SAKIMORI(謎の青年)
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SAKIMORI(謎の青年)
序章
私は撮影所で映画のシーンを見守っていた。
そこには、漱石が天女のように美しいと表現した女性、藤尾がいた。
彼女の声は荒々しく、感情が高ぶっているのがわかった。
「嘘ですわ。嘘!嘘!」と藤尾は叫んだ。「小野さんは、私の夫です。私の未来の夫です。あなたは何を言うのです。失礼ですわ!」
藤尾の前に立つ宗近は冷静に言った。「事実を報告しているだけだ」
「私を侮辱する気?なぜ小野さんは来ないの?」
藤尾はなおも問い詰める。しかし、その瞬間、彼女の目は小野の婚約者に向かい、その場に倒れこんでしまった。
「は~い、カット!」と監督の声が響く。夏目漱石の『虞美人草』を原作としたシーンの撮影は、一時中断となった。
漱石の小説では、藤尾の死については明確に語られない。ただ、突然お線香という文字が出てきて、彼女の死を知ることになるのだ。それに対して、これまでのドラマ化では藤尾は毒をあおって自ら命を絶つシーンが描かれてきた。
私はその描写に納得がいかなかった。『アデルの恋の物語』のように、狂気に走る方が藤尾らしいと感じたのだ。藤尾は自分から死ぬような女性ではない。しかし、その点で監督と意見が分かれ、最終的には監督の意向に任せることにした。
撮影所から帰宅した私は、新たなシノプシスを書き始めた。これは長いものになりそうだと予感しながら、筆を進めた。
*
八月の暑い夜だった。
撮影所から海岸につながる道路を、
赤いポルシェが100キロ以上で飛ばしている。
運転しているのは英次で、隣に私は座っていた。
今夜飲んだお気に入りのピンクシャンペンが、
私の中で暴動を起こしていたけど、
海の風を受けて、とても心地よく、
車の中で、いたたまれない睡魔と格闘していた。
私の名前は、久留牟田沙樹子。
久留米生まれで大牟田育ちなので苗字にしたの。
「サーキー」と、呼ばれている。
年齢は四十歳、
顔には軽い疲労が見えるけど、
私が流してきた涙の数を考えれば、
まあ、仕方がない。
私には恥ずかしい過去がある。
二十五歳で映画出演して、女優として、
すぐに人気になったけど、
二十六歳には映画出演で得たお金をもって、
若い画家とパリに行ってしまった。
二十七歳には無名の人間になり、当然のごとく、
お金は底をついて無一文になった。
お金の切れ目は縁の切れ目で、画家はどこかへ行ってしまい、
私はパリから身ひとつで逃げ帰ってきた。
若い頃は危険な男に恋してしまう。
会社は私に、次の映画作品を考えてくれたけど、
男に捨てられた女優の汚名は、消せなかった。
私は、ほっとした。
なぜなら、週刊誌の記者に追い回されるのは嫌いだし、
世間的な名声は、自由というものを失ってしまう。
私は脚本家になろうと思った。
パリ逃避行をネタにしたら、私の脚本がヒットしたの。
何度か結婚したけど、幸福になれず、もっか独身。
現在の私の心を惑わすのは、今、私の横で運転している英次。
英次は、なかなかのハンサムなの。
映画会社の重役をつとめていて、彫りの深い整った顔で、
フランス人の香りを漂わせている。
女優が、相次いで英次に夢中になった。
隣の英次が私を、べットの深淵に沈ませようとしている。
私は憂鬱だった。いや、眠いの。
でも私は英次の目のサインに従うしかなかった。
だって、何度も電話をもらい、デートも重ねて、
私の年齢の女としては、そろそろ。
英次に、身をまかせるのが、義務だと感じた。
いよいよ今夜は避けられない日が来たと覚悟した。
午前二時
赤いポルシェは
私の「花の御殿」と言われる住まいに向かって、猛スピードで走っていた。
何かが、私たちの車に向かって、飛び込んできたの。
ヘッドライトの中に、マネキンのようなものが飛び込んできた。
英次は、すばらしい反射神経で
急ブレーキをかけ、右側の溝の方に避けた
「サーキー!」
