オードリー・ヘップバーンは歌えない 私の死体を越えていきなさい!
オードリー・ヘップバーンは歌えない
私の死体を越えていきなさい!
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序章
私の死体を越えていきなさい!
オードリー・ヘップバーンは『ティファニーで朝食を』の中で、ギターを片手に「ムーン・リバー」をそっと口ずさむ。
その儚げで澄んだ声は、まるで彼女の内面を映すように繊細で、観る者の心を静かに揺らす。だが不思議なことに、あの名場面で聴こえる歌声を、ハリウッドは「歌手」としての彼女の実力とは認めていなかった。
ヘップバーンは歌っていた。だが、その歌声の多くは、撮影後に別の歌手によって吹き替えられてしまう。
『マイ・フェア・レディ』でも、『パリの恋人』でも、彼女が心をこめて歌った声は、完成版ではほとんど残されていない。
唯一「ムーン・リバー」だけが、彼女自身の声としてフィルムの中にかすかに刻まれているのだが、それさえもレコード化はされなかった。
ヘップバーンはそのことが残念で言った。
「私の死体を越えていきなさい!」
なぜ、マリリン・モンローは歌手としてアルバムを出し、音楽的にも評価されたのに、オードリー・ヘップバーンは“歌えない女優”とされたのか。
同じ時代、同じハリウッドの光の中で、二人の女神の扱いはあまりにも対照的だった。
これは、その小さな謎――そして「声」をめぐるもうひとつのハリウッド物語を語る序章である。
『ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany’s)』の主題歌「ムーン・リバー(Moon River)」は、映画史に残る名曲であるにもかかわらず、当初はレコードとして発売されなかったという。
背景:映画のために作られた“限定曲”
作曲はヘンリー・マンシーニ、作詞はジョニー・マーサー。
この曲は、オードリー・ヘプバーン演じるホリー・ゴライトリーが、アパートの窓辺でギターを弾きながら静かに歌うために作られました。
つまり、「ムーン・リバー」は映画のシーン専用に作られた劇中歌であり、当初から“商業シングル”として売り出す計画がなかったのです。
マンシーニ自身も後年語っています:
「これはオードリーのために作った子守唄のような曲だった。
彼女の声の限界を考えて、音域を広げずに、まるで囁くように書いた。」
オードリーの声で録音された唯一のバージョン
映画内の“あの歌声”は、オードリー本人の歌唱です。
プロの歌手ではなく、あくまで“役としてのホリー”が歌うことを想定していたため、
オードリーの歌唱をレコードとして発売する案は、当時のパラマウント側で見送られました。
理由は簡単で、
「彼女は女優であり、歌手ではない」
という判断だったのです。
そのため、映画サウンドトラックにはオードリーの歌唱部分は収録されず、
代わりにヘンリー・マンシーニのインストゥルメンタル版だけが収められました。
“幻のボーカル版”の誕生
のちに、マンシーニ自身がこの曲をフル・オーケストラ編成で再録音し、
歌手アンディ・ウィリアムスが歌ったバージョンがリリースされます。
これが世界的な大ヒットとなり、グラミー賞を受賞しました。
つまり、
映画の中で歌っているのはオードリー本人(非売品)
レコード化されてヒットしたのはアンディ・ウィリアムス版
という二段構えの運命を辿ったのです。
オードリーの抵抗とエピソード
興味深いのは、映画の編集段階で一部のプロデューサーが
「ムーン・リバーを削除しよう」と提案した時、
オードリーが怒りを露わにして言ったとされる有名な一言です。
“Over my dead body!”(私の死体を越えていきなさい!)
この一言で、曲はそのまま残されました。
その結果、「ムーン・リバー」は映画の象徴となり、
オードリーの繊細な声とともに永遠の名場面として語り継がれることになります。
ハリウッドの吹き替え文化
オードリー・ヘップバーンが活躍した1950〜60年代のハリウッドは、すでに「完成された夢の工場」だった。
美しさ、声、表情、衣装、そのすべてが完璧に計算され、観客の前に届けられる。
しかしその「完璧」の裏で、女優たちの“声”はしばしば奪われていた。
映画制作の現場では、俳優本人の歌声が「映画的にふさわしくない」と判断されると、スタジオは即座に吹き替え歌手を用意した。
リパブリック社やMGM、ワーナーなどの大手スタジオは、専属の歌手を抱えており、彼女たちは名もなくスクリーンの裏で歌った。
その最も有名な存在が、マーニ・ニクソンである。
彼女は『王様と私』のデボラ・カー、『ウエスト・サイド物語』のナタリー・ウッド、そして『マイ・フェア・レディ』のオードリー・ヘップバーンまで、数々の名女優の歌声を代わりに務めた。
つまり、銀幕で歌っているのはオードリーではなく、別の誰か。
だが観客はそのことを知らないまま、彼女たちの「歌」に涙する。
それが、当時のハリウッドにおける“吹き替え文化”の現実だった。
この慣習には、スタジオの論理があった。
映画は商品であり、ミュージカルは何百万ドルもの制作費がかかる。
わずかな音程のズレ、感情の揺らぎが興行に影響すると考えられた時代。
だからこそ、スタジオは俳優本人の個性よりも、「完璧なサウンドトラック」を優先した。
しかし、その完璧さの代償として失われたのが、俳優自身の声の温度だった。
オードリーの「ムーン・リバー」が人々の胸を打つのは、まさにその“未完成の声”ゆえだろう。
ハリウッドが整音しきれなかった、わずかな震えと息遣い――
そこにだけ、彼女という存在の真実が宿っていた。
マリリン・モンローはなぜ吹き替えられなかったのか
オードリー・ヘップバーンが「完璧な映像美と吹き替えの声」で理想化された女神なら、
マリリン・モンローは「生身の声と感情」で魅せる現実の女神だった。
モンローの歌声は、決して技巧的ではない。
音域は狭く、発声もやわらかく、どこか子どもっぽい。
だがその声には、彼女自身の孤独や甘え、そして危うい色気が宿っていた。
つまり、「あの声そのもの」が、モンローという存在の一部だったのだ。
ハリウッドのスタジオも、それをよく理解していた。
20世紀フォックスは彼女の歌を「演技の延長」として評価し、技術的な欠点よりも“感情の真実”を優先した。
その結果、彼女は『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』などで、自らの声で歌い続けた。
代表曲「Diamonds Are a Girl’s Best Friend」は、その象徴だ。
マリリンの歌は、完璧ではないが“唯一無二”だった。
あの少しかすれた声が、観客にとっては彼女の体温そのものだった。
もし吹き替えられていたら、彼女のイメージは半分も伝わらなかっただろう。
一方で、オードリー・ヘップバーンの場合、スタジオは“清楚で理想的な女性像”を守ることを重視した。
彼女の歌声がわずかに不安定で、息が漏れるような音を立てるだけで、「品格が損なわれる」と判断されたのだ。
つまり、マリリンは“声がキャラクターを作る”女優であり、オードリーは“映像がキャラクターを作る”女優だった。
その違いが、吹き替えの有無を分けたと言える。
