銀幕ノート 和風スクリューボールコメディ 「婚前特急」
銀幕ノート
和風スクリューボールコメディ
「婚前特急」
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スクリューボール・コメディは、ラブコメというジャンルの礎を築いた革新的な形式であり、
現代の恋愛コメディに多大な影響を与えた。
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スクリューボール・コメディとラブコメの進化
1930年代から1940年代にかけてハリウッドで隆盛を極めた映画ジャンル「スクリューボール・コメディ(Screwball Comedy)」は、単なる笑いの提供にとどまらず、恋愛映画の枠組みを刷新し、現代のラブコメディ(ラブコメ)に決定的な影響を与えた 。
このジャンルの特徴は、型破りで奔放なキャラクター、テンポの速いウィットに富んだ会話、予測不能な展開、そして社会階級や性別の固定観念を揺さぶる構造にある。代表作『或る夜の出来事』(1934年)は、裕福な令嬢と庶民的な新聞記者の逃避行を描き、身分違いの恋というテーマを軽妙洒脱に描出した
スクリューボール・コメディがラブコメに与えた最大の功績は、恋愛を笑いと知的なやりとりの中で描く手法を確立したことである。それまでの恋愛映画が甘美でロマンティックな幻想を描くことに終始していたのに対し、スクリューボール・コメディは、男女の対等な駆け引きや社会的制約を超える恋を、笑いを交えて描いた。これは、現代のラブコメにおける「喧嘩しながら惹かれ合うカップル」や「身分や立場を超えた恋愛」の原型となっている。
また、自立した女性像の提示もこのジャンルの重要な要素だ。多くの作品で女性キャラクターは、男性に依存せず、知性と行動力を持って物語を牽引する。これは、現代のラブコメにおける「強くて魅力的なヒロイン像」の源流といえる。
さらに、スクリューボール・コメディは社会風刺を含むことも多く、恋愛を通じて当時の階級制度や性別役割への批判を込めていた。こうした笑いと批評性の融合は、ラブコメを単なる娯楽にとどめず、観客に思考を促すジャンルへと昇華させた。
現代のラブコメ作品、たとえば『プリティ・ウーマン』や『ブリジット・ジョーンズの日記』などにも、スクリューボール・コメディの影響は色濃く見られる。予測不能な展開、社会的ギャップを超える恋、そして笑いと感動のバランスは、今なおラブコメの王道として受け継がれている。
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結論として、スクリューボール・コメディはラブコメというジャンルの確立において不可欠な存在であり、その精神と構造は、時代を超えて今なお恋愛映画の中核を成している。
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スクリューボール・コメディ
スクリューボール・コメディは、1930年代のアメリカで誕生し、恐慌下の世相に一服の清涼剤をもたらした映画ジャンルである。その名称は、野球における「予測不能な変化球」であるスクリューボールに由来する。まさにその名の通り、このジャンルは、常識にとらわれない突飛なキャラクターの言動と、めまぐるしい出来事が次々に起こる波乱に満ちた物語を特徴とする。
特に、ウィットに富んだテンポの良い会話が繰り広げられる点が大きな魅力だ。裕福な男女が、激しく衝突しながらも惹かれ合い、最終的に結ばれるというロマンティック・コメディの骨格を持ちつつも、その過程は常に予測不能である。物語はしばしば上流階級の退屈さや偽善をコミカルに風刺し、観客に現実逃避の笑いを提供した。
このジャンルは、フランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』や、ハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』といった傑作を生み出し、古典的なハリウッドコメディのスタイルを確立したのである。
