出口のない箱庭
出口のない箱庭
神奈川県のとある商店街。暖簾をくぐれば、そこには「理想の老後」を体現したような光景がある。
「はい、お待ち遠さま! 熱いから気をつけてね」
店主の老父が、皺の刻まれた顔を綻ばせて湯気の立つラーメンを運ぶ。レジでは白髪を上品にまとめた妻が、客と談笑しながら慣れた手つきで小銭を数えていた。
「後藤さんとこは、本当に仲が良くて羨ましいわ」
「いえいえ、ただの腐れ縁ですよ」
朗らかな笑い声が店内に満ちる。だが、厨房の奥、客席からは死角になる薄暗い洗い場で、純子(52歳)は機械的に皿を回し続けていた。
夜9時。最後の一人が店を出て鍵をかけた瞬間、店内の空気は一変する。
先ほどまで「好々爺」だった父の顔から表情が消え、重苦しい沈黙が降りた。
「おい、純子。さっきのギョーザ、焼きが甘いんだよ」
父の低い声が響く。純子が「すみません、注文が重なって……」と言いかけると、手近にあったお玉がシンクに叩きつけられた。凄まじい金属音が響く。
「言い訳するな。お前は何をやらせてもどん臭い。顔も性格もそのザマで、家業すらまともにできないのか」
純子は肩をすくめ、視線を床に落とした。母は隣で明日の仕込みをしながら、テレビの音量を少し上げただけだった。助けてはくれない。母にとって、父の機嫌が自分ではなく純子に向かっている時間は、平穏な休息時間なのだ。
「お姉ちゃん、元気? 今、パリはバカンスシーズンで最高だよ」
スマホの画面越しに、妹の華やかな笑顔が弾ける。妹は昔から、両親の「地雷」を避けるのが天才的に上手かった。
「お父さん、また機嫌悪いの?」と純子が漏らしても、妹は困ったように眉を下げてこう言う。
「もう、お姉ちゃんが真に受けすぎなんだよ。お父さんたちも年なんだから、優しくしてあげなよ」
妹は知らない。彼女の留学費用も、海外での華やかな生活の裏付けも、純子が週に3万円という小遣い程度の給与で12時間労働をこなし、家計を支えてきたからこそ成り立っていることを。
純子が25歳で一度家を出た時、父は「ブスのくせに身の程知らずだ」と吐き捨てた。結婚に失敗し、逃げるように戻ってきた時、母は「人手が足りなかったから助かるわ」と、一度も「お帰り」とは言わずにエプロンを渡した。
深夜、純子は自室の鏡の前に立つ。かつて父に「気色悪いから化粧するな」と罵倒されて以来、彼女は自分の顔を直視するのが苦手だ。
哲学者の言う「自己肯定感」なんて、この家では贅沢品だった。
毎日、言葉の礫を浴び続け、心を石のように固めていなければ、明日の朝9時に暖簾を出すことはできない。
「明日は、もやしの仕入れを増やさないと」
逃げ出したいという衝動は、もう何年も前に、疲労という名の泥に飲み込まれて消えた。
外では「朗らかな老夫婦」として慕われる両親の、その影を一身に引き受ける役割。それが自分に与えられた唯一の居場所なのだと、自分に言い聞かせるしかない。
深夜の商店街。
幸せそうな看板を掲げた食堂の二階で、たったひとつの窓だけが、消え入るような明かりを灯し続けていた。
短編集 たそがれマイ・ラブ
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