英次が私の名を呼ぶ声で目がさめたの。
私は気絶していたようだ
私はなぜかハンドバッグを手にしていた。
不思議よね。
普段はいろんなところにハンドバッグを置き忘れる私なのに。
英次も無事で、お互いに「ああ、よかった」と安堵した。
車のエアーバッグを押しのけて外を見ても何も見えない。
飛び込んできたマネキンが気になって車を降りて探す
道路のアスファルトの上に横たわっている青年をみつけた
英次が青年の脈をみて、生きているか確認した。
英次は青年の脈をみて言った。
「大丈夫だ。死んでない」
「よかったわね」
青年の顔を見ると、年齢は20歳代に見えた。
「僕は奴にはぶつけなかった。それは確かだ」と英次が言った。
1台の黒い車が停まって、運転者の男は 状況を見ていた。
英次の愛車は前方が原型をなくして自走できなくなった。
「ここは携帯電話が不通だ。救急車を呼んでくる。
サーキー、ここに、いてくれ」
と英次は言って、停まった車に乗って行ってしまった。
真夜中に
私は横たわった青年と2人きり
取り残された気分
青年のそばに膝をついたままでいたの。
青年から逃げ出したいと思う気持ちと、
静かにさすってあげたい気持ちで葛藤していたけど、
青年はうっとりするくらいのイケメンなのよ。
こめかみと両手の上に血が流れているのに気づいた。
どうしようかあわてたけど、
突然、青年は眼をあけ、私を見つめ、ほほえんだの。
私を神とでも思っているようなまなざしだった。
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花の御殿
私の住む家は「花の御殿」と言われた。
カルフォルニアにあるロバート エヴァンズの御殿と
同じ設計仕様で作り上げた。
グレタガルボが住んでいた御殿をロバート エヴァンズが買い上げた。
ロバート エヴァンズは「ゴッドファーザー」や「ある愛の詩」「ローズマリーの赤ちゃん」などのプロデュースをした男だ。
「ある愛の詩」は、主演女優のアリ・マッグロウが映画化してもらいたいと原作本を持って花の御殿を訪れて、帰らずに住みついてしまった。
ロバート エヴァンズとアリ・マッグロウは同棲を始めて、結婚する。
女性は、男性よりも家にトリコになる、見事な典型例ね。
私は花の御殿で毎週土曜の14時頃から、庭いじりをしている。
庭いじりが終わると、テラスに椅子を出して、アイスティーのグラスを前に置き、
一冊の本を手にしながら、ゆっくりと腰を落ち着かせる。
アメリカの国宝映画「カサブランカ」と同じ名前の花を咲かせるのが楽しみだった。
*
「サーキー、君は、気でも違ったかい?」と英次が言った。
英次は、しゃれた濃紺のブレザーを着て、厳しい顔つきで見つめている。
私は着古したジーンズ、渋い花柄のブラウス、
頭にバンダナという庭いじりの恰好だった。
英次が不意打ちするように訪れたの。
私は、不意に来るなんて、いい加減に扱われている感じがして内心腹を立てた。
「君が常軌を逸したことをやっているって、
撮影所のみんなが噂しているよ」
「みんなが、みんながって、あなたは言うけど」
「いったい、あの若者は君の家で何をしているんだい?」
「彼は回復しつつあるのよ。回復しつつ、ね。
とにかくあの人、脚をひどくやられているのよ。
それに彼にはお金も、家族も、なんにもないんだから」
英次はぐっと息を吸い込んだ。
「それが、まさに僕を心配させる点なんだよ。
それに彼は僕の車めがけて飛び込んだ時に、
パラダイスというドラッグをいっぱい飲んでいたんだ」
「でも、それについては彼があなたに説明したじゃないの。
その薬が効いていたので、彼は車だと思わなかったって、
彼、ヘッドライトを、他のものと思い込んだのよ」
英次は急に真っ赤になった。
「彼がそれをなんと思い込もうと、僕の知ったことじゃない。あの男は、僕たちを危うく死なすところだったのに、2日後には君はヤツを自分の家に居候させている。宿泊させて、毎日の食事を運んでやっているそうだね。もし、そのうち、ヤツが君をレイプして、殺したらどうする?君の宝石類を盗んで逃げるかもしれない」