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「スクリューボール・コメディ」に最も近しい要素を持つ日本の名作には『安城家の舞踏会』や、その後の作品『お嬢さん乾杯!』といった、戦後の混乱期における「没落貴族と新興富豪の対立」 を描いた作品群です。
特に『お嬢さん乾杯!』は、その軽妙洒脱な作風から「和製スクリューボール・コメディ」とも呼ばれることがあります。
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日本の「和製スクリューボール・コメディ」
戦後の日本映画における「スクリューボール・コメディ」の要素を探る上で、吉村公三郎監督の 『安城家の舞踏会』(1947年)や、木下惠介監督の『お嬢さん乾杯!』 (1949年)は欠かせない。
これらの作品の背景には、華族制度の廃止と財産税により没落した旧家と、戦後の混乱期に成功を収めた新興富豪(成金)という、身分と価値観が対立する二項図式が存在する。これは、アメリカのスクリューボール・コメディが好んで描いた 「金持ちと貧乏人、あるいはエリートと庶民の対立」 という構図と強く共鳴する。
1. 『安城家の舞踏会』:悲劇性の中の誇り
チェーホフの『桜の園』を下敷きにした『安城家の舞踏会』は、没落の運命を受け入れられない家族と、ただ一人現実を見据える次女・ 敦子(原節子) の姿を描く。
この作品は悲劇的な色彩が濃いが、華族の誇りや体面を保とうとする家族の理不尽なまでの行動、そして終盤の「最後の舞踏会」という設定は、貴族社会の崩壊という大きな変化の中で、登場人物たちの感情がスクリューボールのように揺れ動く様子を映し出している。特に、原節子演じる敦子が父と踊る最後のダンスのシーンは、失われゆく美しさの象徴であり、映画史に残る名場面である。
2. 『お嬢さん乾杯!』:軽妙な風刺コメディ
その2年後に公開された『お嬢さん乾杯!』は、自動車修理工場で成功した新興富豪・圭三(佐野周二)と、元華族の令嬢・泰子(原節子)の恋の行方を軽妙洒脱に描いた傑作風刺コメディである。
泰子は家族の経済的再建のために圭三との結婚を受け入れようとするが、圭三の素朴な行動や価値観(バレエよりもボクシングに熱中する、など)に戸惑う。この 「身分違いの男女のミスマッチ」が生み出すユーモアと、両者の心が通いそうで通わない歯がゆい駆け引きは、まさにスクリューボール・コメディの王道 であり、戦後の混乱期における新しい価値観の衝突を、笑いとヒューマニズムをもって描き切った作品と言える。
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映画「婚前特急」
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「結婚まで、あと5人。」——そんな大胆なコピーに心を掴まれたあなたは、すでに『婚前特急』の世界に乗り込んでいる。
恋愛にスピード感を求める主人公・チエは、5人の彼氏を同時に“乗り換え”ながら、理想の結婚相手を探すという前代未聞の恋愛列車に乗車中。2011年に公開されたこの映画は、軽快なテンポとユーモア、そして意外なほどの人間味で、観る者の心を揺さぶるラブコメディの逸品だ。
「恋愛は効率よく、結婚は計画的に」——そんな現代的な価値観に一石を投じるように、チエの奔走はやがて“本当に大切なもの”への気づきへと変わっていく。あなたはこの特急列車に乗る準備、できていますか?
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映画『婚前特急』の制作裏話には、監督・前田弘二の初長編作品としての挑戦や、脚本家の実体験が反映されたユニークな背景があります。
『婚前特急』(2011年)は、前田弘二監督の劇場映画デビュー作であり、彼のキャリアにとって大きな転機となった作品です。監督はもともと美容師として働いていた異色の経歴を持ち、映画館でアルバイトをしながら独学で映画制作を始めた人物。そんな彼が初めて商業映画に挑んだのがこの作品でした 。
制作の舞台裏エピソード:
* 脚本の着想は実体験から?
