業をしていた頃の仲間が助けてくれた。

営業の仲間でもあり、社長兼技術者でもあるAが、

僕経由で常駐してくれて、最初の売り上げがスタートした。

どこの会社よりも高い「単金」を技術者に支払うをモットーにしていたら、

口コミで、優秀なフリーの技術者が名乗りを上げてきた。

当時は、オラクルデータベース関連技術者は重宝がられて、

技術者には普通に月100万以上を支払う。

哲郎には「うち(会社)が、もうけないで、

なぜ、技術者にもうけさせる?」と皮肉を言われたが、

僕はフリーの技術者に高額を与えた。

結婚したばかりの女性技術者に、月60万支払う仕事を紹介すると、

夫が信じられないと、会社へ確認してきた。

他に交換機のシステム設計ができる技術者がいれば

客から月200万でも出したいと言われた。

「交換機のシステム設計できる人はいないだろうか?」

「交換機ってなんですか?」

「電話する場合にまず中継の交換機に電波が飛ぶ、

中継する交換機は世界中にあって、近くの交換機がふさがっている場合は、

空いている交換機を瞬時に探さなければならない。

例えばAさんが新宿から渋谷にいるBさんに電話する。

直接都内で繋がるわけではない。

近くにある中継の交換機に、まずはつながるんだけど、

中継機がふさがっている場合は空いている中継機を探すわけだ。

下手するとアラスカの中継機になることもあるんだ」

「電話して、相手につながるまでの、あの待ち時間ですか?」

「そうだ!だからその待ち時間が短い方がいいんだ」

「そんなこともシステム設計するのですか。奥が深い」

システム設計の教科書を読むと、間違った設計の例にあげられるものがある。

東名高速道路の設計だ。

わざと曲がりくねった道に設計せずに、直線ばかりで、

事故が多発するのだ。システム設計は難しい。


僕の月売上は平均1500万円以上。

年ベースで、二億円台になった。

売上が上がると、客と技術者を持って独立していく営業マンもいるようだが、

独立する気持ちにはなれなかった。

起業して会社社長など僕の器じゃないし、

今の会社のおかげで売上が上がっているのだ。

売上が多いと、社長は僕を疑うようになる。

裏でリベートをもらっているかもしれないと。

社長が調査指示をしたと、哲郎から聞いた。

リベートなどを、客先や技術者側の会社(仕入先)からもらっていると、

技術者が問題を起こして、客先や仕入先との関係が悪化した場合に、

リベートが社長に知られてしまう。

東京事業所でも、前任の営業マンが解雇されたようだ。

知り合いの会社でも起こっていて、

技術者の紹介料は高額なので頻繁に問題を起こすものだ。

社長のマクベスのような猜疑心が、売上をアップさせたい僕の気持ちを、

消失させてしまった。

会社全体で、僕だけがダントツ売上1位になったが、

2位以下の売上が低迷して、

社長は全員の給与を下げると言う。

哲郎が社長に断固反対してくれた。

僕だけは、給与が現状維持になった。

社長の理不尽に、赤字にならない程度の売上で、

目立たない営業を行うと決めた。



相棒の死

2008年6月8日は日曜日だった。

テレビニュースで以下の内容が画面にテロップされた。

「本日午後0時30分過ぎ、秋葉原で、通り魔事件発生。

重体は宮本直樹さん21歳・・・・」

宮本の名前があり、気になった。

年齢が違ったので別人と思った。

携帯電話が鳴った。電話は哲郎からだった。

「休日で悪いが・・・」

「いえ!なんですか?」

「テレビのニュースで宮本直樹の名前が出た!」

「ああ!見ました。

でも!年齢は21歳なんで同姓同名の別人では?」

「そうか!年齢が違うか!気になったので電話した」

カンの良い哲郎だ。念のために宮本の携帯へ電話した。

留守電となっていたので携帯電話にメールした。

 翌日、ネットのニュースで事件の概要を見た。

宮本の年齢が21歳から31歳へ訂正されていた。

マスコミに流れた写真は若い頃の宮本だった。

宮本の携帯電話からメールの返信が来ないのを納得した。

「あいつは、秋葉原に行くのが好きだったからな」

宮本が死んだ実感がわかず、頭が空白になっていた。

ぼんやりしていると、葬儀の詳細メールが届いた。

葬儀日程

6月11日18時通夜、翌日12日11時30分告別式


宮本直樹

僕は通夜に出席した。葬儀場へ入るために信号待ちをしていた。

男が録音マイクを持って

「週刊〇〇ですが、ちょっと宮本さんについて教えてください」 と言った。

「いいですよ」 と、僕は答えた。

「宮本さんは会社を経営していたと聞いていますが?」 

「ええ、彼はIT会社の取締役社長でした。

社名はラクシュミ、意味はフランス語で幸福を司る神、オリジナルはインドのようです。私はその会社を手伝っていましたよ」


葬儀場入口付近にもマスコミ関係者が多数立っていて、

テレビカメラも何台か並んでいた。

通夜には親族や関係者約350人が参列したと新聞で知った。

宮本の友人らが「世界の宮本だ」と書いた色紙が遺影の前に飾られていた。

「世界の宮本?」と独り言を言った。初耳だった。

宮本の下で働いていた会社関係者が5名来ていた。

僕は、25歳の痩せていて、どこか少年のように見えるヨシモトのところへ行った。

僕の顔を見たヨシモトが、さみしそうな顔をして言った。

「実はあの日、宮本さんといっしょに秋葉原にいました」

ヨシモトと宮本が秋葉原を歩いていると、

およそ30m先の交差点で、交通事故が起こったようで、人が集まっていた。

近づくと、集まった群衆が異様な動きをしている。

何かから逃げ出しているような感じだった。

ヨシモトは思わず逃げてしまった。ヨシモトは話を終えると、宮本に申し訳ない、

宮本を置き去りしたのを後悔している表情をした。

僕は言った。「あいつは目が悪すぎるからな」

 宮本は牛乳ビンの底のような眼鏡をかけていて、

待ち合わせをしても、僕だと気づくのに、

50センチ以内に近づかないとわからなかった。


僕は気になることをヨシモトに質問した。

「なぜ、世界の宮本なんだ?」

「吉祥寺のゲームの大会で優勝した時に言われたんです。

アヴァロンの鍵・対戦型ゲームで、宮本さんは負け知らずでした」

「あいつから大会で優勝したなんて聞いてなかった。

意外な一面を知ったよ」



公明君が会社をやめる

宮本は、公明からの紹介だった。

公明は宮本と専門学校が同じだった。

僕はフリー時代に高田馬場にあるシステム会社に統括部長として着任した。

会社に公明がいて、最初の僕の仕事は「公明君が会社をやめる」だった。

僕は公明と喫茶店に行って、コーヒーを注文して、

世間話から切り出した。

「この前、映画でエキストラをやったと、

社内で話しているのが聞こえたけど、なんという映画に出たんだ?」

「踊る大捜査線です」

「おお、それはすごいな。なんの役?」

「警官です」

「へぇ~、観てみるよ。

ところで、会社をやめたいんだって?」

「はい」

「どうして?」

「僕にはプログラマーは向かないことがわかったんです」

「でも、約1年も経験しているそうじゃないか。

もったいないなぁ」

「向かないとわかるのに、1年かかりました」

「そうか!残念だ。それでは最後の日は食事でもしよう」

僕は公明の退職した日に、大塚駅前で焼肉をごちそうした。

公明は義理堅い男で、僕を忘れなかったようだ。


高田馬場の会社再建は、うまくゆかずに

役職を解任された。

大手ソフト会社に強力なコネがない。

システム受託の仕事はなく、社員を常駐させて稼いでいた。