私は憤慨した。
「まあ、そんなこと言って。私の宝石類なんて、たいして金目のものはないわ。
とにかく、彼を道端にほっぽり出しておくわけにはいかなかったの。
そのうえ、ほとんど半身不随の状態だったんだし」
「ヤツを病院に残しておくことは、できたはずだ」
「でも彼、あの病院はとても陰気な感じだと言うのよ。
正直言って、私も病院は陰気なところだと思ったわ」
英次はあきらめた様子で、私と向かい合った籐の肘掛椅子に腰をおろした。
英次は無意識に私のグラスを手に取り、
アイスティーを半分ほど飲んでしまった。
私は腹が立ったけど、英次のするままにしていた。
英次は明らかに参っている様子だったから。
英次は妙な目つきで私を見たの。
嫉妬しているような目でね。
「そういえばヤツの名前は、なんて言うんだ?」
「草刈守一って言うの」
「ふ~ん。なかなかの美顔だな」
英次は、私の顔をじっと見つめた。
まるで私と守一との関係を私の表情だけでさぐろうとしているようだった。
私には英次が心配しているのだとわかった。
私はふと少し不安になった。
守一をウチに泊めたのは間違っていたかもしれない。
泊めたのは慈善的で、一時的だったし、私にはなんの下心もなかった。
「僕には少なくとも今回関わった責任があるんだ。
サーキーは非常識なことを行っている。
それがとても心配なんだ」
と言うと英次は立ち去って行った。
私は強情かもしれない。
一方的に言われて反発したのかもしれない。
残された私は、ぼんやりと籐椅子にすわったままでいた。
私は守一を考えた。
守一は口数の少ない人間だった。
はっきりと意思表示したのは、ただ一度、例の事故の翌々日、
病院を出て行くという決心を告げた時だった。
「僕は出てゆきます」
「ウチに泊めてあげる」
私は身寄りのない守一が、ためらうのを、気にも留めずに、
守一の荷物をさっさと運んでしまった。
前に、同じように轢きそうになった男がいた。
病院を出た身寄りのない前の男は、数日後に死んだ。
新聞を読んで知るが、私にはトラウマになっていた。
守一は退院して、私はウチで守一を養っている。
私の行動を冷静に俯瞰的に考えた。
前の男の一件もあるが、
守一を見て、今執筆している作品の主人公が私の前に現れたと思った。
安全を期して、しばらくは庭師の源爺さんにもついていてもらった。
守一はベッドの上に居心地よさそうに身体をのばし、
脚は包帯に包まれているが、包帯を替えるのは自分でする。
テレビも観ない、ラジオも聞かず、しゃべりもしない。
私の書いている脚本を見つけては読んでいる。
無感動な顔つきで、執拗に窓の外をながめていた。
守一があまりの美貌なので、見ていると、私をロマンチックな気分にさせた。
私を捨てた夫
何もしないで、ぼんやりとしている守一に、
私は、毎日のように、書いている「愛去り」を読み聞かせた。
話は、夫婦がある誤解から別れてしまう。
「愛去り」の脚本を聞いていた守一は
「理由も言わずに、去っていくのは、男の嫉妬ですね」と言った。
私は何も感想を求めていなかった。
守一の分析は意外だった。
「私はこの男の行動はわからないけど。こんな男もいる。
はっきり言えばいいのに、一人で苦悩して去っていくのね。
女には、そんな彼の苦悩がわからないわよ。
でも、これは愛の勝ち逃げの一種ね。
あなたは女性を心底愛したことがあるの?」
「まだ、ないです」
*
私が夕方、スタジオから戻ると、守一は二本の杖で身をささえながら二階から降りてきて、籐椅子に深々と身をしずめた。
私たちはピンクシャンペンを飲みながら夕闇がおりてくるのをながめる。
守一は静かで、風変わりで、時には微笑む。
年齢が違いすぎて、守一との恋愛など考えられなかった。
守一の顔は完璧に造形されていて、非の打ち所がない美貌だった。
おそらく白系北欧人の血が流れていると感じた。
夕食が終わると守一は話し出した。