脚本を担当した高田亮氏は、実際に「彼氏の一人」という立場を経験したことがあり、その体験が物語のベースになったとされています。最初は“7人の彼氏”という設定だったものの、「さすがに多すぎる」として5人に減らされたそうです 。
* キャスティングは当て書きではない
登場人物たちはそれぞれ個性的で“はまり役”に見えますが、監督によると脚本段階での当て書きではなく、オーディションや話し合いを通じて決定されたとのこと 。
* 主演・吉高由里子への演出は厳しく
チエ役の吉高由里子には、空回りするキャラクターをリアルに演じてもらうため、監督はかなり厳しく演出したと語っています。彼女の奔放さと繊細さのバランスが作品の魅力を支えています 。
* 震災の影響も
2011年3月11日の東日本大震災の影響で、インタビューや舞台挨拶のスケジュールが変更されるなど、公開直前のプロモーションにも困難があったようです
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映画『婚前特急』(2011)——恋愛は、練習してから本番へ
主演は吉高由里子。
彼女がスクリーンに現れるだけで、空気が変わる。
軽やかで奔放、でもどこか繊細。そんな彼女の存在感が、この映画を唯一無二のものにしている。
吉高が演じるのは池下チエ、24歳の美人OL。
しかも、同時に5人の男性と交際中という、恋愛界の“マルチタスク女王”だ。
「人生、限られた時間を有効に使わなきゃ。
いろんな人と、いろんな体験をしたほうが絶対トク!」
チエはそう言い放ち、恋愛を“経験値”として積み上げていく。
彼女にとって恋は、人生の練習台。
場数を踏めば踏むほど、失敗も含めて自分の糧になる。
そしていつか、本命の相手が現れたとき——
そのときこそ、これまでの恋愛が“本番”のための準備だったと気づくのだ。
この発想、潔くて痛快。
でも、そんなチエも完璧じゃない。
彼女は恋愛の“効率”を求めながらも、どこかで迷い、揺れている。
その揺らぎが、映画にリアリティと深みを与えている。
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チエの恋愛査定表——5人の男たち、それぞれの“乗車理由”
チエが同時進行で付き合っている5人の男性たちは、まるで人生の各駅停車。
それぞれにメリットとデメリットがあり、彼女は冷静に“査定”を行う。
その視点がまた、ユニークで面白い。
① 西尾みのる(33歳・食品会社営業部長/バツイチ)
* メリット:同じ営業職で話が合う。経験豊富で、愚痴にも的確なアドバイス。
* デメリット:前妻との間に子供あり。酔うと説教じみてくる。
→ 安定感はあるが、過去の荷物が重い。
② 出口道男(29歳・バイクショップ経営/独身)
* メリット:時間に余裕があり、自由なライフスタイル。
* デメリット:趣味が多すぎて付き合いきれない。飽きっぽく、熱しやすく冷めやすい。
→ 一緒にいて楽しいが、将来のビジョンが見えづらい。
③ 三宅正良(54歳・美容室オーナー/既婚)
* メリット:研修と称して旅行に連れて行ってくれる。
* デメリット:妻の存在を言い訳に約束を破る。
→ 大人の余裕はあるが、倫理的にアウト。
④ 野村健二(19歳・大学生)
* メリット:若くてかわいい。新鮮な刺激。
* デメリット:自己中心的な面もあり、年齢差が将来的に気になる。
→ 恋の“青春”を味わえるが、長期戦には不安。
⑤ 田無タクミ(26歳・パン工場勤務/独身)
* メリット:楽しい(らしい)。ギャグ連発。
* デメリット:盗癖あり、風呂なし、鼻血、将来性ゼロ。話が合わない。友達いない。
→ なぜ付き合っているのか謎。ある意味“練習台”の極致。
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恋愛は、乗り換え自由の特急列車?
