マディソン郡の橋のたそがれマイ・ラブ
琥珀色の夕暮れ、キッチンにて
西陽がキッチンのステンレスを、鋭く、けれどどこか寂しげに照らしていた。
幸子は、ごみ捨て場に置かれていた古本市から何気なく持ち帰った一冊の文庫本を広げていた。タイトルは「マディソン郡の橋」。かつて世界中でブームになった恋愛小説だということは知っていたが、今の自分には無縁な、遠い異国の夢物語だと思っていた。
しかし、ページをめくる指が止まらなくなったのは、主人公フランチェスカが抱える「静かな絶望」に触れた瞬間だった。
彼女は、家族を愛していた。けれど、自分をどこかに置き忘れてきたような気がしていた。
その一文が、幸子の胸をナイフのように切り裂いた。
幸子には、実直な夫と、もうすぐ成人を迎える息子がいる。家の中は清潔に保たれ、夕食の献立に困ることもない。絵に描いたような幸せ。けれど、その幸せという額縁の中にいる自分は、いつの間にか透明な存在になっていた。
誰のせいでもない。ただ、私という人間が、妻や母という役割に塗りつぶされて消えてしまっただけ。
幸子は、自分の内側にあった言語化できない渇きが、数十年前に書かれたこの小説の中に、そっくりそのまま描写されていることに戦慄した。
物語の中で、フランチェスカはカメラマンのロバート・キンケイドと出会い、たった四日間で一生分の恋をする。幸子は、もし自分の人生にロバートが現れたらどうするかを想像しようとして、息を呑んだ。
自分にも、そんな「もしも」があったのではないか。
あの時、別の道を選んでいたら。あるいは、スーパーの駐車場で、道を聞いてきたあの見知らぬ誰かと、もっと長く言葉を交わしていたら。
幸子は、自分がフランチェスカと同じ、選ばなかった方の人生を抱えて生きている人間だと気づいてしまったのだ。
物語の終盤、雨の中で車のドアノブに手をかけ、愛する人と共に行くか、家族のもとに留まるか葛藤するフランチェスカ。
幸子は本を閉じ、窓の外を見た。
夫が車で帰宅する音が聞こえる。タイヤが砂利を踏む、聞き慣れた音。
私は、ドアを開けなかった方のフランチェスカだ。
幸子は呟いた。彼女もまた、家族を選び、自分を殺し、日常という名の聖域を守り続けてきた。それは美談かもしれないが、同時に、一生癒えない傷を抱えることと同義だった。
夕食の支度を始めなければならない。
幸子は本を本棚の奥、見えない場所に隠した。まるで、自分の心の奥底に封じ込めた本当の自分を隠すように。
おかえりなさい。
玄関が開く音に合わせて、幸子はいつもの、穏やかで完璧な妻の顔を作った。けれど、その瞳の奥には、マディソン郡の橋に吹き抜ける風と同じ、乾いた情熱の残滓が、静かに、けれど確かに灯っていた。