「僕は両親を知りません。孤児院で育って、車を修理する会社を経営する夫婦の養子となったのです。そしてカーレースに夢中になって、レーサーの修業に入ったんです。僕がレースで宿泊した日でした。
養父母が強盗に襲われて惨殺されてしまったんです。僕はレース中に事故を起こし、結局、レーサーのライセンスがとれなくて、車の整備やチューニングができるので、生活は、なんとかできたんですが、
だんだんと生きる目的がなくなってきて」
守一は旅に出るようになり、各地を放浪して、車の修理の仕事をしながら、
ドラッグをおぼえ、喧嘩したり、車で暴走したりして、
守一を現在の場所、つまり私のウチにつれてきたのね。
私たちは世間の目からみれば奇妙な関係にあったでしょう。
私の過去の恋愛については、たえず質問するくせに、
守一は自分の恋愛についてけっして話さなかった。
「あなたは、いつも男性と別れて、死ぬほどの悲しい思いをしたのですか。
最初のご主人に捨てられた時は、どうでしたか?」
守一が真剣な顔をして聞いてきたの。
あまりの迫力にびっくりしながら、私は答えた。
「いいえ、ちがうわ、あの時はむしろほっとしたの。
朝から晩まで歌舞伎でうんざりよ。で
も風三郎が去ってしまった時はショックで、
私はまるで病気になった植物のようだったわ」
「風三郎って誰です? 二番目の?」
「忍者映画では有名だわ。知らないの? 私の二番目よ。
風三郎は陽気で優しくて、私は幸福だったの」
「で、彼は、あなたを愛したんですか?」
「共演したマリアが彼に夢中になってしまったの」
守一はわからないという表情をした。
「いくらあなただって、マリアという名前の女優を聞いたことがあるでしょう?」
守一は知らないという表情をしたの。
私はありえないと思ったけど。
「つまり風三郎はマリアに有頂天になり、私を捨ててマリアと結婚したの。
私はショックを受けて、一年以上狂っていた」
「それで、どうなったのですか?」
「マリアが二年後に風三郎を捨てたの。
風三郎は捨てられ、酒びたりになって落ちぶれていったわ」
守一は黙っていたが、低いうめき声をあげて椅子から身を起こそうとした。
「気分が悪いの?」
「苦しいんです。なんだか、もう二度と歩けないよう気がする」
私はふと、守一と永久に一生暮らさなければならないと考えた。
いや、大丈夫、守一は歩けるようになる。
私は守一を安心させるために言った。
「あなたは、ずっとウチにいればいいのよ」
守一は横目で私を見たの。
少し英次に似ていたけれど、もっと可愛かった。
「あなたってかたは。僕だったら、あなたを捨てるなんて、
絶対にできないだろうな」
と、言うと、守一は二階へ時間をかけて戻っていった。
映画「はくすきのえ」
朝から新作映画の会議が行われた。
制作される映画のタイトルは、「はくすきのえ」だった。
西暦663年、日本・百済連合軍と、中国・朝鮮連合軍が、
朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で戦った。
原作者・竹島が、開口一番に言い放った。
「日本人と日本人の兄弟分の百済人が、
中国人・朝鮮人によって、朝鮮半島から追い出された遺恨の戦いだ。
ミッドウェー海戦の古代版だ。日本は勝てるのに負けた」
竹島は天台宗僧侶で小説家だった今東光に、そっくり。
坊主頭で、歯に衣着せぬ言動で知られる。
竹島は、さらに付け加えた。
「現在の韓国は昔、日本民族と百済の土地だった。
だから、日本人には半島奪回のDNAが本能的に存在する」
日本・百済連合軍は、中国・朝鮮連合軍に大敗した後、
日本の防衛のために、防人という守備隊を組織した。
映画は大作で、脚本は複数の脚本家に割り振られ、
私は防人の悲恋部分を担当することになったが、
原作者が脚本家として乗り込んできそうで、気の重い展開になりそうだわ。
会議が終わって、竹島が帰った後に、親しいスタッフと映画談義になった。
「サーキー、『男と女の詩』という映画、知ってる?