僕が、いきなりの統括部長というのも、おかしい話だ。

社長には何か魂胆がありそうだと思った。

 営業で売上をあげたい。新規顧客の開拓を行った。

会社は営業を代行会社に丸投げしていた。

入社2週間目の頃に、社長が言い出した。

「営業をしてもらっているが、なかなか成果が上がらないようだ。

しばらく出向してくれないだろうか?」

僕をSEとして大手ソフト会社へ派遣しようとしている。

僕は拒否した。


コメツキ

東京事業所の売上が黒字展開を始めた頃。

公明から電話があった。

「公明です。お久しぶりです」

「公明君か? 久しぶりだね」

公明が言った。

「友人のツカサがプログラマーで、仕事を探しているんです」

「わかった、すぐ会おう。会社で待っているよ」

 数日後に東京事業所に、ツカサは一人でやってきた。

ツカサは、まだ少年の面影があり、色は白く、

人見知りしそうな目をしていた。

無口で、ただ頭を下げるだけの挨拶だった。

職務経歴書をみると、東北出身で年齢は22歳、

プログラマーとしてはVBが8ヶ月程度の経験だった。

「ツカサ君、うちに入社しない?」

「いえ、正社員は不向きなんです」

「そうか、惜しいなあ。

まあ、フリーの方が給与高いからな」

ツカサは、サラリーマンには向かない、団体行動は好まない技術者のようだ。

はじめて会った技術者では、まず顔で判断していた。

これまで会った優秀な技術者の顔に似ているか、照合する。

ツカサの顔を見るといかにもプログラマー向きの人相だ。

次に、声を聞いてみる。

プログラムを多く作れば作るほど声が出なくなる。

声が大きい、よくしゃべるような技術者を見ると、

言い訳がうまいだけで渡ってきた技術者だと思う。

満足にプログラミングができなくても、うまい言い訳で逃れる。

逃げて優秀なプログラマーに任せてしまえばいいのだ。

名プログラマーに、おしゃべりは少ない。

静かで黙々と仕事をする。

人とのコミュニケーションを嫌う傾向にある。

コンピュータとは、プログラミング言語を通して

キーボードで会話していくので、人と話す必要はない。

プログラムを作れば作るほど、話せなくなる。

声も細くなっていく。

僕もプログラマー時代は、だんだんに話すのが億劫になり、

声が細くなっていった。

「ツカサ君、まだ経験年数が1年未満だから、

ウチの正社員なら会社で修行ができるが、

他の会社で修行させてくれるところを探してみるよ。

プログラマーは3年以上経験していないと一人前にみられないんだ。

良い紹介先が見つかればいいが」

ツカサは何も答えず、うなづくだけだった。


ツカサの仕事がみつかった。

業界の先輩であり師匠でもある優作師匠からだった。

「おい、ツカサちゃんを、ウチの技術者につけてやるぞ」

「本当ですか。なかなか見つからないので、

あきらめていました」

「いや、たまたまウチで仕事がとれた。

予算がきついので一人分は出せないんだ」

「ああいいですよ。

明日にでも、ツカサを連れて行きます。

面接よろしくお願いします」

「ウチの技術者が面接して採用を決める。

今のところスキルシート上では問題ない」

数日後に面接が行われた。

ツカサは片言説明しただけで、

愛想もない、ひたすら沈黙を守る。


面接は黙秘権を行使するべきと、勘違いしているようだ。

面接が終わって、ツカサを帰らせて、面接結果となった。

「まったくおとなしいな。コメツキムシのように、頭を何度もさげて。

でもプログラミングはできそうだな」

と、師匠は笑顔で言った。

面接した技術者も師匠に異論がないような顔をした。

採用責任を師匠に任せたという感じだ。

「よっしゃ、これで採用だ」

「ありがとうございます。

じゃ、メールでいただいた『月単金』60万でいいですか?」

「悪いな、安くて。とりあえず、1ヶ月は様子を見させてくれ」

「はい、ツカサは契約社員(個人事業主)ですから、

問題ないです」

「じゃ、来週から着任だ」

「かしこまりました」

出されたコーヒーを飲むと、僕は世間話ついでにたずねた。

「最近御社はどうですか?」

「バブルがはじけて金融の仕事がガタ落ちだ。

そうそう、先週、すごい現場をみて来た」

「また地獄ですか?」

「ああ!地獄に、エロが混雑した現場だ」


地獄とエロの現場

「地獄とエロですか?」と、僕がオウム返しすると、

師匠はうなづいた。

「竹橋の開発現場に技術者の慰問に行ったんだ。

月300時間以上も仕事しているので心配になったんだ。

行ってみると、おびただしい数の技術者がフロアーに、

ばたばたと倒れている。関が原の戦いの後のようだった。

女性陣はスカートの中が大丸見えなんだ。

恥も外聞もなく、下半身をあらわにして倒れている」

「ああ、あの年金データが消えた社会保険システムですか。

有名な地獄ですね。

開発が、火が吹いたのではなく、完全に炎上して。

たしか、デスマーチ(死の行進)になっているそうで」

「そうだ。もう開発が暴走、沈没しているんだ。

サルベージ(沈んだものを引き上げる)も、

火消しも利かない。

完全に迷走してデスマーチが始まった。

俺はこの失敗が将来、必ず大問題になると思う」

「年金ですからね。

手作業からコンピュータ化するにあたり、

データが宙に浮いたり、消えたりしているんですか?」

「ああ、指揮官が倒れ、交代の指揮官がくる。

上層部はコンピュータに携わったことがない。

人を変え、人を増やせば、開発はうまくゆくと思っている」

ひとつのコンピュータシステムは

膨大な長編小説のようなものだ。

何億ページにもなる小説の主人公を男から女に変更する場合、

別の小説家に交代させてすぐ直せるものではない。

ましては小説家を増やしても

すぐに対応できるわけではないのだ。

「かなりの技術者が携わっているシステムですよね。

数万人?」

「ああ、こんなジョークがあるぞ。

このシステムの進捗会議が週一行われる。

ウチの技術者の報告時刻は2時だと言われたそうだ」

「え!もしかして14時でなくて、夜中の2時ですか?」

「そうだ。夜中の2時なんだ。タクシー代が出るらしい。

 つまり数万人規模の進捗報告だから、朝9時から始まると24時間かかるそうだ」

デスマーチ、死の行進、 いまやコンピュータシステム用語になっている。

ユダヤ人が、ただ何日も行進させられて離脱して死んでゆくやつだ。

システムで離脱して行くのは技術者だが、

データも消えていくのかもしれない。


月100万の給与

ツカサの契約は1年で終わり、累計で、約2年の現場経験がつき、

おまけにC言語の実務経験がついた。

専門学校でC言語を勉強していたので、のみこみは早かったそうだ。

次の仕事は普通にある。

ITバブルの時期で、C言語の技術者が不足していた。

仕事を選び放題になった。

他社の経由のない直案件(仕事)に、ツカサを常駐させた。

三年の経験がつけば、ツカサも一人前の技術者になる。

エスカレーターに乗ったと思った。

五年後には、月100万以上の「単金」も夢ではない。

ツカサが現場に着任して四日目だった。

客先から電話があり、ツカサは出社していないという。

ツカサに電話した。 

「ツカサ君、どうした?」

「すいません。この現場、やめます」

「え!何があった?」

「毎日、仕事が終わって報告発表会があるんですよ。

僕には苦痛なんです。

それにリーダーが軍隊みたいに高飛車で命令してきて、

もう現場に行きたくないんです」

