モエ、どこにいるの? 帰っておいで
北関東の古い住宅街。和子は、古びたリードを手に、今日も住宅街を宛てもなく歩いていた。「モエ、どこにいるの? 帰っておいで」。一年前、愛犬の柴犬「モエ」がいなくなってから、彼女の時間は止まったままだった。
家に戻ると、昼間だというのに、湿り気を帯びた酒の匂いが漂っている。薄暗いリビングでは、夫の俊介が虚ろな目でテレビを眺めていた。その手元にある湯呑みの中身は、お茶ではなく安物の焼酎だ。
二人の一人娘、真由美がコロナ禍で急逝したのは三年前のことだった。最期に立ち会うことも、満足に火葬に付き添うことも叶わなかった。その耐えがたい現実から逃げるように、和子は娘が可愛がっていたモエに異常なほどの執着を注ぎ、俊介はアルコールの中に沈んでいった。
「また飲んでいるのね、あなた」
和子の冷ややかな声に、俊介は震える手で湯呑みを置いた。「……モエは、見つからんよ。あいつは、真由美が連れて行ったんだ」。俊介が酒を止められないのは、単なる依存症だけではなかった。あの日、彼が泥酔して玄関の鍵を閉め忘れたせいで、モエは外へ逃げ出してしまったのだ。娘の唯一の形見とも言える存在を失った罪悪感が、さらに彼を酒へと駆り立てる悪循環に陥っていた。
「私のモエを返してよ!」と和子が取り乱して叫ぶたび、俊介はただ黙って、震える手で新しい酒を注ぐしかなかった。
ある夜、俊介は幻覚を見た。暗い廊下に真由美が立っていて、足元にはモエがいる。「お父さん、もういいよ」。娘の声が聞こえた気がして、俊介は這いずるようにしてキッチンへ向かい、残っていた酒瓶をすべてシンクに叩きつけた。割れたガラスの音が静かな家に響き渡る。
駆けつけた和子が見たのは、割れた瓶を前にして、子供のように泣きじゃくる俊介の姿だった。「和子、すまない……俺が追い出したんだ。真由美も、モエも、俺が……」。俊介の嗚咽は、何年も溜め込んできた慟哭だった。和子はその背中に触れようとして、手を止めた。彼女もまた、犬を探し続けるという狂気の中に逃げ込むことで、娘の死という現実から目を逸らし続けてきたことに気づいたからだ。
翌朝、雨が上がり、庭の紫陽花が濡れて光っていた。和子は、モエが使っていた古びた犬小屋を解体し始めた。俊介は、ひどい離脱症状の震えに耐えながら、それを手伝った。
「あなた、今日、真由美のお墓に行きましょう」と和子が静かに言った。「モエはきっと、あの子と一緒にいるわ。私たちがいつまでも探していたら、あの子たちが困るものね」。
俊介は、震える手で犬小屋の木材をまとめた。「……ああ。行こう」。庭の隅には、もうモエの姿はない。しかし、二人が共に汗を流して片付けを続けるその場所には、長い間閉ざされていた、新しい風が通り抜けていた。