裕子に尋ねられて、知っていると、嘘をついてしまった。
DVD化されてないので、どんな映画か教えてよ」
と黒いサングラスをかけた白沢監督が尋ねて来た。
「ああ、クロード・ルルーシュの作品ね」
「シャバダバダか」
「『男と女の詩』は、映画『男と女』のエンディングから始まるの」
「ほう、やっぱりシャバダバダだ」
「私は『男と女』より、この作品が好きよ。ひと言で言うと『黄色いハンカ
チ』のフランス版ね」
「お! 高倉健の『幸福の黄色いハンカチ』の話かい?」
「そう。宝石店を襲撃するんだけど失敗して、刑務所に入った男が出所するのよ。
タイトルは『La Bonne Année』、
フランス語で新年の挨拶。Happy New Yearね」
「面白そうだ。それで? フランス映画はまったく苦手でね」
「新年を迎えるにあたって出所するわけ。
男には内妻に近い恋人がいたのよ。でも突然の特赦で釈放されることになる。
彼女は知らない。6年も刑務所に入っていたので、男はすぐに内妻の家に直行できないの」
「健さんと、同じだな」
「男はなかなか帰れない。やっと迷って、内妻の家の近くまで来て、家の中を
うかがうわけ。すると家には見知らぬ男が主人顔で出入りしているので、男は去ることを決意する。
でも最後にひと言、女の声を聴きたくて電話するの」
「男はガラスのハート、気は弱いけど、せっかくなので、お別れと皮肉のひとつも言いたいよな」
「ベッドにいた女が電話に出ると隣にほかの男が寝ている。
男は『俺だ、出所した』と告げた瞬間に、女は意外なことを言うの。
出入りしていた男を追い出して『待っている、すぐ来て!』と言うの」
「ほほ~、それで」と、監督は目が輝いた。
「再会すると、女は言うの。
『あなたを待っていたの。でも 私は女よ、恋をしていないと女を維持できないの』
男は信用できない顔をしながら、黙って女の顔を見て、
映画は終わる。
おそらく2人で暮らす方に展開しそうだと思ったわ」
「渋いというか、人生の辛酸をなめた本当の男と女の話だな」
と、白沢監督が言った後だった。
会議室のドアを開けて秘書が入ってきて、私に電話だと告げた。
私は急いでデスクに戻ると、電話は英次からだった。
「サーキー? 聞いたかい?」
「いいえ。なんのこと?」
「風三郎が死んだんだ」私は、呆然とした。
「君の前の旦那さんだ。昨夜自殺したよ」
「自殺。そんなことありえないわ」
いっしょに暮らした人間だからわかる。ましてや愛した男だ。
風三郎はどんな種類の勇気も持たない男だった。私の考えでは自殺するには多くの勇気が必要なのだ。
自殺するしかなくなるまで追い込まれているのに、
できないでいる人を数多く知っている。
「本当なんだよ。風三郎は今朝、君の家の近くの貧相なホテルで自殺したんだ。
原因はまったくわからない」
私の心臓はだんだんと鼓動がはやくなってきた。
風三郎の陽気さ、風三郎の笑い、風三郎の胸。
死んだのだ。私は風三郎が死んだとはどうしても信じられなかった。
時が経てば、人は変わると言う。自殺体質になっただろうか。
「サーキー、聞いているかい?」
「ええ、聞いているわ」
「サーキー、来てもらわなくてはいけない。風三郎には家族はなかったし、
君も知っているように、マリアは、今パリにいる。
悪いけど、いくつかの手続きのために君に来てもらわないと。
これから迎えに行く」と、英次は電話を切った。
私はデスクの椅子に腰掛けたまま、何も考えが浮かばない。
映画「ある愛の詩」のラストシーンのようだったわ。
英次がかけつけて、私の腕をとったけど、
私はわっと泣き出すような仕草はしなかった。
私は英次といっしょに出かけた。
遺体安置所に、風三郎は眠ったように横たわっていた。
ドアノブにタオルをかけて死んでいたという。
私の脳裏をよぎったのはロックギタリストAの自殺だった。
検死報告で、窒息死と断定されたという。
私はなんとか落ち着きを保って別れを告げた。
風三郎とのつらい思い出、つまり私を捨てる時に告げた言葉より、
なぜか私に愛の告白をした時の言葉が浮かんだ。
「サーキー、好きだよ」
翌日葬儀が終わると英次は私をウチまで送った。
私は車の中では無言のままだった。
どこを通ったかわからないうちに、
いつのまにか車は私の自宅に着いた。
「しばらく一緒にいようか?」と英次は言った。
私は何も考えずにうなずいた。
守一のことを思い出したけど、別にかまいはしない。
英次と守一がにらみあおうと、
お互いにどう思おうと、私はなにも気にしなかった。
英次は私について来た。
守一はテラスでロッキングチェアに体をのばして、小鳥をながめていた。
守一は私を見つけると手をあげて合図したが、英次を見ると、手をひっこめた。
守一の前に行って言った。
「風三郎が死んだの」
守一は手を差し出し、躊躇しながら私の手にさわった。
私は突然わっと、守一の足元に膝をつき泣き出した。
守一は無言で、じっとしていた。
私は落ち着きを取り戻すと、顔をあげて、英次が去ったことに気がついた。
なぜ、私は英次の前で泣かなかったのだろう?