『婚前特急』は、恋愛を“乗り物”にたとえたユニークな作品だ。
チエは自分の人生を走らせながら、途中駅でさまざまな男性と出会い、乗り換えを繰り返す。
その過程で、彼女は“本当に大切なもの”に気づいていく。
この映画が面白いのは、恋愛を“効率”や“損得”で語りながらも、
最後には“感情”や“誠実さ”が勝るという逆転の美学があること。
吉高由里子の軽やかな演技が、それを押しつけがましくなく、自然に伝えてくれる。
恋愛に迷っている人も、恋に疲れている人も、
この映画を観れば、少しだけ前向きになれるかもしれない。
人生は特急列車。乗り遅れたって、次の駅でまた誰かに出会えるのだから。
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この時点で、ぼくがもし女性なら、
結婚するとしたら2番の出口だと思う。
結婚して何年かすると、亭主は元気で留守がいいとなる。
2番の出口が一番適合しているように思える。
経済的には一番安定している。
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チエの無二の親友が結婚する。
突然のできちゃった結婚である。
親友・浜口トシコの幸せそうな姿を見て、チエの心にふと結婚願望が芽生える。
しかしその願望は、祝福と同時に焦燥でもあった。
恋愛をゲームのように軽やかに楽しんできた彼女にとって、「結婚」は未知の領域である。
トシコはそんなチエに笑いながら言う。
「査定の低い順番に別れていって、最後の一人と結婚すれば?」
なんて無茶な理屈だ、とチエは思う。
だいたい、できちゃった結婚なんて、トシコらしい行き当たりばったりの結果だ。
それでも、迷うチエには妙に響いてしまう。
別れることが、交際をはじめるより、どんなに大変なことか。
それは、誰もが経験して初めてわかる。
ぼくが十七から二十歳の頃、まさに恋愛修行の真っ只中にいた。
恋に夢中になるよりも、別れ方の方がずっと難しい。
どうすれば相手を傷つけずに去ることができるのか――そればかり考えていた。
その頃、ポール・サイモンの歌「恋人と別れる50の方法(50 Ways to Leave Your Lover)」をよく聴いていた。
「恋人と別れる方法を50も考えている。とても愛した彼女を傷つけたくないから。」
そんなフレーズが、若かった自分には痛いほど刺さった。
恋愛映画のエッセイで、今も心に残っている言葉がある。
――「別れるときほど、優しさが必要である。」
『婚前特急』は、その“優しさ”を持てないまま駆け抜けていくチエの物語だ。
スピードの中で恋を試し、別れを繰り返す。
でも、最後に彼女が気づくのは、誰かを選ぶことよりも、
別れを丁寧に終わらせることのほうが、ずっと大人の恋なのだということ。
愛を測る物差しは、出会いの数ではなく、別れの質である。
この映画を観たあと、そう思わずにはいられなかった。
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ぼくがチエに助言するなら――
迷うな、と思う。
一番気になる男性、査定の高そうな人からアプローチしろ、と。
恋の世界では、順番を間違えると取り返しがつかない。
プロポーズしてくれるように持っていくべきだ。
査定の低い方から順にアプローチしていたら、恋のタイマーは待ってくれない。
部屋探しで、ほんの一分、二分の差で良い物件を逃すように。
恋も時間との勝負だ。
“良い男”ほど早く埋まってしまう。
並べられたごちそうの中で、最後に一番好きなものを取っておく気持ちはわかる。
でも、料理は冷めてしまう。
恋もまた、温度がすべてだ。
チエはそんな理屈を無視して、一番査定の低い田無から別れようとする。
映画では、二人の出会いの場面が印象的だ。
田無は抜け目のない男である。
男の場合、イケメンがもてているとは限らない。
むしろ、男は顔ではなく「頭の使い方」で決まる。
チエから“メリット=楽”と査定された田無は、それだけで相当な知恵者だ。
普通、男は女性の前ではヨロイを着て、気取って、格好をつける。
相手を「楽だ」と思わせるのは、実は相当な腕前なのだ。
だが田無はその才能を、恋愛の技術に使いすぎた。
お金をかけず、無料で女性と関係を持ち、
飲み屋街で泥酔した女性を見つけては介抱のふりをしてナンパする。
その中の一人がチエだった。