「しかし、ツカサ君も、子供じゃないんだ。社会人だろ。

気持ちはわかったから、せめて1ヶ月は現場に行ってもらえないか。

この業界は常駐をやめたい場合は1ヶ月前通知のルールがあるんだ」

ツカサからは何の返事もなく、黙秘権行使状態となった。

電話では説得できない。、

「会いたい」と言ったが、ツカサは黙ったままだった。

即座に判断した。

「ツカサ君、わかった。

次の仕事を探すから、また連絡する」

話しによる説得は、離れていくだけだ。

技術者が貝状態になるパターンである。

大事なのは客より、技術者だ。

現場に行って、出てきた関係者の前で、

土下座して謝罪した。

「無責任」だとか、「御社としてどう責任をとるのか」など厳しい叱咤を受けた。

ひたすら低姿勢で平謝りして、交代要員を探すことでその場を切り抜けた。

社へ戻り、検討するが、会社の社員に空きはなく、

知り合いの会社にメールしたが、交代要員は、みつからなかった。

ツカサのスキルが上がった証明でもある。

ツカサのスキルクラスは、日本のIT業界で不足している。

翌日、客先に行って「交代がみつからない」と報告すると、

客は機関銃のように叱責の言葉を浴びせた。

ひたすら詫びた。土下座して謝り続けた。

なんと言われようと客に反論しない、口約束もしない、

ただひたすら「申し訳ありません」をくりかえした。

損害賠償だと言われた。

「それだけは許してほしい」と、

ただひたすら頭をひれ伏して謝った。

開放されたのは約30分後だった。

気持ち的には長時間を要したように思えた。

お詫びの経験から、クレームは30分も続かない。

直案件、つまり他社を経由しない仕事は、

利益率は高いが技術者に問題があると、

まともにクレームを受けるリスクがある。

僕は会社に戻ると、ツカサの次の仕事を探した。

謝罪で受けた心労など、気にしていられない。

ツカサの生計がかかっている。

探すにあたり、先方に条件をつけた。

報告会議を行わない現場であること。

ツカサは会議で発表する行為にはトラウマがあるようだ。

東北なまりで、何かあったのだろうか?

パソコンをみると、いくつかツカサへの仕事のメールが来ていて、

報告会議のない仕事を選んだ。

ツカサは即採用された。ラッキーにも、

今後主流になるJava言語をマスターできる現場だった。

ツカサは喜んで着任した。

ツカサが着任して数日が経過したが、いつ突然に途中退場するか不安だった。

なるようになると自分に言い聞かせた。

「レットイットビー、ケセラセラ、ケサラケサラ」と。

3つとも同じような意味の歌を連続して、

お経のように口ずさんで居直った。


宮本との出会い

秋葉原通り魔殺人事件で無念の死をとげた宮本は、

ツカサの紹介だった。

携帯にツカサから電話があった。

僕はまたダメかと覚悟したが、内容は違っていた。

「僕の友人が、仕事を探しているのですが」

とツカサは言った。

「わかった。会おう」

僕は宮本と会った。

「はじめまして、宮本です。

ツカサがお世話になっています」

宮本の職歴書を見るとデータ入力の経験だけだった。

ツカサの紹介だからプログラマーだと思っていた。

宮本はプログラマーじゃなかった。

運用の仕事をしていた。

年齢は23歳。背は高く、

ひょろっとしていて、細身だった。

眼鏡が気になるのか眼鏡を外す時がある。

眼鏡を外した顔は幼さが残る、ベビーフェイスだ。

礼儀正しい20代を見たことがなかった。

黙って職歴書を熟読していると、

宮本が意外な話をした。

「僕は、会社をつくろうと考えています。

できれば、手伝ってもらえないですか?」

初対面なのに大胆だと思ったが、

なぜか頼られているのを感じた。

「どんな会社だい?」

「将来はゲームを制作したいんですが、

今のところITの会社です」

「どれくらいメンバーはいるんだい?」

「まずは5名、今、仲間を集めているところです」

「そう・・・・」

宮本の話は悪くないと思った。

会社ができて、社員(技術者)が増えれば

自分の売上が上がる。 リスクもデメリットもない。

「協力しよう。会社名は決まっているのかい?」

「はい。ラクシュミです」

「ほう、漢字で楽しい趣味の楽趣味って意味かい?」

「いえ、フランス語で幸福を司る神で、

オリジナルはインドです」

「じゃ、俺は社員の派遣先の紹介に

専念すればいいのかい?」

「はい、よろしくお願いします。

それで、会社登記とか事務所などが、

まだこれからなんです。

どなたか紹介いただけますか?」

「わかった。

事務所ならば、ビルオーナーの博文社長を紹介する。

会社登記も博文社長が世話するだろう。

資本金受託の銀行は所長の哲郎に頼んでみる。

なにせ三菱銀行にはコネがあるんだ」

 哲郎に宮本のラクシュミ会社を報告した。

オープンにして進めた方が良いと思った。

哲郎も即座に「いい話だ」と言った。

ラクシュミの役員にならず、横からサポートする。

哲郎のコネで資本受託は三菱銀行に決まった。

博文社長にも快諾してもらい、税理士や会計士も決まった。

事務所は、港区虎ノ門に置き、宮本は取締役社長になった。

ラクシュミには最初から仲間が集まったわけではなかった。

宮本の友人らは様子をみていたのである。


2つ目の地獄の現場

ラクシュミからの第一号技術者は秋葉原通り魔殺人事件で、

無事に生還したヨシモトだった。

博文社長所有の虎ノ門ビルの9階にあるラクシュミの事務所で、ヨシモトを宮本から紹介された。

僕はヨシモトの履歴書をみて、たずねた。

「宮本さんと同じ専門学校なんだ?」

「はい、先輩になります」

「宮本さんはゲーム科だけど、

ヨシモト君は声優科なんだ?」

「はい、アニメの声優が、僕の夢なんです」

 僕は苦戦するだろうと思った。

まだ18歳で、仕事をした経験はなかった。

「COBOLの資格を持っているんだ?」

「はい、高校の授業でプログラム演習をやり、

COBOL言語の資格検定を受けました」

「COBOL言語って、今の若い人には人気のない言語だが、

銀行とか金融大手の企業のコンピュータシステムは、

ほとんどがCOBOL言語で書かれている。

地味だが、隠れたコンピュータ資産なんだよ」

若い人はCとかJavaなどの流行の言語を追いかけている。

COBOLをやっている若者は極端に少ない。

レアがアピールポイントだと思った。

ヨシモトは九州の離島出身、土地柄だろう。

COBOLという、時代遅れになった言語の学習がまだ行われていたのだ。

ヨシモトの修行先がみつかれば、ラクシュミと僕の会社の売上になり、

一石二鳥になるのだが、修行先がみつかるかどうかは、縁次第だと思った。


ヨシモトの修行先を探した。

ITの会社は東京だけで1万社以上あるだろう。

大きい会社より、社員10名足らずの小さい会社を回った。

業界の団体名簿や、ネットで「ソフト」と検索してヒットした会社などに、

アポを入れて会社訪問を繰り返してヨシモトを売り込んだ。

規模が小さい会社の方が、わざわざ訪問してくれたと、

社長みずから応対してくれた。

小さい会社から厳しい業界をサバイバルして、

生き残っている秘訣を学べた。

小さい会社では隠しようがないのだ。

話していると、会社の強みがわかる。

ヨシモトの仕事が見つかった。

サトケン社長の会社だった。

まだ未就職のヨシモトに、修行先など見つかるものではない。

奇跡だと思った。

よほどの縁があったのか、強い引きがあったのだろう。

幸運の引き寄せは、僕ではなくて宮本だろうか?