もうひとつ、時代の風潮も大きい。
1950年代のハリウッドは、セックスシンボルを“声の個性”で売り出す流れにあった。
エルヴィス・プレスリーの登場や、ジャズの浸透もあり、「個性的な声=セクシー」とされたのだ。
その流れの中で、モンローの甘いウィスパーボイスは時代の象徴となり、誰も手を加えることができなかった。
言い換えれば、マリリン・モンローは「吹き替え不可能な女優」だったのだ。
彼女の歌声を奪えば、それはもうマリリンではなくなる。
だからこそ、ハリウッドはあの少し拙く、しかし心に残る声を、そっくりそのままフィルムに刻んだのである。
消された歌声 ― 『パリの恋人』の真実
オードリー・ヘップバーンが映画の中で初めて歌ったのは、『ローマの休日』(1953)ではなかった。
あの作品で彼女は笑い、泣き、自由を求めたが、歌うことはなかった。
彼女がスクリーンで歌声を披露するのは、それから4年後――1957年、フレッド・アステアと共演したミュージカル映画『パリの恋人』でのことだった。
『パリの恋人』は、当時のハリウッドにとって一大プロジェクトだった。
撮影の舞台はパリ、音楽はガーシュウィン兄弟の名曲群。
そして共演者は、伝説的ダンサー、フレッド・アステア。
そんな華やかな環境の中で、オードリーはついに“歌う女優”として挑戦したのだ。
劇中、彼女が歌うソロ・ナンバー「How Long Has This Been Going On?」は、恋の始まりに揺れる女性の心を静かに描いたバラード。
彼女の声は、プロの歌手とは異なる――柔らかく、少し頼りなく、それでいて心の奥に触れるような温度を持っていた。
撮影現場でその歌を聴いたスタッフは口を揃えて「まるで詩を朗読するようだ」と称賛したという。
しかし、ニューヨークでのプレミア公開時、驚くべきことが起こった。
サウンドトラックから、オードリーの歌声が削除されたのだ。
スタジオ側の判断で、彼女の歌は別録音に差し替えられ、レコードにも残されなかった。
理由は明確には語られていない。
だが当時のハリウッドには、「完璧でなければならない」という強迫観念があった。
オードリーの声はあまりに繊細で、力強さや安定感に欠ける――そう見なされたのだろう。
その代わりに、彼女の映像は残されたまま、歌声だけが他人のものになった。
不思議なことに、観客はそれを知らずに涙した。
まるでオードリー自身が歌っているかのように感じたからだ。
それこそが、ハリウッドの“夢”の力であり、同時に彼女が抱え続けた“痛み”でもあった。
だが、この一件でオードリーは屈しなかった。
むしろ「自分の声で伝えたい」という思いを胸に秘め、後の『ティファニーで朝食を』で再び歌うことになる。
それが、あの「ムーン・リバー」だった――。
王女が生まれた日 ― 『ローマの休日』への道
オードリー・ヘップバーンがハリウッドにたどり着くまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
ロンドンの演劇学校でダンスを学んだ彼女は、やがて映画界に入り、イギリスでいくつかの小さな役を演じた。
『笑う水兵』(1948)や『夢をあなたに』(1951)などでの出演はほんの端役だったが、
その瑞々しい存在感は、早くも関係者の間で噂になっていた。
転機は、ブロードウェイの舞台『ジジ』(1951)で訪れる。
この作品は、当時アメリカの劇作家コレット原作をもとにした新作ミュージカルで、主役を誰にするかで難航していた。
そんな折、パラマウント英国支社の制作部長が、「一度だけでもいい、彼女を見てほしい」と推薦したのがオードリーだった。
ニューヨークでのオーディション当日、原作者コレット本人が舞台袖にいた。
そしてヘップバーンの立ち姿を見た瞬間、彼女はこう言ったと伝えられている。
「ああ、まるで私のジジそのものだわ!」
その一言で主役は決まり、オードリーはブロードウェイの舞台で一躍脚光を浴びた。
観客は彼女の動きや表情、そして言葉の端々に“育ちの良さ”と“素朴さ”を同時に感じ取り、瞬く間に評判が広がった。
だが、さらに大きな奇跡が彼女を待っていた。
舞台の成功から間もなく、パラマウント英国の推薦で『ローマの休日』の王女アン役のスクリーンテストを受けることになる。
監督ウィリアム・ワイラーは、当初この役に数十名の女優を検討していた。
だが、ヘップバーンのテスト映像を見た瞬間、彼は息をのんだ。
カメラが回っていないと思っていた彼女が、リラックスして笑ったり、台詞をつぶやいたりする姿――
それがフィルムに偶然残っていたのだ。
その映像を見たワイラーは、静かにこう言ったという。
「彼女は演技していない。生きているんだ。」
そして彼は即断した。
「この若い娘が王女をやる。これ以上の人はいない。」
その後の歴史は誰もが知る通りだ。
『ローマの休日』(1953)は世界中で大ヒットを記録し、
オードリー・ヘップバーンはアカデミー主演女優賞を受賞。
わずか数年前まで名もなき端役に過ぎなかった少女が、一夜にしてハリウッドの象徴となった。
当時、撮影を担当した名カメラマンのヘンリー・クーパーは、後年こう語っている。
「彼女の顔を正面から映すと、光が自分で方向を決めて彼女を照らすようだった。
あんな被写体は、もう二度と現れない。」
こうして、“オードリー・ヘップバーンという奇跡”は生まれた。
それは単なる幸運ではなく、
スクリーンがまだ“本物の輝き”を探していた最後の時代の、神話のような瞬間だった。
ウィリアム・ホールデンとの恋 ― 永遠になれなかった愛
オードリー・ヘップバーンがウィリアム・ホールデンと出会ったのは、1954年の映画『麗しのサブリナ(Sabrina)』の撮影現場だった。
すでにハリウッドで人気俳優だったホールデンは、このとき36歳。
一方、ヘップバーンは『ローマの休日』で世界的スターとなったばかりの25歳。
彼女は撮影初日からプロフェッショナルで、控えめで、そして驚くほど純粋だったという。
監督のビリー・ワイルダーは後年こう語っている。
「ウィリアムは最初、彼女を“上品すぎる新人”としか見ていなかった。
だが数週間も経つと、まるで少年のように彼女に夢中になっていたよ。」
撮影の合間、二人はよくセットの外で談笑し、リハーサル後には共に食事をした。
ヘップバーンはホールデンのユーモアと知性に惹かれ、ホールデンは彼女の真っ直ぐさに心を奪われていった。
当時、彼はすでに結婚していたが、夫婦仲は冷えており、撮影中には「オードリーだけが自分を本気で見てくれる」と周囲に漏らしていたという。
やがて二人の関係は、ハリウッドでも公然の秘密となった。
ワイルダー監督は回想録の中でこう述べている。
「私の映画がラブストーリーで助かったよ。
二人は本当に恋をしていた。
あの熱をそのままカメラに閉じ込めることができた。」
しかし、この恋には決定的な障壁があった。
オードリーは家庭を望んでおり、子どもを持つことを夢見ていた。
ところが、ホールデンは過去の手術で子どもを持つことができなくなっていた。
それを知ったオードリーは深く悩み、ついに別れを決意する。
友人で女優のドリー・メルザックはこう語っている。
「彼女は“愛している。でも未来がないの”と言った。
涙をこらえていたけれど、その声は震えていたわ。」