彼はチエを送って、そのまま部屋に上がり込み、
コトを済ませ、彼女のCDを勝手に持ち出し、
冷蔵庫から食材を取り出してチャーハンを作る。
風呂代わりに彼女の部屋へ通い、
用を済ませ、飯を食い、デートは散歩だけ――
まるで田無の方が居候の恋人のようである。
それでもチエが完全に嫌いになれないのは、
彼のずるさの中に、奇妙な誠実さがあるからだ。
恋をテクニックとして生きる男に、チエはなぜか惹かれてしまう。
その危うさが、この映画の妙味でもある。
恋愛のテクニックには、
相手のプライドや所有心を刺激して、気を引く作戦がある。
プライドを傷つけて振り向かせる。
ライバルを登場させて、所有欲を煽る。
フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を思い出す。
父の再婚を邪魔するため、娘セシルは父の若い恋人エルザに別の男をくっつける。
父はエルザを手放すはずだったのに、
若い男に奪われそうになると、嫉妬と所有心が燃え上がり、
ついには密会を重ねるようになる。
そして、その密会が破滅を呼ぶ。
サガンの描いたのは、愛という名の「所有」の悲劇だ。
『婚前特急』のチエもまた、恋を査定表で測ろうとしながら、
いつしか誰かを「所有したい」と願ってしまう。
恋は理屈ではなく、所有と放棄の間でゆらぐ感情なのだ。
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「婚前特急」のチエは、
査定の一番低い男・田無に別れを告げる。
「私と別れてくれない?」
「えっ?」
「もう別れよう」
「なんで?」
「もう決めたから。ごめんね」
「なんで? 俺たち付き合ってないじゃん?」
――その一言にチエは固まる。
「付き合ってないんだから、別れるなんてありえない。
今まで通り、カラダだけは続けようよ。ね」
そう言い放って、笑顔で職場に戻る田無。
思いもしない展開に、チエは立ち尽くす。
この瞬間、彼女のプライドは見事に打ち砕かれる。
チエは美人であることに絶対の自信を持ち、
男にモテても、男にフラれたことがない。
そんな彼女が初めて味わう敗北だった。
チエは思う。――田無に、好きだと言わせたい。
その一心が、彼女を突き動かす。
恋ではなく、プライドの復讐。
そのスピードが、「婚前特急」というタイトルに重なる。
愛よりも先に走り出したプライドが、特急列車のように止まらない。
ここから物語は、古き良きスクリューボール・コメディの香りを漂わせていく。
スクリューボールとは、野球の投手が投げる変化球。
打者の手元で思いも寄らぬ方向に曲がる。
恋の行方もまた、まっすぐには進まない。
このジャンルの醍醐味は、
恋の復讐が思いがけない展開を生み、
最後には観客さえも騙されることにある。
例えば、プレストン・スタージェス監督の名作『レディ・イヴ』。
詐欺師の女が、だまし、愛し、捨てられ、
復讐のために別人「レディ・イヴ」として男の前に再登場する。
男はまんまと再び恋に落ち、結婚するが、
新婚旅行で女の正体を知り、絶望して離婚する。
だが、すべてを失った後で女は気づくのだ。
――あれは復讐じゃなくて、本物の恋だった、と。
『婚前特急』もまた、まっすぐな恋ではなく、
プライドとリベンジが引き起こす“恋のスクリュー”を描く。
愛の変化球がどこへ落ちていくのか、
観客はハラハラしながら見守る。
もうひとつの名作『赤ちゃん教育(Bringing Up Baby)』のように、
理屈っぽい男女が出会い、勘違いとハプニングの連続の中で、
いつしか恋が滑り込んでくる。
恋とは、計算も査定も超えたところで転がり込むものなのだ。
チエの恋も、最初は「恋の査定」だった。
しかし田無という変化球の存在が、
彼女の中のプライドと愛の境界線をぐにゃりと曲げていく。
そこにこそ、この映画の面白さがある。
つまり――『婚前特急』は、現代のスクリューボール・コメディである。
恋とプライド、復讐と自己発見、
そして“思いも寄らない脱線”。
まっすぐ走るだけが愛の道じゃない。
むしろ、脱線して初めて本物の恋にたどり着くのだ。
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素晴らしい展開です。ここでは映画『婚前特急』の終盤のドタバタと心理戦を、スクリューボール・コメディ的な構造で分析しながら、チエと田無の関係を「恋愛の合理性と非合理のあわい」に置いて語る形でふくらませました。