いや!今思うとヨシモトだ。

秋葉原通り魔事件で生還したほどの強運なのだ。

ヨシモトでサトケン社長という強力な客先と出会えた。

サトケン社長は以前、上場IT会社の社長をしていたそうで、

定年を迎え小さな会社を興し経営していた。

 サトケン社長は僕を、ちゃん付けで呼んだ。

サトケン流の親しくなるアプローチなのだろう。

「めずらしいよ。18歳で流行遅れのCOBOLをやっているなんて、

誰もいないよ」

「そうですか、でも、さすが、社長、人脈がスゴイですね」

紹介されたヨシモトの仕事は大手携帯電話会社◯コモの料金計算システムだった。

開発言語は漢字COBOL(YPS-COBOL)を使っていた。

略して「YPS」と言われたCOBOLの発展系で、

日本語でコーディングしてゆく。

「読む」とか「書く」とか記述すると自動的にソースができて、

プログラム仕様書になる。

◯コモ携帯電話料金計算システムは業界では有名な地獄のひとつだった。

頭をよぎった。

社会保険システム地獄に匹敵すると噂されていたからだ。

「アラジンの魔法のランプと呼ばれているシステムだが、

 地獄と言われているのは開発ではなくて運用の方だ。

ヨシちゃんはセーフだよ」と社長は言った。

「地獄というのは有名ですが、

どんな点が地獄なんですか?」

「考えてみろよ。携帯電話の加入者は約6千万人だ。

みんなの通話料金を毎月締めて集計するんだ。

どれくらいの件数になると思う?」

「なるほど、それは想像するだけで恐ろしいですね。

6千万×60(秒)×60(分)×24(時間)×31(日)ですか」

「そうだ。システム設計は、常に処理する件数の最大値を想定しなければならない」

「おそろしい件数ですね」

「おそらくひとつのコンピュータでは処理できない件数だろう。

月次処理だけで、三日以上かかるらしい。

そこまで持っていくのに、何度もデスマーチ(死の行進)があったらしい。

つまり最大想定値に対応していないので、処理する度に、

コンピュータがデータオーバーでダウンするらしい」

「それは地獄だ」

◯コモ顧客情報管理システム・アラジンシステムは、

世界でも有名なシステムだった。

サトケン社長と別れた後、

電車の中で僕は昔を思い出していた。

若い頃、月次処理の運用処理をしていた頃だ。

データ件数は約30万件。

まだコンピュータに漢字が採用されていない時代だ。

請求書を印刷するのに高速プリンター10台が稼働する。

全部打ち出すのにその当時のコンピュータで、まる三日かかった。

請求書用紙の補充のために深夜も交代で監視する必要があった。

コンピュータマシンルームは広く、みんなで三角ベースの野球をやった。

球は紙を丸くして、バットも紙で作った。

当時は地獄も天国にする自由さがあった。

まだコンピュータというものが神秘な森の中にあったからだろう。

電算室が厳重に監視されるなんて、まだ考えられない時代だった。


ショウジョウバッタの男

ラクシュミからの二人目は、公明だった。 

僕がトライアルで入社した会社で一緒だった男。

そして、ツカサを紹介した男だ。

公明は専門学校を卒業したばかりの弟も連れてきた。

プログラマーは向かないと会社をやめた公明に、

ネック社のパソコン・ヘルプデスクの仕事がみつかった。

パソコンに問題が生じてかかってくる電話に応対する仕事だ。

一般家電と違うパソコンを、食材の入った電気鍋と例えたとする。

使用者は、調理された食材を食べて、料理が美味しくできていないと、電気鍋パソコンが悪いと思ってしまう。

ヘルプデスクの仕事は鍋が悪いのか、食材が悪いのか、問題の切り分けからはじまる。

食材とはアプリケーションソフトで、ネック社が開発した製品ではない。

使用者側は切り分けができない。

ヘルプデスクの仕事には我慢を要求される。人間的に成長する。

電話応対をゾンザイにすると大変なクレームになる。

わざと憂さ晴らしにパソコンとは無関係な話で、嫌がらせや愚痴を言う人もいる。

怒らせないようにしなければならない。

相手が自ら電話を切るまで、担当者はじっと我慢するしかない。

勝手に電話は切れない。

顔も見えない人間と電話応対する。言いたい放題の、言葉の暴力にあう。

一方通行の話しにも、耐えないといけない仕事だ。

公明兄弟は、パソコンのヘルプデスクの仕事に向いていたようで、

現場で良い評価をもらった。


 ネック社のヘルプデスク紹介ルートはPCT社が独占していた。

PCT社の下に関西系の草原ネット社があり、

草原ネット社経由で公明兄弟を常駐させていた。

草原ネット社の支社長が辞めたので、後任の支社長に挨拶に行った。

「はじめまして、公明らが大変お世話になっています」

後任のショウジョウ支社長は

「これは、ごていねいにご挨拶ありがとうございます。

本来ならば、こちらから挨拶に」 と言った。

「前の支社長は、どうなさったのですか?」

「こちらの恥で、あまり言いたくないですが、独立したようです。

社員も全員もっていかれました」

「それは大変ですね」

数週間が経過した頃だった。

僕は公明兄弟の現場慰問に出かけた。

多摩センター駅近くの店で公明らとランチをした。

公明が言い出した

「草原ネット社の新しい営業から

ウチに来ないかと誘われました」

「それは仁義破りだ。なんてことをする会社だ。

情報ありがとう」

僕はショウジョウ支社長へ抗議はしなかった。

公明らの常駐契約が切られる可能性があった。

他に優れた技術のない公明兄弟で、いくらでも代わりの人材がいるからだ。

草原ネット社は他の会社がうらやむような、ネック、PCT社との太いパイプがあった。

幸運にもそんな会社と知り合うことができただけでも、

ありがたかった。

ラクシュミという夢でつながれているので引き抜きされない。

引き抜きの誘惑も、はねつけてしまう。

以後、草原ネット社へは新たに要員の紹介はしないと決めた。

公明らと解散して、多摩センター駅で、IT業界の長老的存在の蒲田社長に会った。

再びお茶を飲む。コーヒーを注文して、業界の情報交換となった。

蒲田社長が言った。

「草原ネット社知っているかい?」

「はい、草原ネット社経由で、現在ヘルプデスクに常駐させています」

「うちも草原ネット社から入れている。

ルートは草原ネット社が独占しているからな。

しかし、あの会社は、あれをやるんだ」

蒲田社長が両手を頭にかかげるポーズをした。

僕が不思議な顔をしていると

「『バッタ』だよ。うちの社員が被害にあったよ」

と社長が言った。

「うちも引き抜きの打診されたようです」

「こうなれば目には目をだ。

俺はやるよ、草原ネット社の要員を引き抜くよ。

他の会社でも報復にでるらしい。

やられたら、やりかえすだ」

草原ネット社は数名しか引き抜いてないかもしれない。

公明兄弟のように打診だけで終わった例もあるかもしれないが、

引き抜きは仁義なき行為とみなされる。

悪評は尾ひれもついて、

あっというまに業界全体に伝わった。

草原ネット社の支社長ショウジョウはバッタ支社長と言われるようになり、

在任期間は短命に終わった。

ショウジョウは草原ネット社を辞めて。他の会社へ転職したが、引き抜きの汚名は残ってしまって、相手にされなかった。


年商売上1億

 ラクシュミはヨシモト、公明兄弟と大手システム会社へ常駐した。

会社として安定する10名常駐を達成するために、宮本は決断した。

10名で、月商は約500万以上となる。

宮本は僕に言った。

「僕もネックのヘルプデスクに参加できないでしょうか?

新たな4名といっしょに現場で頑張りますから」

「大丈夫かい? 