その後、オードリーはメル・ファーラーと結婚し、息子ショーンを授かる。
ホールデンは失意の中で酒に溺れ、次第にキャリアも衰えていった。
だが、彼の心の中からオードリーの存在が消えることはなかった。
1979年、25年ぶりに二人は『ブリンクス大事件』の撮影で再会する。
撮影中、ホールデンはかつてと同じ優しい笑顔で彼女を迎えたが、
その顔には歳月の重みと、拭いきれぬ後悔が刻まれていたという。
ヘップバーンは彼を抱きしめて「また一緒に仕事ができて嬉しいわ」とだけ言った。
関係者によれば、ヘップバーンはその再会のあと、静かに涙を流したという。
「ウィリアムは彼女の初恋ではなかったかもしれない。
でも、彼女の心を最も深く動かした男だった。」
と撮影監督のチャールズ・ラングは語っている。
1981年、ホールデンはロサンゼルスの自宅で事故死した。
その知らせを聞いたオードリーは長い沈黙ののち、ただ一言だけつぶやいた。
「彼はとても優しい人でした。」
それ以上、彼女は何も語らなかった。
だが、その静かな言葉にこそ、25年を超えた愛の余韻が込められていた。
メル・ファーラーとの結婚
オードリー・ヘップバーンがメル・ファーラーと出会ったのは、ブロードウェイの舞台『オンドリの歳月(Ondine)』のリハーサルのときだった。
彼はすでにハリウッドでは知られた俳優・監督・プロデューサーであり、その落ち着いた物腰と知的な雰囲気は、当時まだ若く無垢なオードリーにとって大きな魅力に映った。
メル・ファーラーは1917年、アメリカ・テキサス州の出身。1940年代から50年代にかけて、『逃亡者』『聖衣』などで二枚目俳優として活躍し、同時に舞台やテレビの演出でも才能を発揮した多彩な人物だった。
しかし彼には別の側面もあった。業界では「離婚の王者」として知られ、ヘップバーンと出会う前にすでに三度の結婚と離婚を経験していた。彼との結婚はオードリーにとって初めてのものだったが、メルにとっては四度目だったのである。
1954年9月25日、スイス・ルツェルン近郊の高原リゾート地ブルゲンシュトックで、二人は静かに結婚式を挙げた。
式は華美さを避け、招待客もごく少人数。オードリーは純白のジバンシィのドレスに身を包み、シンプルで気品ある花嫁姿だった。彼女は「私は何よりも家庭を持ちたい。平穏で温かな生活を」と語り、映画の喧騒から離れて、メルとともに静かな人生を望んでいた。
メルは仕事のパートナーとしても彼女を支えようとした。二人は共同で映画を企画し、夫婦で撮影現場に立つこともあった。オードリーが『戦争と平和』(1956)でナターシャを演じた際も、メルがその出演を後押ししたといわれている。
翌年、1956年には待望の息子ショーンが誕生。オードリーは母となり、人生の新たな喜びを見出した。
しかし、幸せな家庭生活は長くは続かなかった。
メルは完璧主義者で、仕事にも家庭にも強い支配欲を持っていた。彼女の衣装や作品選びにまで口を出すことがあり、オードリーは次第に息苦しさを感じていったという。
友人の証言では、「オードリーはいつも穏やかだったが、心の中では自由を求めていた」と語られている。彼女は女優としての自立と母としての役割のはざまで揺れ動き、メルの陰に生きるような日々が続いた。
その一方で、メルの私生活には常に波風があった。彼は結婚と離婚を繰り返し、映画界でも「離婚の王者(the King of Divorces)」と呼ばれるほど。
二人の間には、次第に心の距離が広がっていった。オードリーは家庭を守ろうと努力したが、1960年代半ばには関係の修復が困難となり、ついに1968年、14年間の結婚生活に終止符を打つ。
のちにオードリーは、インタビューでこの結婚をこう振り返っている。
「私は愛されたいと思っていた。でも、同じくらいに、誰かを信じたかったのです。」
それは彼女にとって初めての真実の愛であり、同時に最も痛みを伴った別れでもあった。
メル・ファーラーはその後も俳優・演出家として活動を続けたが、ヘップバーンは一時的に映画界から距離を置き、息子とともにスイスに暮らすようになった。
彼女にとってメルとの日々は、華やかなスターの仮面を脱ぎ捨て、ひとりの女性として「愛とは何か」を模索した時代だったといえるだろう。
オードリー・ヘップバーンは「オジ様好み」
「オードリー・ヘップバーンは、オジ様好みよ」
そう言ったのは、向田邦子さんだった。
男と女の距離の微妙な温度を知り尽くした人の、まさに核心を突くひと言だ。
確かに、ヘップバーンの恋の相手たちは、みな年上の“ベテラン”ばかりだった。
最初の夫、メル・ファーラーとは十二歳差。三度の離婚歴をもつ熟年俳優で、ハリウッドでは「離婚の王者」とまで呼ばれた男だ。
それでもオードリーは彼に惹かれた。メルには父親のような落ち着きと、知的な影があった。
二人は結婚し、長男ショーンを授かる。母になるという夢を叶えた彼女にとって、それは何よりの幸福だった。
だが、その前に、もうひとつの恋があった。
『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデン。こちらも十一歳上の「オジ様」だった。
撮影現場で彼女の瞳を見つめたホールデンは、「世界が止まったようだった」と語っている。
だが、ホールデンは既婚者であり、すでにパイプカットをしていた。
子どもを望んでいたヘップバーンにとって、それはどうしても越えられない現実だった。
やがて彼女はその恋を胸にしまい、現実へと戻っていった。
美人ほど、恋の相手に“経験”を求めるのかもしれない。
吉永小百合さん(金星人マイナス)もそうだ。
彼女が二十八歳のときに結婚したのは、十五歳年上のバツイチの男性だった。
穏やかで、包み込むような成熟した男。どこかヘップバーンの選んだ相手たちに重なる。
恋愛に不慣れな男性は、美人を前にすると舞い上がってしまう。
愛するより、崇拝してしまう。
でも“オジ様”たちは違う。
若い女性を女神のように見上げるのではなく、人生の伴侶として静かに受け止める余裕がある。
精神的にも金銭的にも落ち着いていて、恋を焦らない。
だからこそ、美しい女性は彼らに惹かれるのだろう。
「美人ほど不倫にはまりやすい」と言われるのも、あながち的外れではない。
彼女たちが求めているのは、若さでも情熱でもなく、理解と安らぎ――つまり、父性のような包容なのだ。
既婚男性には、その“静かな包容力”がある。
だから、美人が「素敵」と思う男性の多くが、すでに誰かの夫であるのも、皮肉ではなく、自然の摂理なのかもしれない。
美人は、恋の初心者とは恋をしない。
彼女たちは、恋の“経験者”にしか見えない深さを求めているのだ。
ヘップバーンも、向田邦子も、そして小百合さんも――
みな、愛の中に成熟した影を見ていた。
ティファニーで朝食をの舞台裏
「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany’s)」の裏話を集めてみたら、本当にたくさん面白いものがあります。こういう制作秘話があるからこそ、映画がただのスクリーン上の夢ではなく、「人が作った物語」だということが伝わってくる。以下に、印象的な舞台裏をいくつか語ります。
ティファニーで朝食を ― 舞台裏の逸話たち
「Moon River」が切られそうになった!