笑いの裏に、現代的な“愛の不条理”が浮かび上がるように仕上げています。
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チエは、田無へのリベンジを開始する。
彼にもう一度、自分を意識させ、苦しめたい――その一心だった。
しかし田無は、パン屋の社長の娘・ミカに片想い中で、
しかもチエに“恋のキューピット役”を頼んでくる。
屈辱以外のなにものでもない。
だがチエは笑顔を作り、内心の炎を押し隠して言う。
「うん、いいよ。手伝ってあげる」
もちろん、その“手伝い”は破壊工作だ。
デタラメな恋愛アドバイスを与え、田無の恋をぶち壊そうとする。
だが、皮肉にもそれが功を奏し、
田無とミカの仲はあれよあれよと進展してしまう。
そして、二人はチエを招いてホームパーティーを開くという。
これがまた、恋のスクリューがねじれる瞬間だ。
チエは田無を嫉妬させるため、
査定一番の男・西尾を同伴して登場する。
ところが、場の空気は予想外の方向へ曲がる。
田無はチエと西尾の目の前で、
ミカにプロポーズをしてしまうのだ。
チエの中で何かが弾けた。
衝動的に、ミカの目の前で田無にキスをして逃げ出してしまう。
この驚くべき行動をどう説明すればいいのか。
1.田無とミカの仲を混乱させたい、恋の邪魔をしたい。
2.田無は私のものよ――。
どちらも正しい。
どちらも間違っている。
理屈ではない。
これはプライドでもなく、恋でもなく、
もっと原始的な、所有欲と混乱の衝動である。
求婚されたミカの前でのキス。
その後、田無はチエを追いかける。
追う理由は明快ではない。
――ミカに言い訳ができない。
――西尾にチエを奪われたくない。
――もしかして、チエは俺に惚れてる?
すべてが入り混じる。
男の中で、恋と混乱は紙一重だ。
その後も、二人はケンカを続ける。
愛し合うよりも、罵り合う時間のほうが長い。
「好きだ~!」
田無が叫ぶ。
チエは反射的に叫び返す。
「5マタ中で一番順位の低いあんたが何いってんのよっ!」
「僕、がんばるよ! チエちゃんの一番になれるようにがんばる!」
その瞬間、二人は押し倒れ、またも“合体”してしまう。
恋は理屈ではなく、肉体の記憶で続いているのだ。
人が恋する理由は、他人には理解できない。
チエと田無を結びつけているのは、
言葉ではなく“体温”だ。
1.カラダの関係が、ずっと続いているのが一番。
2.「楽」でいられるのが一番。
結婚査定では最低の男が、
婚約者との安定を捨ててまでチエを選ぶ。
理由はシンプルすぎて、誰も信じたくない。
――一緒にいると、楽だから。
恋愛を効率や条件で測ろうとしたチエが、
最終的に選んだのは「一番楽な男」だった。
だが、それは同時に「最も素の自分でいられる相手」でもある。
『婚前特急』は、恋愛の“査定システム”を軽やかに笑い飛ばしながら、
その奥にある“人間の不合理”を描き出している。
恋は条件ではなく、無意識の選択だ。
理屈では捨てるはずの男を、なぜか捨てられない――
そこに人間の可笑しさと愛しさがある。
この結婚がうまくいくのかどうか。
それは、映画でもはっきりとは語られない。
ただ、チエの特急列車はようやく停車した。
その停車駅が「幸せ行き」なのか「また恋の乗り換え」なのか、
それは観客それぞれの恋愛観に委ねられている。
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恋の順位表と文化の違い
――『婚前特急』に見る日本型恋愛観とアメリカ型恋愛観――
『婚前特急』のチエは、恋人候補を「査定」し、下位から順に別れていく。
これは一見、ドライで合理的な恋愛ゲームのように見えるが、よく見ると日本的な恋愛観を巧みに風刺している。
チエの恋は「下位から上位へ」と進む階段のような構造を持っているのだ。
日本人は、何事にも「下から上へ」と進む物語を好む。
そこには「努力すれば報われる」という儒教的な倫理観と、職人文化に根ざした上昇志向がある。
恋愛もまた、最初は未熟でも、関係を育ててゆくことで“上”に至るという考え方が自然だ。
恋愛のスタートがどんなに不格好でも、「最後に勝つのは努力した者」という希望がある。
だから、チエが「査定の一番低い田無」から物語を始めるのも、日本的な“恋の修行譚”として成立する。