ちゃんと無遅刻無欠勤で、常駐できるかい?」

不安がよぎった。

宮本が常駐した姿を見たことがなかったからだ。

常駐してわずか三日で現場放棄したツカサのことを思い出した。

賭けだ。人生にギャンブルはつきまとう。

前に進むしかない。

草原ネット社から独立した支社長の会社から宮本を含めた5名をヘルプデスクに常駐させた。

支社長はネック社との商権も持ち逃げしていた。

ラクシュミ社は常駐者が合計8名となり、月売上は400万を超えた。


事務所を借りている博文社長にラクシュミについて報告した。

博文社長は言った。

「半年で月商400万以上ですか、あっというまに会社として成り立つんですね」

僕は言った。「技術者ひとりの月単価が高いんですよ。昔はもっと高かったようです。

ですから技術者がすぐに自分で独立する業界なんですよ」

「マイクロソフト、ソフトバンク、ホリエモンなどの成功例は多いですね」

「重要なのはプログラマーを何名配下にできるかです。

政党と同じですね」

「ITも人ですか・・・」

「合言葉はゲーム会社をつくることですね。

会社が安定してくるとゲームに熱狂する20歳代がラクシュミに集まってきました。

ラクシュミの魅力は宮本という若い同年代の社長にありますね。

彼は風貌がちょっと少年のようでした。

集まった若者は、ツカサのようなプログラムの経験はなかったものばかりです。

中には学校でプログラムを学んだ者もいますけど・・・」

「確かに宮本さんは少年の雰囲気ですね。

でも初心者ばかり集まっても先に進みませんね」

「そうなんです。ラクシュミの課題はプログラマー育成だと宮本もわかっていました」

「言うのはたやすいけど、難しそうですね」

「それが奇跡が起こったんです」

「ほ~奇跡ですか」

「しばらくは無給ですが、プログラマーとして育ててくれる会社を見つけたんです」

宮本が持っていた幸運がもたらしたのだろうか。

インターネットで主要となるJava言語の教育を受けながら開発現場に常駐できて、

一人前のJavaプログラマーにしてくれる会社に出会った。

ラクシュミだけでなく、僕の会社にも貢献した。


 毎日新たな会社と名刺交換をしていると

100社にひとつは良いめぐり逢いがある。

昔はミシンで有名だったスネークアイ社と名刺交換した。

豊洲にあるスネークアイ社の応接室でJava技術者育成システムについて質問した。

「どんなシステムですか?」

「とりあえず半年は無給です。半年後の給料は安いですが月30万。

そのかわり現場でJava修行ができます。

2年間は拘束させてください」

「それは、いいですね。ぜひ応募させて下さい」

「年齢的には23歳前後までですよ。

ITのスキル素養があるかどうかは、こちらでテストします」

育成システムにはラクシュミや僕の会社の未経験者を投入できた。

ラクシュミは1年もしないでピークで稼動要員は30名になり、

月商一千万をこえた。


所長の哲郎が言った。

「スネークアイ社はかしこい。

1年半、月30万で拘束すれば元がとれる、

それ以上の利益がでる」

プログラマーの最終単価はひとり100万以上。

国からの仕事であれば癒着もからんで、さらに高い「単金」となった。

哲郎は言った。

「新入社員のリスク回避だね」

「なるほど・・・・」と僕はうなずくようにこたえた。



公明が携帯をトイレに流した

 へルプデスクの仕事には他社から紹介された要員も投入したが、

中に奇妙な男がいた。

男は客のクレーム電話に出ないで

パソコンを使いネットにつないで遊んでいる。

マネージャーは「君は明日からこなくてよい」と告げた。

しかし翌日また男は出社して、

不気味な笑みを浮かべながらネットに没頭しているのだ。

僕は男を紹介した飯田橋にある会社へクレームに行った。

応対した社長兼営業の男は、ひたすら謝罪した。

「どうして地雷とわからなかったのですか」

と声を荒らげてたずねた。

「申し訳ありません。まだ入社したばかりで、

これからと思っていたら、

今回の仕事がすぐ決まったもので」

「性格テストとかするでしょう」

「いや、ウチはしません」

地雷男と面談した時を思い出した。目がすわっていたのだ。

 眼の焦点が別の一点に集中していて魚の目のようだった。

気にはなっていたが、売上に目がくらんだ。

質問すると、

普通に会話はできるので地雷とは思わなかった。

飯田橋の会社に尋ねても何も問題ないと言うので、

言葉を信じてしまった。

ポイントは瞳孔、眼の輝きだ。

この男のおかげで見抜くポイントをつかんだが、もう遅い。

地雷が炸裂した。

ドミノ倒しのように、

ネック社ヘルプデスク部隊は壊滅した。

投入した部隊は10名を超えた頃だった。

紹介した全員が契約を打ち切られた。

つまり公明、宮本らラクシュミのメンバーも

全員返されたのだ。

戻った公明らの次の仕事先を見つけるのに奔走した。

後悔したのは、公明の次の仕事だった。

ヘルプデスクではなかった。

以前、嫌でやめたコンピュータ開発の仕事に就かせてしまった。

公明には、ラクシュミのために自己犠牲をさせてしまった。


 公明は約一年プログラマーを経験していた。

出会いは僕がトライアルで入社した会社だった。

プログラマーは向かないと退社する直前だった。

 公明がツカサを紹介した時を思い出した。

「公明君は今、何やってんだ?」

「データ入力です」

「やはり、それが向いているか?」

「考えることが少ないので、頭が痛くなりません」

「そうか、プログラミングは頭が痛くなるのか。

たしかに不向きな人には残酷だよな。

プログラムが完成するまでは帰れないからな」

プログラムは頑張ったからと、努力のプロセスで誉められ、

認められるものではない。

プログラムが稼動しない限り、

仕事の価値はゼロでしかない。

プログラミングは作家の書く作業と

同じように思えることがある。

誰にも助けてもらえることのない孤独な作業なのだ。 

その苦しさは痛いほどわかる。

かならずバグ(ミス)が出る。

コンピュータにはかなわないのだ。


公明の次の仕事はヘルプデスクから、

開発系の仕事になった。

公明が技術者になればラクシュミは安泰になる。

ラクシュミは技術者見習いばかりで、

ベテランはツカサだけ。

公明は他の誰よりも自分がラクシュミではベテランだと自覚していて、

新宿の高層ビルにある携帯電話会社の運用開発の仕事に就いた。

常駐して半年が過ぎた頃だった。

携帯電話が鳴った。

公明を常駐させている会社の原石からだ。

「公明がおかしい」と原石は言った。

「どうしたんですか?」

「現場で壁に向かって叫んでいる・・・」

即座に現場へむかった。


 公明が常駐している新宿高層ビル付近の喫茶店で

僕は公明と原石と座っていた。

原石が隣に座った公明に対して言った。

「もう現場に行かなくていい」

「いえ、それは・・・」

公明は承知しない顔をしていて、

席を立って外へ出ようとする。

「いいから。座れ」と原石は公明をおさえた。

 僕はいったい何が起こっているのかわからなかった。

「現場に戻らなければ・・・」

と再び公明が席を立とうとすると、

「いっしょにおさえてくれ」と原石が僕に命じた。

公明は病院に行くことになった。病名はウツであった。

公明は仕事をやめて自宅静養となった。

一時的な過度の緊張からきたものらしく、

半年通院して完全に回復したようだが、

もうITの仕事に戻ることはなかった。


 宮本の葬儀で公明に会った。

「新宿の喫茶店でのことを思い出すよ」

「僕はそれがあまり覚えていないのですよ」

「携帯電話を大塚駅のトイレに流したこともか?」

「はい。

覚えているのは薬を飲むと体がだるくなったことです」

「あの薬か。最近は飲んでいる技術者が多いから。

よくその症状を聞くよ。飲むとトロンとして何もしたくなくなるし、

無性に眠くなるそうだな」

「なんとも言えない薬です」

公明は古傷にふれられたくないのでとぼけているのか、

本当に覚えていないのかわからなかった。

僕の脳裏に携帯電話をトイレに流す光景が浮かんだ。


僕の落日  忍び寄るオーム

9月の午後、僕は成田空港のロビーにある喫茶店で、

優作師匠とコーヒーを注文した。

 初老の師匠はコーヒーをひとくち飲むと言った。

「ここまで見送りにきてくれてありがとう。