この映画で最も有名な曲のひとつ、「Moon River」は、元々スタジオの重役たちから「映画には不要だ」と削除が検討されていたという話があります。(teyxo.com)
ヘップバーン自身も歌うことに自信がなかったため、演技と歌の“歌唱面”はあまり期待されていなかった。しかし、監督のブレイク・エドワーズと作曲家ヘンリー・マンシーニがこの曲の感情的な価値を強く主張し、彼らは諦めなかった。ヘップバーンも、「この歌を削除するなら、私の死体の上を通ってでも!」というような強い言葉で抵抗したと言われています。(SlashFilm)
ジョージ・ペパードとの確執
ポール・ヴァルジャック役を演じたジョージ・ペパードは、撮影現場で「自分が目立ちたい」と思う性質があったのか、演出家エドワーズの指示に従わないことがしばしばあった、という逸話があります。オードリー・ヘップバーンも、彼の「分析過剰」な態度にうんざりした、という噂があります。(Fame10)
オープニング・シーンの苦労
映画冒頭、ホリーがティファニーのショーウィンドーを見上げながらペストリーをかじり、紙コーヒーカップを持って歩くあの印象的なシーン。実は、「デニッシュ(ペイストリー)」をホープバーン本人が“あまり好きじゃなかった”ため、何度も撮り直しになったという話があります。(Fame10)
また、夜遅くのロケーションで人があふれる中で撮影が行われ、騒音や通行人などの環境コントロールが難しかったこと、ライトや装置に近づきすぎたスタッフが感電しかけた事故もあった、という噂も残っています。(showbizwave)
ティファニー本店が日曜日に初めて開店
この映画のために、ティファニー&Co.本店は日曜日に開けたそうです。19世紀以来ずっと閉まっていた日曜日を、撮影スタッフの都合のために例外的に開けた、ということ。そんなふうに店舗側や街の協力がかなり大がかりだったことがわかります。(teyxo.com)
キャット(猫)の名前と役割
ホリーが飼う猫(Cat)は、映画・物語を通して名前をもたない“名無し”の存在です。物語の中で彼女が猫を手放す場面もあり、キャットはホリー自身の孤独や自由を象徴する存在として扱われています。実際、撮影に使われた猫の名前は“Orangey”という訓練猫で、他の作品にも出ていた猫だそうです。(teyxo.com)
衣装とスタイルの“爆発力”
ヘップバーンの黒いリトル・ブラック・ドレス(ゲヴェンシー製)はもはや伝説ですが、本作での衣装デザインは彼女のそれまでの「お姫様」イメージから一歩踏み出したものとして評価されています。特にパーティーシーンでのドレス、ホリーが「カーテン」をドレスにしてしまう衣装(仮装感覚の舞踏会衣装)などは、その創造性と大胆さで名を残しています。(テレグラフ)
脚色の違い:原作と映画でのホリー像の差
トルーマン・カポーティの原作小説では、ホリー・ゴライトリーのキャラクターはもっと複雑で、どこかダークで、孤独と放浪の影が濃い存在として描かれています。映画版ではその部分が幾分柔らかく、ロマンスやミステリー、そして救いを含んだキャラクターとして描き直されており、観客に愛されるヒロイン像に調整されている部分があります。(Spoiler Town)
パーティーシーンの熱気
ホリーのアパートで行われるパーティーシーンは、撮影スタジオで6日間かけて撮影されたと言われています。友人たちをエキストラに起用し、本物の食べ物や飲み物を大量に用意し、リアルな雰囲気を出すために煙やライトの演出にもかなり手をかけたそうです。(teyxo.com)
ヘップバーンの“演技者としての戦い”
ヘップバーンは「自分は歌手ではない」という自己認識が強く、「Moon River」の歌唱も最初は気後れしていたという話があります。しかし、演出家や作曲家、スタッフの説得やサポート、そして彼女自身の役への愛着が、その歌を映画の象徴へと昇華させました。
「Tiffany’s」でのショッピングウィンドーと雑踏の中で撮影
冒頭のティファニー前のシーンでは、夜明け前や早朝のニューヨークが使われ、店のショーウィンドーライティングや街の清掃、交通規制などを含め、多数のスタッフと調整がなされました。通行人の目、雑音、光の角度など、小さなことにもこだわって撮られていて、ホープバーン自身もこのシーンの中で、静かに存在感を出すことを求められたと言われています。(showbizwave)
◆ 1. 原作者カポーティの理想像はマリリンだった
原作『ティファニーで朝食を』(1958)は、作家トルーマン・カポーティの代表作であり、出版当初から大反響を呼びました。
カポーティ自身は、この作品の映画化にあたりマリリン・モンローこそがホリー・ゴライトリーを演じるべきだと強く主張していました。
「ホリーはマリリンそのものだ。
彼女以外に誰が、あの孤独とキラキラした虚栄を演じられる?」
(カポーティの談話より)
ホリー・ゴライトリーは、パーティーを渡り歩き、金持ちの男性に囲まれながらも、心のどこかに純粋な夢を抱く女性。
つまり、「世間に愛されるセクシーな偶像」でありながら、「孤独な少女の心を持つ女性」――
この二面性こそがマリリン・モンローの実像と重なっていたのです。
◆ 2. 映画化決定と“マリリン降板”の経緯
1959年、映画化の話が正式に進むと、製作会社パラマウントは当然のようにマリリンを主演候補にリストアップしました。
しかし――彼女のマネージャーであり、当時の師的存在でもあったポーラ・ストラスバーグが強く反対したのです。
ストラスバーグは、「娼婦まがいの女性を演じるのはマリリンのイメージに傷がつく」と懸念。
すでに『七年目の浮気』『お熱いのがお好き』などで“セックスシンボル”として確立されていたマリリンには、
知的で上品な再出発を望んでいました。
そのため、マリリン本人も悩んだ末にこの役を辞退。
結果、パラマウントは代役を探すことになり――そこで白羽の矢が立ったのがオードリー・ヘップバーンでした。
◆ 3. カポーティの失望と怒り
このキャスティング変更に対し、カポーティは激怒します。
彼は当時のインタビューでこう語りました。
「オードリーは可愛らしすぎる。彼女では“ニューヨークのストリートガール”には見えない。
ホリーはオードリーではなく、マリリンだ。」
実際、原作のホリーはもう少し破天荒で、ナイーブだが肉体的な魅力を持つタイプでした。
一方で、オードリーの持つエレガントで上品な雰囲気は、原作の“危うさ”を薄めてしまったという批評もあります。
しかし、その「品のあるホリー」こそが、映画を“時代を超える名作”にしたのも事実です。
◆ 4. もしマリリンが演じていたら…
想像してみてください。
もしマリリン・モンローがホリーを演じていたら、映画のトーンはもっと退廃的で、現実味のある悲哀が漂う作品になっていたでしょう。
ヘップバーン版はロマンティックで詩的ですが、マリリン版はもっと「欲望と孤独のリアルな物語」になっていた可能性があります。
映画史家の多くはこう語ります。
「ヘップバーンが演じたことで、ホリー・ゴライトリーは“偶像”になった。
