今は冬〜
今は冬〜
海が見えるホテルのラウンジ。
大橋の歌が流れてきた。
幸子は、手元にある琥珀色のブランデーグラスを見つめていた。
窓の外は、燃えるような夕焼けが、ゆっくりと紺青の夜に飲み込まれようとしている。
まさに「たそがれ」の刻だった。
幸子は今年、還暦を迎えた。人生の節目というやつだ。
かつて、この歌の歌詞にあるように「しあわせ芝居」を演じていた時期もあった。
誰かの妻として、母として、期待される役割を完璧にこなそうと必死だった日々。
けれど、ふとした瞬間に、心の中の「壊れた時計」が動き出すことがある。
「……元気にしてるかしら」
口をついて出たのは、30年前、この場所で別れた男への言葉だった。
彼と過ごした時間は、今思えばほんの一瞬。情熱というよりは、もっと危うい、夕凪のような静けさを孕んでいた。
歌詞のフレーズが、波音と共に脳裏をかすめる。
今は冬 そばにあなたはいない
今の幸子の手は、家事や仕事を経て少し節くれ立ち、あの頃のような若さはない。
けれど、あの時の熱い鼓動だけは、指先に鮮明に残っている。
「さよなら」さえ言わずに別れたのは、美しすぎる思い出を汚したくなかったから。
「運命」という言葉で片付けるには重すぎた。
だからこそ、幸子はその記憶を心の奥底、誰にも見えない場所に鍵をかけて仕舞い込んできたのだ。
かつては「一人でいること」が、凍えるような孤独に思えた。
しかし、60歳になった今の幸子にとって、この静寂は贅沢な贈り物だ。
「今は冬……。ええ、人生の冬かもしれないけれど」
幸子は小さく微笑み、最後の一口を飲み干した。
窓に映る自分の顔を見る。目尻のシワは、あの別れから今日までを懸命に生きてきた証だ。
さだめという いたずらに
もう、彼を追いかけることはない。
けれど、この夕暮れの色を見るたびに、幸子は思い出すだろう。
自分を「ただの一人の女」として、激しく、そして静かに愛してくれた人がいたことを。
幸子は席を立ち、コートの襟を立てた。
ホテルのロビーに流れる歌が終わると、
彼女は背筋を伸ばし、夜の帳が下りた街へと、確かな足取りで踏み出していった。
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たそがれマイ・ラブ