これが最後の日本だと思う」

「やめてくださいよ。最後なんて。

また日本に戻ってきてくださいよ。

これまでいろいろと教えてもらって、ご恩は忘れませんよ」

「もう日本に戻ることはないと思ったのは二度目だ。

昔、俺はタイで一旗あげようと、日本に帰らないつもりで出かけた。

しかしタイの通貨危機だ。アメリカにやられたよ。

タイで、いいとこまで行っていたのに。

あっというまに天国から地獄に突き落とされた」

「本当についてないですね」

「俺はタイから日本に戻ってくるしかなかったんだ。

それが今回の仕打ちだ。うまく行きだすと、駄目になる。

俺は日本に戻らない方がいいようだ」

「今回のことは、見抜けませんよ。明日は我が身です」

「そういってもらえば、少しは気が休まる。

しかし俺はジョーカーをひいてしまった」

「なんで、麻原オウム教と発覚したんですか?」

「守衛のリークだ」

「守衛なんですか?」

「ああそうだ。あの技術者を公安がずっと監視していたんだ。

それを守衛が感づいたんだ。

ある日、あの技術者が出社した後に公安が付近にいるので、

守衛が尋ねたらしい」

「それで発覚したんですね」

「技術者の採用を決めた人事担当は即刻解雇。

俺はその技術者を紹介した(だけな)ので、ウチの社員じゃないが、

会社が風評被害にあってしまった」

「おまえも!気をつけろよ!」

「災難ですね、公安がからむなんて・・・」

「まったくだ・・・・」

「仲間内で麻原教の技術者のブラックリストを回しています。

彼らは、優秀な技術者ぞろいですからね。

偽名も使っているらしいので、

特徴とかいろいろな情報が書かれてあります。

合計で20名以上になります」

「こわいよな。

あいつらが防衛省システムに関与していたなんて」

「この前、防衛省の戦闘ヘリコプターの仕事を技術者に担当させました。

厳しい素行調査は、されませんでした」

「甘いよな。日本は」

「そうですね。

しかし、まだ麻原の弟子らが活動してますよね。

なんとかならないのですかね」

「宗教団体は日本では優遇されているので、

無理だな。

政党にもなっているしな。

麻原教も政党になっていたら

恐ろしいことになっていたな」

と言って、時計をみて師匠は言った。

「そろそろ出発時間だ」

「もうそんな時間ですか。

中国で蘇ってください。

蘇る金狼ですよ」

「ああ・・・。 見送りありがとう」

僕は師匠のさみしそうな後姿を見送った。


僕の落日 忍び寄る893

 師匠の村田氏は67歳。

僕が営業を始めた頃に知り合い、

親しくなった先輩だ。

話すようになったきっかけは

大手ソフト会社での面接で、なんども、待ち合わせロビーで遭遇したからだ。

 村田氏は僕に声をかけてくれた。

「よく会うね」

「はい。本当に、よくお会いしますね」

「ここで会うということは、君もがんばっている証拠だね」

面接できる技術者を複数の大手ソフト会社に送り込めるだけでも

一人前の営業マンになった証拠なのだ。

情報交換する仲になった村田氏から怖い話を聞いた。

鶯谷社から技術者の紹介があった。

優秀な技術者のようで、村田は大手ソフト会社に常駐させた。

常駐して1ヶ月後になる頃に、

鶯谷社の営業担当が村田に申し出た。

技術者がもうやめたいと言っている。

まずは半年契約だったので、困った村田は

鶯谷社に乗り込んだ。

責任者が出てきた。高価な背広を着た男だった。

始終笑みを絶やさない。

「このまま違法行為をやると業務妨害で訴えますよ」

村田は訴える気はないが、警告した。

責任者は「技術者が仕事をしてみて、給金が安すぎると言っています」と、

丁寧な口調で、笑みをたやさない。

「それは半年契約後にしてくださいよ」と村田が言うと、

責任者は、にこにこしながら、背広の裏のバッチを見せるように

背広の胸の裏ポケットからハンカチを出した。

893ライス・リバー会のバッチだ。

バッチを見た営業担当はフリーズしてしまった。

鶯谷社は村田の会社をスキップして直接大手ソフトと契約した。


 数週間して 僕はジェイ社の中田社長を表敬訪問した。

「最近は、いかがですか?」

「いや困ったよ、893なのだ。聞いてくれよ。

俺が鶯谷社の技術者を客先に常駐させたのだ。

すると鶯谷社の営業担当が1ヶ月もしないで、

もう常駐したくないと技術者が言っているというのだ。

俺は鶯谷社に乗り込んだ。

すると、責任者が出てきた」

中田社長は一気に話すと、一息ついて思い出すように言った。

「ニコニコしている。とても穏やかな顔をしているんだ」

「鶯谷社の責任者が、ですか?」

「そうだ。まるで牧師さんみたいだ」

中田社長は続けた。

「俺は途中退場しては困ると責任者に言った。

すると、彼がだ。

『技術者は、給金に不満だと言っている』と言う。

もう給金は決まったことなので、給金を上げるには、

そちらが客と直接取引するしかない。

それは、ルール違反だと、俺はまくし立てた。

すると彼がスーツの裏から特殊なバッジを俺に、

ちらっと見せるのだよ。

俺はわかったね。これは893の代紋バッジだと」 

僕らの仲間内で、鶯谷社がブラックだと言う情報が、

300社以上にメールで流れた。

 


僕の落日 一億円持ち逃げ

 人生は、頂点にあると、つまずく。

ビジネスではダディー的存在のサトケン。

年齢は70歳に近い。

以前、ヨシモトでお世話になった。

サトケンの会社が、倒産してしまった。

毎月一億円あまりの入金が常にある。

金額に匹敵する技術者を大手ソフト会社に常駐させていた。

経理部長が会社資金を持ち逃げした。

サトケンは言った。持ち逃げは入金された一億円以上。

会社の社員は数名で、技術者は仕入先から調達していた。

サトケンは昔、上場企業の社長をしていた。

企業名をあげると、誰もが知る会社だ。

ビッグ企業の元社長なので、

大手ソフトのコネは尋常ではない。

ヨシモトクラスの初心者を

大手ソフトに常駐させてしまう。

以前の上場会社から懇意にしている男を社員にした。

男に会社の実印、会社の通帳を預けていた。

当月入金された会社の金を持ち逃げした。

技術者の会社(仕入先)に当月だけ支払いができなくなった。

次の月に、また一億あまりの入金があるので、

仕入先に遅延の通知をした。

他の仕入れ先と同様僕の会社も遅延を了解したが、キムチの民は了解しない。

常駐している大手ソフトに直訴したようだ。

キムチの民には仁義とか恩などは皆無だろう。

困ったサトケン社長はサラ金でツナギ資金を借りた。

サトケンがサラ金に手を出したと業界でささやかれた。

サラ金の異常な取立てが始まり、サラ金に身柄を拘束されて、

会社の資金を担保にする書類にサインさせられたと言う。

不可解だが、社長は詳細を言わないので、サラ金に騙されたのかもしれない。

また常駐させていた技術者の大半が、仕入先が外国の会社のために、

業界の仁義などない。

キムチの民らは大手ソフトと、直接取引して、

サトケンの会社は倒産してしまった。

僕の会社への支払いは、未払いのままで終わってしまった。


キムチの民が半導体を手始めに日本を席巻する。

僕の落日にもキムチの民が影を落としていく。



裁判となった。

民事だが、仕入先が僕の会社を訴えてきたのだ。

裁判長が言った。「被告は本裁判になる前に、

まずは和解へ向けて努力するように」

和解調停が始まった。

僕は原告の仕入先からSEとプログラマーの紹介をうけて、

客先に2人の技術者を常駐させた。

 常駐して3日目に中国人プログラマーの契約は解除されていた。

SEも1週間もしないで出社しなくなった。

出社しなくなったのは運が悪い。

8月の盆休みと重なった。

客先からも仕入先からも僕には連絡がなかった。

盆休み明けの8月16日に客先に行った。

技術者が現場にいないことを知り、僕は仕入先に、

「出社しないと、給金は支払えない」とメールした。

まだ発注書も仕入先に送っていなかった。

仕入先からは、返事がなかった。

一件落着したと思っていた。

10月になってからだ。

仕入先から技術者2人の1か月分の給金相当を払えと訴状が来た。

訴状に添付されていたのはメール文だった。

メール内容は8月から現場に入る指示依頼と給金内容。

いったいなぜ中国人プログラマーの契約が打ち切られたのか?