だがマリリンが演じていたら、“真実”になっていただろう。」
◆ 5. ヘップバーンによる“再構築されたホリー”
ブレイク・エドワーズ監督は、マリリン不在の中で、ヘップバーンの清楚さと都会的な知性を活かす方向へ脚本を修正しました。
原作ではかなり明示的だった「ホリーの職業(いわゆる高級交際)」の部分はぼかされ、
映画では「自由を求める社交的な女性」として描き直されています。
ヘップバーン自身もこの点を理解し、「ホリーを演じるのは挑戦だった」と後年語っています。
彼女は「純粋な夢と孤独」を繊細に演じ、結果としてホリーは世界中の女性に共感されるキャラクターへと昇華されました。
◆ 6. 結果的に――映画史における奇跡のキャスティング
つまり、『ティファニーで朝食を』は、「失われたマリリン版」と「奇跡的に成功したオードリー版」の間に生まれた作品。
カポーティの理想とは違っても、
オードリー・ヘップバーンという女優が**“孤独な現代女性の象徴”**を世界に刻みつけたことは確かです。
◆ 原作のラスト:ホリーは戻ってこない
トルーマン・カポーティ原作(1958)の小説では、
物語の語り手である“作家志望の青年”が、ホリー・ゴライトリーという女性を回想する形で話が進みます。
物語の終盤、ホリーは麻薬密輸事件に巻き込まれ、
拘留されたのち、ブラジルへ逃れる決意をします。
彼女は猫を捨ててタクシーで去り、青年(語り手)との別れを告げて姿を消すのです。
そして――
その後、語り手のもとには、南米のある村で“彼女らしき女性が見かけられた”という噂だけが届きます。
しかしホリーが本当にそこにいるのかは、誰にもわからない。
「彼女はどこにいても、きっとティファニーのショーウィンドウを探しているだろう」
――そんな余韻を残して、物語は静かに終わります。
つまり原作では、ホリーは誰にも捕まらず、自由のままに消えるのです。
それは“自由”と“孤独”を同時に抱く、カポーティらしい結末でした。
◆ 映画のラスト:愛と再生のハッピーエンド
一方、ブレイク・エドワーズ監督による映画版(1961)は、
この原作の結末を大幅に改変しました。
映画でもホリーは一度、ブラジル行きを決意し、タクシーで去ろうとします。
しかし車内で猫を外に放り出してしまい――その後、
ポール(原作の語り手に相当する男性)がホリーを追いかけてきます。
雨の中、二人は猫を見つけ出し、
そして抱き合ってキスをする――。
「キャットも、君も、もう逃げなくていい」
この“雨の中の抱擁”が映画史に残る名場面となり、
映画はロマンティックな愛の成就として締めくくられます。
◆ なぜ改変されたのか? ― ハリウッド的な「幸福の形」
原作のままでは、あまりに淡く、結末に救いがない。
観客がヘップバーン演じるホリーに感情移入しているぶん、
その“消失”は重すぎる――これが、当時のパラマウント映画の判断でした。
さらに、主演がマリリン・モンローではなく、オードリー・ヘップバーンになったことも大きな理由です。
オードリーの清楚なイメージに合わせ、
「自由な女」ではなく「自由を知り、愛に気づく女」へと描き直されたのです。
映画化脚本を手がけたジョージ・アクセルロッドはこう語っています。
「ホリーを救わなければならなかった。
彼女の孤独をそのまま放置することは、オードリーに対しても失礼だと思った。」
つまり、映画版のホリーは“現代のシンデレラ”として再構築された。
自由と孤独を抱えながらも、最後には愛に救われる――
ハリウッド的な理想の女性像に変えられたのです。
カポーティは、ホリーを永遠に“風のような存在”にしたかった。
だがハリウッドは、観客のために彼女を“救いのあるヒロイン”にした。
この違いが、文学と映画の決定的な分岐点になったのです。
◆ まとめ:ヘップバーンの微笑みが変えた文学
もしマリリン・モンローが演じていたら――
原作に近い、もっと哀しく現実的なラストになっていたでしょう。
しかし、オードリー・ヘップバーンの透明な存在感があったからこそ、
世界は“希望のあるティファニー”を選んだのです。
原作のホリーは風のように消え、
映画のホリーは雨の中で立ち止まった。
その違いが、ハリウッドの魔法だったのです。
「ティファニーで朝食を」は猥褻文学
実は――トルーマン・カポーティの原作小説『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany’s, 1958)は、
当時のアメリカ社会ではかなり“問題作”とされ、
南部の一部の州では「猥褻文学」とみなされて発禁・販売禁止の扱いを受けています。
その背景には、1950年代末のアメリカ社会の道徳観、性表現への検閲、
そしてカポーティ自身の作風が大きく関係していました。
以下、詳しく解説します。
◆ 1. 1950年代アメリカの「善良な道徳」時代
1950年代後半のアメリカは、戦後の繁栄と保守的価値観の頂点にありました。
冷戦下で「家庭」「信仰」「道徳」が強調され、
文学や映画の表現にも“健全さ”が求められていた時代です。
特に南部諸州(アラバマ、ジョージア、ミシシッピなど)は、
宗教的にも保守色が強く、性的な描写や社会的逸脱を描く作品は激しく非難されました。
カポーティの出身地もアラバマ州モンローヴィル。
つまり彼自身、南部文化の厳しい目線を熟知していたのです。
◆ 2. 問題視されたのは「ホリーの職業」
『ティファニーで朝食を』が発表されたとき、
批評家たちの多くはその文体と都会的な感性を称賛しました。
しかし同時に、保守層からは次のような批判が相次ぎました。
「ヒロインが娼婦同然の生活をしている」
「売春を美化している」
「高級売春婦をロマンチックに描くのは不道徳だ」
主人公ホリー・ゴライトリーは、映画では“自由奔放な社交界の女性”として描かれますが、
原作ではもっと露骨に「お金持ちの男性と寝ることで生活する女性」として暗示されています。
彼女はニューヨークの高級アパートに住み、
毎夜のようにパーティーへ出かけ、
“50ドル札をくれる男性”とデートを重ねている。
当時の道徳観では、これが「売春のほのめかし」とされ、
とくに南部の図書館では「教育に悪い」として回収・廃棄・閲覧禁止が行われました。
◆ 3. カポーティの挑発的スタイル
カポーティは、自分の作風が保守層を刺激することを十分承知していました。
彼はニューヨーク社交界の奔放な女性たちを観察し、
彼女たちの生き方を文学的に昇華しただけだと主張しています。
「ホリーは娼婦ではない。
ただ、時代の波に乗って生きる術を知っていただけだ」
――カポーティ(1959年インタビュー)
この発言が逆に火に油を注ぐ結果になりました。
南部の宗教団体は「若者を堕落させる作家」として彼を名指しで非難。
カポーティの出身地アラバマ州の一部の学校では、
『ティファニーで朝食を』が「有害図書」指定されるほどの騒動になりました。
◆ 4. “文学か猥褻か”の論争
当時は『チャタレー夫人の恋人』(ロレンス著)がアメリカで法廷闘争を起こしていた時期でもあり、
「文学的表現」と「猥褻」の境界が社会的論争の的になっていました。