一方、アメリカの恋愛映画では、発想が逆である。
彼らは常に「トップ」を基準にして世界を見る。
最初に理想の相手がいて、そこから現実のギャップを測る。
恋も仕事も、「No.1からどれだけ離れているか」で判断するのがアメリカ的な価値観だ。
だからハリウッドのラブコメでは、ヒロインが「完璧な彼」を求め、そこから“下位”へ落ちていく過程で、
本当に大切なものに気づく、という構図が多い。
これはまさに、上位から下位へと進む「下降型ロマンス」と言える。
つまり、日本人の恋愛観は成長物語であり、
アメリカ人の恋愛観は発見物語なのだ。
チエの恋の査定リストは、単なるギャグではなく、
「日本人は下位から上位へ」「アメリカ人は上位から下位へ」という文化的な価値の方向を可視化している。
『婚前特急』は、そんな価値観の差を意識せずとも感じさせる、見事なスクリューボール・コメディだ。
チエの恋は、査定表を越えて暴走し、計算不能の“脱線”へと突っ込む。
だが、その混乱の中にこそ、恋愛の本質――順位では測れない心の動き――がある。
恋の特急は、目的地を決めて走るうちは面白くない。
予想外の停車と、予定外の乗り換えこそが、人を成長させる。
そして気づけば、チエの車窓には、田無の笑顔が映っている。
“最下位”の男が、最上位に昇格する――それはまさに、日本人の夢見る恋の軌道である。
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「恋愛映画の常道、目の前にいるのに気づかない『好きな人』」「灯台下暗し」
「婚前特急」も同じように、恋人と思っていないセフレが本当の恋人だった。そんなふうに感じました。
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恋愛映画の常道:最も近くて遠い距離
恋愛映画の古典的なあらすじには、必ずと言っていいほど、ある種の「お約束」が存在します。その中でも、観客を最も 「ああ、もう!」と悶絶させる常道こそが、「好きな人は、実は最初から一番近くにいたのに、主人公はそれに全く気づかない」 という展開ではないでしょうか。
盲目の主人公と「名脇役」の存在
物語の序盤、主人公はキラキラとした「運命の相手」(多くの場合、非現実的に美しく、手の届かない存在)を追いかけ、ドタバタと奮闘します。その過程で、彼/彼女のそばには必ず、愚痴を聞き、困難な時には手を差し伸べ、ひたむきに応援してくれる存在がいます。親友、幼馴染、職場の同僚。つまり、 最高の「名脇役」 です。
観客は、主人公がその名脇役と交わす何気ない会話や、ふとした瞬間に漏れる優しい眼差しから、真実を見抜いています。私たちは心の中で叫びます。「違う、違う!その人じゃない!運命の人はあなたの目の前で、毎日あなたのコーヒーを淹れているじゃない!」と。この観客だけが知っている「真実」と、主人公の「無知」との間に生まれるタイムラグこそが、この常道の最も甘美な部分です。
「好き」の正体が友情の衣を脱ぐ時
なぜ、主人公は目の前の好意に気づかないのでしょうか?それは、彼/彼女にとってその存在があまりにも日常の一部になりすぎてしまっているからです。親愛の情、信頼感、安心感といった、厚い「友情」の衣に包まれすぎて、「恋」という特別なラベルを貼ることを意識的に拒否しているのかもしれません。
そして、必ず物語はクライマックスへ向かい、主人公が追い求めていた「運命の相手」が、実は主人公が望むものではなかったと悟る瞬間が訪れます。失意の中、ふと振り返った時、いつもそこにいてくれた名脇役が、自分のもとを去ろうとしている——。ここでようやく、主人公は、その 「いつもの存在」がなくなることの恐ろしさ 、そして「好き」という感情の正体に気づくのです。
結論:探しものは「手の届く場所」にこそ
恋愛映画におけるこの「目の前の好きな人に気づかない」という常道は、私たちに一つの真実を教えてくれます。それは、 真の幸福や運命の相手は、遠い理想郷や非日常の中にいるのではなく、既に私たちの日常、最も手の届く場所に、「いつもの顔」 をして佇んでいることが多いということです。
主人公が最後の瞬間に「きみだったのか!」と気づく時、それは映画のハッピーエンドであると同時に、観客自身の心に巣食う「灯台下暗し」の幻想 からの解放でもあります。




