「お父さん、どこへ行くの?」〜たそがれマイ・ラブ
「お父さん、どこへ行くの?」
深夜二時。
幸子(75歳)は、暗闇の中で響く「ガタン」という鈍い音で目を覚ました。
心臓が嫌な跳ね方をする。隣の寝室で寝ているはずの夫・修一(80歳)が、またベッドから這い出した証拠だった。幸子は悲鳴を上げそうな膝の痛みを堪え、重い体を引きずって廊下へ向かった。
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修一は三年前から認知症を患い、最近では夜間の徘徊が常態化していた。
「お父さん、どこへ行くの?」
「……仕事だ。会議に遅れる」
パジャマ姿の修一は、玄関の鍵を力任せにガチャガチャと回している。幸子は彼の細くなった腕を掴むが、興奮した高齢者の力は予想以上に強く、壁に激しく肩を打ちつけられた。
「もう夜中なの。お願い、寝ましょう」
なだめ、すかし、一時間かけてようやくベッドに戻した頃には、幸子の心臓は早鐘のように打ち、冷や汗が止まらなかった。彼女自身、重度の高血圧と脊柱管狭窄症を抱えている。主治医からは「これ以上の無理は、あなた自身の命に関わる」と厳しく警告されていた。
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事件が起きたのは、その翌々日の雨の夜だった。
トイレへ行こうとした修一が足をもつれさせ、転落するように倒れた。幸子は必死で支えようとしたが、自分の膝が「ギクッ」と嫌な音を立てて崩れ落ちた。
修一の体重がまともに幸子にのしかかる。床に倒れ伏した二人。修一は状況が分からず「痛い、痛い」と声を上げ、幸子は激痛で指一本動かせない。
「もう、無理だ……」
暗い廊下で、幸子の目から涙が溢れた。愛情がなくなったわけではない。ただ、「命の重さ」が、一人の75歳が背負える物理的な限界を超えてしまったのだ。
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翌朝、幸子は這うようにして電話機まで辿り着き、ケアマネジャーの佐藤に連絡を入れた。数時間後、駆けつけた佐藤は、湿布の匂いが充満する居間で幸子の顔をじっと見つめた。
「佐藤さん、私……もうお父さんを支えられません」
幸子は震える声で切り出した。自分自身の治療もままならないこと、夜の暗闇が怖くて眠れないこと。言葉にすると、堰を切ったように本音が溢れた。佐藤は手帳を閉じ、穏やかに、しかしはっきりとした口調で告げた。
「幸子さん。これは『投げ出す』ことではありませんよ。今のままだと、お二人の命が同時に危うくなる。それは修一さんの望むことでしょうか?」
「でも、私が最後まで面倒を見ると約束したんです」
「そのお気持ちはもう十分すぎるほど伝わっています。でも、幸子さんが倒れたら、修一さんは誰が守るんですか? 専門のスタッフに任せるのは、修一さんの安全を確保するための、積極的な選択なんです」
佐藤の言葉に、幸子は視線を落とした。自分の限界を認めることは、敗北だと思っていた。けれど、佐藤が示したのは「共倒れ」という最悪の結末を回避するための、唯一の出口だった。
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一週間後、修一の施設入所が決まった。
迎えの車が来る日、幸子は修一のお気に入りのセーターを丁寧に畳み、鞄に詰めた。修一は自分がどこへ行くのか分かっていない様子で、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「幸子、お茶はまだか」
「……ええ、今淹れるわね」
これが最後かもしれない「日常」の会話。
幸子は震える手で茶托を運んだ。自分の健康が損なわれれば、共倒れになる。それは二人にとって一番の不幸だと、自分に言い聞かせた。
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修一を乗せた車が見えなくなった後、静まり返った家の中で、幸子は一人椅子に座った。
肩の痛みも、膝の疼きも消えたわけではない。しかし、部屋を包む静寂は、絶望ではなく「安息」の始まりでもあった。
老老介護の終わりは、絆の断絶ではない。お互いが「人間らしく生きる」ための、痛みを伴う再出発だった。