『ティファニーで朝食を』もその波に巻き込まれた一例であり、
文学誌『エスクァイア』などが「都会的風俗小説の新境地」と高く評価する一方で、
地元紙や教育委員会は「性の放縦を描く退廃的な作品」として攻撃しました。
一部の地方では、図書館から撤去されただけでなく、
**書店販売も禁止された(いわばローカル発禁)**という記録も残っています。
◆ 5. カポーティの逆襲:知的エリートたちの擁護
もっとも、この“発禁騒動”がカポーティにとってマイナスになったわけではありません。
むしろニューヨークの文学界や芸術界では、彼の挑発的姿勢が称賛され、
『ティファニーで朝食を』はカポーティの名前を世界に知らしめる出世作となりました。
評論家ノーマン・メイラーは当時こう書いています。
「ホリー・ゴライトリーは、アメリカの魂の自由を体現した女だ。
それを猥褻と呼ぶのは、時代の方が遅れている。」
この“自由と品位”の対立構図こそが、のちの映画化にも影響を与えることになります。
◆ 6. 映画化による「無害化」
こうした原作の性的・社会的な挑発性を受け、
映画版ではブレイク・エドワーズ監督と脚本家ジョージ・アクセルロッドが、
ホリーの設定を大幅にソフト化。
性的暗示や交際相手との金銭関係は削除され、
「自由を夢見る都会の女性」というロマンティックな人物像に再構築されました。
これは当時の検閲制度を意識した結果でもあり、
映画の成功は、原作の“危うさ”を消したからこそ可能だったともいわれています。
結局、『ティファニーで朝食を』は“スキャンダルから生まれた名作”でした。
アメリカ社会の良識が彼女を拒んでも、
時代はホリー・ゴライトリーを“自由の女神”として受け入れていったのです。
「私の歌を、私の映画から取り上げるの?」
映画『マイ・フェア・レディ』の撮影現場で、オードリー・ヘプバーンは自ら歌うつもりで準備を進めていた。
撮影に入るずっと前から、彼女はボイストレーナーをつけ、夜遅くまで発声練習を続けていたという。
「私は役として歌うのだから、完璧でなくても自分の声で表現したい」――そう語っていたヘプバーンにとって、歌も演技の延長線上にあった。
ところが、撮影直前になって彼女は思いもよらぬ知らせを受ける。
パラマウントが、プロの歌手マー二・ニクソンを起用し、彼女の歌声で吹き替える方針を決めていたのだ。
その報せを聞いたヘプバーンは顔をこわばらせ、
「私の歌を、私の映画から取り上げるの?」とつぶやき、
やがて怒りを抑えきれず、セットを後にした。
翌日、冷静さを取り戻した彼女は現場に戻り、スタッフ全員に頭を下げた。
「ひどい態度をとってしまったわ、ごめんなさい」と謝罪した上で、
「でも、できる限り私の声を残してほしい」と静かに訴えたという。
スタジオ側は妥協案として「吹き替えとヘプバーン自身の歌声を併用する」と約束したが、
完成版では彼女の歌のおよそ90パーセントがニクソンの声に差し替えられてしまった。
それでもヘプバーンは撮影を全うし、完璧な演技と気品で観客を魅了した。
のちに彼女は穏やかにこう語っている。
「歌は奪われたかもしれない。でも、私の“イライザ”は奪われなかったの。」
結果として、『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞を席巻する大ヒットとなり、
ヘプバーンのイライザ・ドゥリトル像は永遠に映画史に刻まれた。
嫌われたヘプバーン
『マイ・フェア・レディ』のオードリー・ヘプバーンには、栄光と同時に冷たい視線が注がれていた。
「口パク事件」だけでなく、主演に抜擢されたことそのものが一部の映画関係者や観客の反感を買ってしまったのだ。
もともとこの作品は、ブロードウェイでジュリー・アンドリュースが演じたミュージカル版が大成功を収めていた。
そのため、多くの人々が「映画化されるなら、主演は当然ジュリーだ」と信じて疑わなかった。
だが、ワーナー・ブラザースは興行的な理由から、より世界的な知名度を持つオードリー・ヘプバーンを主役に起用する。
この決定は、演劇界やミュージカル・ファンにとって“裏切り”と映った。
撮影が始まると、吹き替え問題が報じられ、
「やはりオードリーでは歌えなかった」「ジュリーを外した罰だ」といった批判が新聞や雑誌をにぎわせた。
中には、ヘプバーンが自ら希望してジュリーを降板させたという根拠のない噂まで飛び交い、彼女は思わぬ形で“悪者”にされてしまった。
それでも映画『マイ・フェア・レディ』は完成すると、アカデミー賞12部門ノミネート・8部門受賞という快挙を達成した。
だが皮肉にも、主役であるヘプバーンは主演女優賞にすらノミネートされなかった。
その年、主演女優賞を手にしたのは――舞台版で“外された”ジュリー・アンドリュース。
彼女の映画デビュー作『メリー・ポピンズ』での受賞は、まるで運命が皮肉な帳尻を合わせたようだった。
それでもヘプバーンは、誰を恨むこともなく、
「ジュリーは素晴らしい女優よ」と穏やかに語ったという。
気品と誠実さ――それこそが、彼女が本当の意味で“レディ”であり続けた理由だった。
オードリー・ヘプバーンの眠る場所
サキはオードリー・ヘプバーンのお墓を訪ねるため、私はスイス・ジュネーブから電車に乗った。
窓の外には、レマン湖の青がゆるやかに光り、遠くアルプスの峰々が淡く霞んで見える。
静かで、どこか彼女の映画のワンシーンのようだった。
モルジュ駅に着くと、そこからローカルバスに乗り換える。
行き先は“トロシュナ(Tolochenaz)”。
バスの路線番号は702番。
車内の電光掲示板に「pl. Audrey Hepburn(オードリー・ヘプバーン広場)」と文字が浮かんだとき、
胸の奥がふと熱くなった。
停留所の名に、彼女の名が刻まれている――。
それだけで、この小さな村がどれほど彼女を愛してきたのかが伝わってくる。
バスを降りると、空気が驚くほど澄んでいた。
レマン湖の風がやさしく吹き抜け、
花々がそよぎ、家々の屋根にはツバメが巣を作っている。
トロシュナは、まるで時間が止まったような静かな村だ。
村のはずれにある小さな墓地。
高い木々に囲まれたその中に、
白い十字架の下に“Audrey Hepburn – 1929–1993”と彫られたシンプルな墓石がある。
花束が絶えることはなく、世界中から訪れる人々が彼女に祈りを捧げていた。
そこに立つと、映画の中のあの微笑み――
『ローマの休日』の王女でも、『ティファニーで朝食を』のホリーでもない、
ひとりの女性としてのオードリー・ヘプバーンが、
今も静かにレマン湖を見つめているような気がした。
彼女はハリウッドの喧噪を離れ、この地で二人の息子と過ごし、
花を育て、犬を散歩させ、村の人々に親しまれながら暮らした。
そしてその人生の終わりも、ここトロシュナで迎えた。
スターである前に、母であり、ひとりの女性であったオードリー。
その穏やかな眠りの場所は、
まさに彼女の生き方そのものを映す、静謐な楽園のようだった。
余話
米映画協会が選出した「最も偉大な女優25選」で、
ヘプバーンは第3位です。
一位は誰だと思いますか?