「私、みっともないでしょう」
私は涙目で、まつげのマスカラがどこかに飛んで、おそらくパンダのようで、
見られた顔ではないことを知っていた。
なぜか守一の前ではすこしも気にならなかった。
「なぜ、悲しんでいるんですか?」と不思議そうに守一が尋ねた。
「私、風三郎を、ずっとずっと愛していたのよ」
「風三郎はあなたを捨てたんですよ。風三郎は罰せられたのです」
「あなたは単純だわ。人生はあなたのように単純ではないのよ。ありがたいことに」
「人生は単純にもなりえます」
と、言うと守一は私を見ないで庭の小鳥たちを見た。
守一は何か私を避けるような、もう会話はしたくないというような態度だった。
私は、守一には同情心があまりないと思った。
私を奈落に落とした男
私が家の中に入っていくと、電話が鳴っているのに気づいた。
電話は、一晩中、ひっきりなしに鳴った。
私のかつての恋人たち、友人たち、私の秘書、風三郎の相手役だった人たち、
新聞記者たち、みんなが私の電話にしがみついていた。
パリで、風三郎の訃報を聞いたマリアが倒れて、撮影は中断された。
夜にはマリアがフランス人の恋人とひそかにホテルの裏から出て行くのもスクープされた。
生前に風三郎が困窮している時に、誰も援助の手を差しのべなかった。
私と離婚してマリアと別れて、落ち目になっていった風三郎に生活援助したのは私だけだった。
私が二十七歳の時に無一文になり、パリから逃げ帰ってきた時、
風三郎がマリアと離婚した時、私たちは新しい仕事も提供されず、完全に干されてしまった。
干したのは武藤オーナーだった。
武藤は弁護士に命じて、ありもしない訴訟を起こし私たちをどん底まで追い込んだ。
私が心底憎んでいる武藤が、あつかましく電話をかけてきた。
「サーキー、本当に悲しいことだね。
僕は、君が風三郎をとても愛していたことを知っている。それで……」
「私はね、あなたが風三郎を首にしたことを知ってるわ。
そして私と同じように、風三郎が他のどの会社でも働けないようにしたことも。
もう電話しないで。でないと、私どんなことを言うかわからないわよ」と電話を切った。
私は客間に戻り、守一に、武藤から受けた仕打ちについて洗いざらい話した。
「私はアイツから自殺寸前にまで追いやられたの。きっと風三郎の自殺もアイツの仕業だわ。
私、これまで人の死を願ったことはないけれど、アイツは私が呪い殺したくなるほど憎い卑劣な男よ」
守一は何も答えないで、真剣に聞いていた。
風三郎が死んだ数日後の晩だった。
守一は急に立ち上がった。
まるで怪我などなかったようにやすやすと、
まっすぐ数歩歩いて、呆気にとられている私の前に立ち止まった。
「ごらんのとおり、治りましたよ」
「それは良かったわ」
「そう思いますか?」
「ええ、もちろんよ。それであなたはいったい、これからどうするつもり?」
「あなた次第です」と静かに言い、椅子に腰をおろした。
「そうね」と、私は考えている顔をした。
「もし僕がここに残るとしたら、
僕はいくらなんでも働かなければならないでしょうね」
「あなた、この町に住みつくつもり?」
守一は手で足元をさして「僕はここと言ったんです」
私は戸惑った顔をした。
守一は言った。
「もちろん、もしお邪魔でなかったら、という意味ですが」
「おやまあ、これは驚いた、まさか、そんなこと」
と、つぶやきながら立ち上がった。
守一はじっとして私を見つめていた。
私は逃げるように台所へ行き、
ミネラル水をコップに注いで、一気に飲んだ。
飲んで落ち着きを取り戻して、守一のいる部屋に戻っていった。
守一に言って聞かせる時がきたわ。
第一に私は好きで一人暮らしをしているのであり、若い男のお相手などは必要としない。
第二に、守一がいるので、私に言い寄ってくる男たちを私の家につれてこれないので、じつに不便である。
第三に、第三に。要するに、守一がウチに残る理由などまったくないのだと。
「守一さん、お互いに話し合う時がきたわ」
「その必要は、ありませんよ。僕が残るのが、お嫌なら、僕は出てゆきます」
「そうじゃないの」
「ほかに何があるんです?」
私はぽかんとして守一を見つめた。
そうだ、他に何があるのだろう?