SEの方は契約を打ち切られていないので、常駐できたはずだが、

SEは現場を放棄した。

理由は推測だが、仕事はCOBOL言語で書かれたシステムの分析で、

SEはCOBOL言語がわからなかったからだと思う。

裁判になって僕の会社は負けてしまった。

会社より個人を守るのが法律の原則。

給金に関してのトラブルは、請負側に弱い。

僕は「客先が契約解除したので、支払えない」と主張はしたが、

仕入先は「御社の指示で動いている。

契約解除した常駐した客先は関係ない」と言う。

結局2人の給金1ヶ月分相当を仕入先に支払う。

以下の2点が要点となった。

正式な発注書はないが、メールが発注書とみなされる。

技術者は仕事をしていないが、契約した以上、

少なくとも1ヶ月分の給料相当を支払う必要がある。

反省点としては事件後、仕入先への連絡をメールで済まし、

実際に会いに行って腹を割って話さなかった。

仕入先側が訴えると決意したのは常駐したSEが9月に、

心筋梗塞で急死したからだった。

死んだSEに見舞金を出したかったそうだ。


統合失調症

 常駐している女性技術者が救急車で運ばれた。

かつぎこまれた病院に行くと

女性は1日入院で退院できるという。

病名は医師の守秘義務で、僕にはわからなかった。

現場に、お騒がせしたと、

お詫びに行くとマネージャーが言った。

「突然に椅子から倒れた。大きな音がしたよ。

テンカンのように口から泡をふいていて、失神状態だった」


会社が僕に、20歳の新入社員女性D子の常駐先探しを命じた。


張り切って修行先を探して、

渋谷の大手ソフト会社へ常駐させた。

常駐して2週間が過ぎた頃だった。

D子から相談があるというので、

常駐先の近くの喫茶店で会った。

「私は大丈夫でしょうか?」

「仕事のことかい?」

「はい。私のことで、Nさん(現場の上司)らが、

何回か話し合っているんです。もうクビでしょうか?」

「わかった。聞いてみるよ」

 僕は後日、客先のNさんにD子についてたずねた。

「彼女、仕事は問題なくやっているよ。

何かあったのですか?」

「そうですか。お役に立っていれば何よりです」

 僕は客先をあとにして、会社に戻ると、

D子に「あなたの評価は高いので、がんばって・・」

とメールを送った。

それから2週間は経過しただろう。

Nさんから呼び出された。

「D子さんだが、変なことを言っているんだ」

「なんと言っているんですか?」

「わたしを病院に入れないでくださいなんて言うんだよ。

僕らはよく打ち合わせをするのだが、それを彼女は、

病院に入れる相談をしていると思っているんだ」

僕は会社に戻り、哲郎に相談した。

「それは引き上げた方がいいな」

僕はD子に会いに現場へ行った。

現場の会議室に呼んで、引き上げることをD子に伝えると、

D子は「お願いですから、入院させないで」と嘆願する。

「だいじょうぶだよ。入院じゃない。会社に戻るだけだよ」

D子は不信な顔をして、現場からの撤収に賛同しなかった。

「どうして入院しなければならないんだ?」と僕が言うと、

D子は泣き出して答えた。

「父と母がわたしを病院に入れたんです。

病院の男の人が二人来て、私を連れて行ったんです」



会社は僕には難題の技術者ばかりを振り向ける。

優秀な技術者が入社したら所長らが営業を行う。



ラクシュミの回顧

 虎ノ門ビル社長室で、ビルのオーナー博文社長に話した。

「約5年ラクシュミは続きました。あっというまでしたね。

ラクシュミは多いときで30名以上は社員がいました。

解散理由は、ゲーム開発が暗礁に乗り上げたことでしょう。

それと、ITバブルがはじけて、

社員が派遣先から帰ってきます。

全員契約社員なんで、契約期間が切れれば無収入です。

バイトを自分らで探すことになり、

自然に離れていきました。

派遣でプログラムスキルを身につけた技術者は、

正社員として採用してくれるIT会社へ流れていきました」

「なぜ正社員にしなかったのですか?」

「資金はあったと思います。

リスクをとりたくなかったのですね」

「それから、どうしたんですか?」

「1年は、恵比寿にあった通信機会社の社員でしたね。

しかし一度社長を経験したので、

サラリーマンの平凡さに嫌気をさして自らやめました」

「なぜ、社員になったのですかね?」

「とりあえず、生活のために就職したようです。

 会社の哲郎の紹介でした」

「やめた理由が、もうひとつわからないですね」

「23歳で、簡単に社長になったからだと思いますよ」

社長は黙って聞いていて、僕は言った。

「やめたあと 宮本は、僕と同じシステム営業がやりたいと言うので、

F社を紹介しました。

しかしやってみたが成果があがらずに、

半年もしないでやめました」

「ゲーム店を開いていますね?」

「池袋の東急ハンズの裏側にありました。

ビルの二階でしたね。

友人に任せていたようです」

「どんなゲームなんですか?」

「僕もあまり知らないんですが。

トレーディングカードというものですね。

宮本はゲーム大会で優勝していて、

その道では有名のようです」

「宮本さんは社長運、ゲームの勝負運で、

運を全部使い果たしたのかもしれませんね」

「僕も同じことを考えていました」

 その後宮本はF社をやめて、

社会人としてはじめて入社した秋葉原の会社に再入社した。

ネットの技術者としてがんばると言っていたが、

秋葉原通り魔事件で無念の死をとげた。


 通り魔がサバイバルナイフで刺しにきた。

ヨシモトは遠距離からわかって回避したのだろうか。

一緒にいた宮本には50センチの至近距離に来ないとわからなかったのだろう。

宮本は牛乳瓶の底のようなメガネをして視力は弱かった。

宮本と駅とかで待ち合わせする時、

僕とわかるのは至近距離になってからだった。

「宮本には意中の女性がいて、日光にドライブしたんですよ」と、

僕は博文社長に言った。

「そんなことあったんですか?」

「おそらく、そうだろうって思うんですがね。

家族も友人も知らない。それくらい彼は秘密主義なんです」

「それで、どうなったんですか?」

「あいつは、目が悪いから、ガードレールに車をぶつけてしまって、

車は自走できなくなったらしいです」

「イロハ坂は急カーブの連続ですからね・・・」

「だいたいアイツがドライブなんかしますか?