1位 キャサリン・ヘップバーン Katharine Hepburn
2位 ベティ・デイビス Bette Davis
3位 オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn
4位 イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman
5位 グレタ・ガルボ Greta Garbo
6位 マリリン・モンロー Marilyn Monroe
7位 エリザベス・テイラー Elizabeth Taylor
8位 ジュディ・ガーランド Judy Garland
9位 マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich
10位 ジョーン・クロフォード Joan Crawford
AFIが選んだ「アメリカ映画のスターたち」
1999年6月、AFI(アメリカ映画協会)は、アメリカ映画100年シリーズの一環として
「アメリカ映画における50名の偉大なスター俳優」を発表した。
その選考はアカデミー賞の会員を中心とする専門家の投票によって行われ、
男性25名、女性25名の計50名が選ばれている。
AFIが定めた「映画スター」の定義は明確だ。
すなわち――
1950年以前にデビューしているか、
または1950年以降にデビューしてすでに亡くなっている俳優、あるいは俳優のチームで、
40分以上の長編映画において圧倒的な存在感を示した人物、というものである。
このリストには、ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘプバーン、マリリン・モンロー、
そしてオードリー・ヘプバーンなど、映画史を彩った名優たちの名が並んだ。
一方で、デボラ・カーやグリア・ガースンといった名女優が選外となったことには、
一部で疑問の声も上がった。
その理由のひとつとして、彼女たちがハリウッド映画に多く出演しながらも、
「英国出身の女優」という印象が強く、
“アメリカ映画のスター”という枠組みから外された可能性が指摘されている。
ハリウッドの黄金期を支えた俳優たちの顔ぶれを通して見ると、
このランキングは単なる人気投票ではなく、
**「アメリカ映画とは何か」**という問いへの、ひとつの歴史的な答えでもあった。
オードリー・ヘプバーン ― 第3位に輝いた永遠のミューズ
1999年6月にAFI(アメリカ映画協会)が発表した
「アメリカ映画100年のスター」ランキングにおいて、
オードリー・ヘプバーンは女優部門で第3位に選ばれた。
第1位はキャサリン・ヘプバーン、第2位はベティ・デイヴィス。
その錚々たる顔ぶれの中で、わずか20本あまりの出演作しか持たないオードリーが
ここまで高く評価されたことは、ハリウッド史においても特筆すべき出来事だった。
AFIはその選出理由を次のように記している。
“彼女は美しさだけでなく、誠実さと優しさを兼ね備えた稀有な存在であり、
観客がスクリーンの向こうに『本物の心』を感じ取った女優である。”
『ローマの休日』での清らかな王女、『ティファニーで朝食を』の都会的な自由人、
そして『尼僧物語』や『シャレード』で見せた知性と精神的強さ――
どの作品でもヘプバーンは単なるヒロインではなく、時代を超えて愛される“人格”として描かれた。
AFIの選考委員のひとりは次のように語っている。
“彼女は映画の中で光を放つだけでなく、
その光がスクリーンを離れてもなお、人々の心に届く稀な女優だった。”
また、同ランキングでマリリン・モンローは第6位、エリザベス・テイラーは第7位に位置している。
華やかさや妖艶さで時代を象徴したスターたちと比べると、
オードリー・ヘプバーンは“静けさの象徴”として評価されたと言える。
ハリウッドの黄金期にあって、彼女は一貫して「内面の美」を演じ続けた。
そして晩年にはユニセフ親善大使として世界中の子どもたちのために尽力し、
その生き方そのものが“映画以上に美しい物語”と讃えられた。
AFIの選出は、女優としての功績だけではなく、
人間としてのオードリー・ヘプバーンを称えるものでもあったのだ。
『ローマの休日』の脚本家は“にせ者”だったのです
オードリー・ヘプバーンは、ハリウッドでの初主演作から、いわくつきの作品に出演していたのです。
映画『ローマの休日』——
この名作の脚本家は、実は“覆面”だったのです。
脚本家のダルトン・トランボ氏は、赤狩りによって刑務所に収監されました。
出所後、生活に困窮した彼は、正体を隠して脚本を書く“覆面脚本家”として活動を始めたのです。
ある日、彼は脚本を友人のイアン・マクレラン・ハンター氏に託しました。
「君の名義で売ってきてくれ。その代わり、脚本料は半分ずつだ」
イアン氏は了承しましたが、タイトルに不満を漏らします。
トランボ氏がつけたタイトルは「王女と無骨者」でした。
「それじゃ、どうするんだ?」とトランボ氏が尋ねると、
イアン氏はこう答えました——「『ローマの休日』はどうだ?」
「お! それはいいな」
こうして、名作『ローマの休日』は世に出ることになったのです。
しかしその裏には、赤狩りという時代の影と、覆面脚本家の苦闘があったのです。
ジュリーの仕返し
ジュリー・アンドリュースは、当時映画出演の実績がなかったため、映画『マイ・フェア・レディ』の主演には選ばれませんでした。代わりに出演したのは、オードリー・ヘプバーンです。
しかし、ヘプバーン自身は「この役はジュリーのほうがふさわしい」と考え、出演を辞退しようとしていたといわれています。
同じ年、ジュリー・アンドリュースは映画『メリー・ポピンズ』に出演しました。
そして、アカデミー主演女優賞は、ハリウッドの“人情”によって決まったとも言われています。
ヘプバーンは『マイ・フェア・レディ』で主演を務めたにもかかわらず、主演女優賞にノミネートすらされませんでした。
一方で、『マイ・フェア・レディ』に出演できなかったことで『メリー・ポピンズ』の役を得たジュリー・アンドリュースが、見事アカデミー主演女優賞を受賞したのです。
受賞スピーチでジュリーはこう語りました。
「これを現実にしてくださったジャック・ワーナーさんに感謝したいと思います」
ジャック・ワーナー氏は、『マイ・フェア・レディ』の主演をヘプバーンに決めた張本人でした。
ヘプバーンに非はなかったのに——。
この出来事が、彼女の“アメリカ嫌い”のきっかけになったのかもしれません。
横道「メリー・ポピンズの秘話」
なんと、映画『メリー・ポピンズ』の映画化には、実に20年以上もの歳月がかかってしまったのです。
この驚くべき舞台裏は、映画『ウォルト・ディズニーの約束』で描かれています。
ウォルト・ディズニーは、娘たちが夢中になって読んでいた児童文学『メリー・ポピンズ』の映画化を強く望み、原作者であるP.L.トラヴァースに何度も交渉を重ねました。
しかし、トラヴァースは作品に対する強いこだわりを持っており、ディズニーの“夢と魔法”の世界観に懐疑的でした。
「アニメは使わないでほしい」「音楽は控えてほしい」など、数々の条件を提示し、映画化の話は何度も頓挫してしまいます。
それでもディズニーは諦めず、20年以上にわたって粘り強く交渉を続けました。
ついに1961年、トラヴァースは脚本の監修を条件に映画化を許可。
その過程で、彼女とディズニーの間には激しい意見の衝突がありましたが、最終的には映画『メリー・ポピンズ』が完成し、1964年に公開されることとなったのです。
映画は大ヒットを記録し、ジュリー・アンドリュースはこの作品でアカデミー主演女優賞を受賞しました。
ところで、「これは私の物語ではない」と語ったのは、トラヴァース本人ではないという誤解が一部にあります。
実際には、P.L.トラヴァース自身が『メリー・ポピンズ』のモデルは自分の叔母であると語っているのです。
彼女の叔母、ヘレン・ムアヘッド(通称“エリーおばさん”)は、厳格で礼儀に厳しく、子どもたちに規律を教える一方で、どこか魔法のような魅力を持つ女性でした。
その姿が、空飛ぶ傘を持ち、子どもたちを不思議な冒険へと導くメリー・ポピンズの原型となったのです。
映画版では陽気で歌い踊る“夢のナニー”として描かれましたが、原作のポピンズはもっと厳格でミステリアスな存在でした。
それは、作者自身の記憶にある叔母の姿を反映しているからこそなのです。
『メリー・ポピンズ』の裏には、ディズニーとトラヴァースの葛藤だけでなく、実在した“本物のメリー・ポピンズ”の誇りと複雑な思いがあったのです。
「ティファニーで朝食を」ヒットの謎
――脚本家サキと助手ケイコの対話より