相手の女性、以前宮本から仕事を頼まれていたんです」


 人には等しく幸運なカードが配られるとするならば、

幸運なカードが短期間に全部配られる者もいるだろう。

宮本はゲームで幸運なカードを使い果たしたのだろうか。

「宮本は妖精みたいでした」と社長に言った。

「そう、少年みたいな風貌でしたね」

 宮本と喫茶店で会えば体はスリムだが、

ラズベリー系のミニケーキを必ず食べていた。

僕と別れたあとは、これからアキバへ行くのが口癖だった。

自分のことはひたすら語らない。

ゲームの世界大会で優勝したなんて僕には語らなかった。


僕は秋葉原通り魔事件以降、しばらく現場に行けなかった。

外出すると、身構えるようになった。

突然ナイフを持った男が来たらどう受けるか、

僕の意識下に根付いてしまった。




休業命令


相棒が秋葉原で殺された。

鳩ポッポが首相になった。

キムチの民は日本人の仕事を取り上げる。

鳩ポッポが首相になって法改正。二次派遣禁止だ。

仕入先から技術者を紹介してもらい、

大手ソフト会社に常駐できなくなった。

リーマンショックで、IT業界は不況になった。

僕は社長から休業命令を受けた。

技術者紹介を絶たれて、実績をあげる方策もない。

正社員は哲郎が独占している。

会社の規則に帰休という事項がある。

休業手当支給となり、出社しないで、

給与は半分以下の金額がもらえる。

会社はリーマンショックで、不景気になり

国から緊急雇用調整助成金をもらう。

助成金から、僕の休業手当が支払われる。


会社は助成金を使って、社員を休業させる。

「社員の首切り」を、はじめたわけだ。

IT業界は、「助成金首切り」が主流になり

業界の仲間が続々とやめていった。

僕は残っている有給休暇を使って、

満額給与を受け取る作戦に出た。


鳩ポッポの半導体産業つぶし。

次にIT産業つぶしが始まった。


出社しないでいつまで給料をもらえるか


継父は50歳代で引退した。

僕も引退を考えていて、いつやめるか時期を悩んでいた。

会社から引導を渡されたのだ。 辞め時だと思った。

再就職しないで、会社に行かずに給料をもらいながら、

いつまで会社にいられるか試そうと思った。


ヘミングウェイが言った

「人生は飛ぶように過ぎていくのに、

僕はただ流されているだけだ」

僕も従った。


母は継父のように引退して何もしないのは反対だった。

酒が飲めないのに肝臓がんになってしまった。


会社から給与をもらいながら、バイトを始めた。

バイトは会社公認だった。


お店の掃除 ガードマンのバイト、

小さな芸能プロダクションに入って

映画やテレビのエキストラなどを行った。


母がテレビドラマで運良く僕が登場するシーンを見た。

「ちょっとしか出とらん」

「ほとんどカットされるたい。

テレビに出るだけでも奇跡たい」


肩たたきは人事の担当ではなくて、

哲郎が交渉の相手だった。

喫茶店で会うと、

「社長が僕を解雇したい」と、哲郎は言った。


会社は僕を解雇したいが、正当な理由がない。

なんとか僕を説得して、

社員からの自己都合退職に持っていきたい。

会社都合だと、

ハローワーク、雇用助成金申請に問題が生じるからだ。

ネットで調べると、会社が、従業員に対し、

無理に退職を迫ることは「退職強要」で、

法律上は許されない違法行為だそうだ。

だから、哲郎は曖昧にしか言えないのだ。

「条件は?」

「退職金1千万ですかね。

所長だって大企業だったから、3千万以上、もらったでしょう?」


哲郎は何も答えず、1千万の申し出は難しいと、こたえた。

僕の休業は、累計で3年以上続き、給与も支給された。

当然、何度も哲郎からの退職勧奨は行われた。




業務命令違反で、懲戒解雇

会社から復職の話が来た。

僕が休業している約3年間に、会社は営業マンを、

累計で6名以上を採用した。

採用条件は3ヶ月お試しで実績次第で社員に。

誰一人売上は上がらないで去っていった。


会社は実績が上がらないと再雇用はしない。

条件をクリアーできる者がいなかった。

社長はまた、営業マンの採用を繰り返そうとしている。

哲郎は思った。

僕を復職させた方がましだと。

僕は思う。もう実績の上がる産業構造ではない。

社長はわかっていない。

復職すると、健康を害すると思った。

復職を拒否すると、

「業務命令違反で、懲戒解雇する」と言ってきた。

懲戒解雇は避けたいと思った。

ハローワークでの条件が悪くなると思った。

自己都合で、会社をやめて、ハローワークに行くと、

「3年以上の休業は、自己都合の退社ではなくて、

会社都合の退職となる」と言われた。

失業手当をもらう給付日数が、150日から330日になった。

再就職活動をしてみたが、社会勉強のためだ。

縁のある会社はなかった。

こうして、僕は、森元首相がITを「イット」と間違えて呼んだ業界から、

足を洗った。



その40 母が倒れた


会社から復職の命令が来た頃だった。


母は僕に毎日朝夕二回の携帯電話でのワン切りをしていた。

東京にいる僕に「ちゃんと生きてます」

と携帯電話の着信で連絡していた。


十一月二十五日だった。

母からの携帯電話のワンギリが一日なかった。

翌朝ワン切りがない。母のお隣に電話した。

隣の方が母の家に行ってトイレで倒れていた母を発見した。

救急車で運ばれて、大牟田市民病院に入院した。

僕は市民病院にかけつけると、

母は言語障害で、一言も話せない。

機関銃の音がしない。 

なんなのだろう? 

あんなにおしゃべりが好きなのに。

機関銃がサイレンサーになった。

母は悲しくもない顔だ。なんだろう? 

ボケたのだろうか?

僕の顔は分かるようだ。

メモで話したいとも言わない。

別人になったようだった。



医師から説明があった。

母は脳梗塞で倒れた。

発症して八時間以上は経過していた。

命は救われたが、右半身麻痺、

言語障害にもなり、話せない。

入院して精密検査すると胃がんがみつかった。

胃がんの末期だった。

胃と腸の間をつなぐ噴門がガンで完全に塞がれていて、

食べても大腸にとどかない。

だからトイレに座ったまま脳梗塞になって倒れた。

便が出ないので脳梗塞になるまで力んだのだ。

医者から、ガンが他にも転移していて余命数ヶ月と言われた。

胃がんはこわい。普段は痛くない。

普通に痛みを感じるようになったら、

もうガン末期だという方が多いらしい。

医者は治療ができないと言った。

脳梗塞を治す薬は、胃癌を進行させるという。

本当なのだろうか?


その41 なんとんつくれん終章


治療の方法がない。

久留米市の病院だったらどうだったのだろう?

継父の時も同じ問題で悩んだ。

大牟田の病院でいいと言った。

大牟田はガン治療にいい噂がない。

ホスピス入院となり、元看護婦の親戚に聞いたが、

ホスピスに異論はなかった。

市民病院から末吉町の今野病院に移る。

母はわかっていたと思う。

継父をなくし、80歳をこえて独居老人の身になって、

病院に行かずに自然死を望んだのだ。

今野病院に移って二ヶ月目だった。

二月二十日午前零時に突然血圧が下がり、

一時間ももたずに、午前一時、八十一歳で旅立つ。

葬儀は磯浜で行なった。

納骨を済ませて母の家に戻る。



磯浜での葬儀が終わり、納骨を済ませた後、

僕は母の家に戻った。

隣の家の犬は知っていた。

僕が家に入ろうとすると100%吠える隣の犬は吠えないのだ。

母の霊が僕についてきているからだろう。

母は以前は機関銃のように一時間以上話し始めるが、

脳梗塞で言葉を失ってしまった。

病院では、僕を見つめるだけだった。

遺品整理をしているとき、背後に誰かいるような気配を感じた。

母が案内してくれている。

僕は刑事のように家探して、巾着袋や封筒、ミニバックからお金を見つけた。合計で三万円以上。

母が申し訳なさそうな顔をしている気がした。

死後一週間が経つと、隣の犬はぼくが家を出ると吠え始めた。

---------

初めて食べたものや初対面の人に対する母の印象は、

「なんとんつくれん」という言葉だった。

映画を観ても、何とも言えない。

「よか」なのかわからない。「なんとんつくれん」なのだ。

亡き母が僕のエッセイを読んだら、「なんとんつくれんね!」と笑って言うだろう。


なんとんつくれん物語 終わり



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