サキ「今日のテーマは“ホリー・ゴライトリー”ね。オードリー・ヘプバーンが演じて世界的に有名になった女性よ」
ケイコ「『ティファニーで朝食を』ですね」
サキ「そう。ところでケイコさん、ティファニーってレストランかと思いません?」
ケイコ「調べました。ティファニーはニューヨークの高級宝飾店で、創業は天保年間――つまり江戸時代です」
サキ「映画ではヘプバーンがショーウィンドウを眺めながらクロワッサンを食べるけど、あの場面は原作にはないのよ。タイトルは“ティファニーで朝食をする”なんてありえない、という比喩。つまり、憧れや夢の象徴ね」
サキ「原作ではホリーがこう言うの。『いつの日か目覚めてティファニーで朝食を食べるときにも、このままの自分でいたいの』」
ケイコ「ホリーって実在する人なんですか?」
サキ「村上春樹さんも言っているけれど、カポーティは自分の体験しか書かない作家。モデルは実在したはずよ。専門家によれば、複数の実在女性を組み合わせた人物像だそう」
ケイコ「ホリーはアフリカを転々としたいと言っていましたね。北アフリカのカサブランカにも行ったのかも」
サキ「国吉康雄という日本人画家がホリーの肖像を描いているの。彼の絵のホリーは、日本人のようにも見えるのよ」
ケイコ「原作ではユニヨシという名前でしたね」
サキ「そう。国吉康雄がモデル。岡山県出身で、のちにニューヨーク大学の教授になった人。イーストビレッジの最上階に住み、下の部屋をホリーに貸していた。カポーティ自身もその建物に住んでいたの。だから、ユニヨシ=国吉説は有力ね」
ケイコ「ホリーは、カポーティにもよくわからない謎の女性だったんですね」
サキ「カポーティの自伝によると、この小説は“猥褻”と見なされてアメリカ南部で発禁になった。ホリーが“援助交際で生計を立てる女性”と解釈されたから。カポーティは、ヘプバーンのキャスティングに激怒したらしいの。彼はマリリン・モンローが演じると聞いていたのに、清楚な妖精のようなオードリーになったから」
ケイコ「モンローは断ったんですよね?」
サキ「そう。売春婦役はやりたくないと。それでヘプバーンに白羽の矢が立つ。原作を知る人ほど“ヒットするはずがない”と思った。でも結果は大成功。これはまさにハリウッド・マジックね。妖精のようなオードリー・ヘプバーンが、物語を全く違う輝きに変えてしまったの」
サキ「のちにカポーティは、若いジョディ・フォスターを見て“彼女こそ本当のホリーだ”と言ったそうよ」
ケイコ「なるほど……“ティファニーで朝食を”という夢が、現実の女優の手で完成したんですね」
ルイ・ヴィトンが世界売り上げNo.1になった理由
――タイタニック号とオードリー・ヘプバーンの物語
ルイ・ヴィトンは、もともとフランスのトランクメーカーとして誕生しました。
創業者のルイ・ヴィトンは、フランス東部のジュラ山脈にある小さな村に生まれます。
わずか16歳で単身パリへ向かい、荷造り用木箱を作る職人として修業を重ねました。
その腕前が評判となり、上流階級の顧客から信頼を得たルイ・ヴィトンは、1854年、33歳のときに自らの店を開きます。これが世界的ブランド「ルイ・ヴィトン」の始まりです。
当時の旅は長く、船や列車での移動が主流でした。
荷物を守るためには丈夫で軽いトランクが欠かせません。
ヴィトンのトランクは、精巧な作りと美しいデザインで人気を集め、やがて世界中の富裕層に愛用されるようになりました。
1912年、あの豪華客船タイタニック号が沈没した際、海底から引き揚げられたトランクの中で、中身がほとんど無事だったのがルイ・ヴィトン製のものでした。
この逸話が「ヴィトンの品質は沈まない」という伝説を生み、ブランドの信頼を決定づけたのです。
さらに時を経て、映画『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンが見せた上品で洗練されたスタイルが、ヴィトンの世界観と重なります。
彼女が手にしたバッグや旅立つ姿は、まさにルイ・ヴィトンが象徴する「エレガンスと冒険」のイメージそのものでした。
ルイ・ヴィトンが世界一のブランドへと成長した理由――それは、創業者の職人魂、沈まない品質、そして映画が与えた永遠の夢の力がひとつになったからなのです。
息子ショーンが語る 母はうどんが大好きだった
ケイコ「今日のお話はオードリー・ヘプバーンですね」
サキ「ええ。映画の妖精と呼ばれた人よ。『ローマの休日』『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』──どれも映画史に残る名作ね」
ケイコ「ファッションアイコンとしても有名ですし、ユニセフ親善大使でもありましたね」
サキ「そう。そんな彼女の素顔を一番よく知っていたのが、長男のショーン・ヘプバーン・ファーラーさん。最近、日本公開された『ローマの休日』4K版のとき、イタリアの自宅からインタビューに応じていたの」
ケイコ「どんなお母さんだったんですか?」
サキ「ショーンさんが言っていたわ。“母がくれた最も美しいプレゼントは、私のために俳優業を一時中断してくれたことです”って」
ケイコ「オードリーがですか? あの人気絶頂の時期に?」
サキ「そうなの。1960年、彼女は俳優メル・ファーラーとの間にショーンさんを出産。『ティファニーで朝食を』や『マイ・フェア・レディ』の頃ね。でも彼が学校に通い始めると、現場に連れて行けなくなって、きっぱりと仕事をやめたの」
ケイコ「女優より母親を選んだんですね」
サキ「ええ。ショーンさんによると、母はいつも“私はこうするけれど、どうするかはあなたの自由よ”と話していたそうよ。命令はせず、信頼して見守るタイプの母親だったの」
ケイコ「オードリーって、上品で優雅なイメージがありますけど、家庭でもそんな感じだったんですか?」
サキ「まさにその通り。でもね、ただの優雅な女性じゃなかったの。ショーンさんの話では、ある日レストランで親戚がウェイターに横柄な態度を取ったとき、母は激しく叱ったそうよ。その時に“母の底知れぬパワーを知った”って」
ケイコ「かっこいい……。時代を先取っていた女性ですね」
サキ「そうなの。スカートが当たり前の時代にズボンをはき、しっかりと自分の価値観を持っていた。だからこそ、映画の相手役はみんな年上の俳優ばかりだったのよ」
ケイコ「たとえば?」
サキ「『ローマの休日』ではグレゴリー・ペックが13歳年上、『麗しのサブリナ』ではハンフリー・ボガートが29歳年上、『昼下りの情事』ではゲーリー・クーパーが28歳年上。オードリーのエネルギーに釣り合う男優が、年上しかいなかったのね」
ケイコ「ペックとは特別な関係だったと聞きました」
サキ「そう。家族のような仲だったそうよ。『ローマの休日』の撮影時、オードリーはまだ無名だったけど、ペックが“彼女の名前を主演としてクレジットしてほしい”と提案したの。以来、深い友情で結ばれたの」
ケイコ「息子のショーンさんも『ローマの休日』を観たんですよね?」
サキ「2016年、ローマで開かれたペック生誕100年イベントで初めて大スクリーンで観たそうよ。子どもの頃はDVDもなくて、シーツをスクリーン代わりにして映写機で母の映画を観ていたんですって」
ケイコ「かわいい話ですね」
サキ「ええ。そして大スクリーンで母の演技を見て、『母がアカデミー主演女優賞を受けた理由がようやくわかった』と語っていたわ」
ケイコ「ところでタイトルの“うどん”って?」
サキ「そこ、気になるでしょう?(笑) ショーンさんが言うの。“母はうどんが大好きだった”って。自宅の庭で育てたトマトでスパゲティ・ポモドーロをよく作っていたけれど、日本に来たときは、ホテルを抜け出してうどんを食べに行ったそうよ」
ケイコ「まるで『ローマの休日』の王女みたいですね!」
サキ「そうなの。あの自由を求めて街に出たアン王女そのまま。きっと彼女は、どんな場所でも“自分の人生を自由に生きる”ことを大切にしていたのね」
ケイコ「銀幕の妖精でありながら、ひとりの母として、そしてひとりの女性としても素敵ですね」
サキ「ええ。彼女の輝きは、スクリーンの中だけじゃなく、生き方そのものにあったのだと思うわ」
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主なキーワード
オードリーのために作った子守唄
消された歌声 ― 『パリの恋人』の真実
「オードリー・ヘップバーンは、オジ様好みよ」
そう言ったのは、向田邦子さんだった。
「私の歌を、私の映画から取り上げるの?」
嫌われたオードリー・ヘップバーン
『ローマの休日』の脚本家は“にせ者”だった。
ジュリー・アンドリュースのリベンジ
母はうどんが大好きだった