なぜか、守一と別れるさみしさが押し寄せてきた。
「世間体が問題なのよ」守一は笑い出した。
「あなたが病気で、怪我していた間は、
私があなたをウチに泊めるのはあたりまえだったわ。
あなたを道路にほうり出して、傷を負わせたのには、私にも責任があるから」
「では、僕が歩けると、世間体が悪いっていうわけですか?」
「説明がつかなくなるわ」
「誰に説明がつかないんですか?」
「みんなによ」
「あなたはあなたの生活をみんなに説明してまわるのですか?」
私はカチンときて、言った。
「ねえ、守一さん、いったいあなたはどう思っているの?
私には私の生活があり、友人がいて、それから、男だっているのよ」
守一はうなずきながら言った。
「あなたに恋している男たちがいることは僕だって知ってますよ。たとえば英次さんなんか」
「英次とは何もないの、ただの友達だわ。わかってほしいの。
あなたがウチにいると、私にとって噂の種になるのよ。わかるでしょ?」
「そうですね。僕はしばらく働いて、あなたにお金でお礼をしたいと思ったんです」
「お金なんかいらないわ。私は十分すぎるくらい稼いでいるの」
「僕はどうしてもお礼をしなくてはならないんです」
長々と深夜まで続いた議論の末、私たちは一つの妥協に達した。
守一は仕事を探し、しばらくしたら自分の住居を探す。
お互いに意見が一致した。
もう時計は深夜1時をまわっていた。
やっと眠りつけると私がベッドに入ると、
守一に大事な質問をするのを忘れていた。
なぜ守一は私のそばに残ると希望したのか。
映画デビュー
翌朝になった。私は眠れなかった。
私は守一を見ていて思っていた。
そうじゃない。初めて守一に会った時に決めていたのかも。
映画俳優として守一を売り込む。
守一は一世を風靡する二枚目スターになるかもしれない。
私は守一が映画界の大スターとなって、数々の賞を獲得して、東京ハリウッド通りを闊歩して、昔自分を映画界に紹介した、サーキーおばちゃんに会いに来てくれるかもしれないと勝手に想像をした。
私は、映画「収容所のミヤギ」の配役オーディションが今行われていると思い出した。
米国と日本が戦争していた時代のカルフォルニアで、日系米国人は財産と家財を没収されて、収容所に入れられた話だ。
私は担当者に電話して、守一をカメラテストまで持ち込んだ。
**
私は撮影所のデスクにすわって、落ち着かなかった。
ソファにすわった守一は、平静で、ほとんど退屈しているかに思えた。
私は守一のオーディションの結果を待っていた。
電話が鳴り、私が受話器をあげると、オズ監督からだった。
「サーキー?」
「はい、監督?」
「驚いたよ。守一、スクリーンで輝いている。こんな男は源輝光以来だよ。
光っているよ」
守一は映画界へのデビューが決まった。
会社はスキャンダルを避けて、守一と私は、遠い親戚関係になった。
守一には、私のウチから、すみやかに引越しするように命じられたが、
守一は、すぐに出て行こうとはしなかった。
私はスタジオのカフェで英次と偶然に出会ってしまい、
ランチを共にした。
「サーキー、守一君をどうするつもりなんだい」
「それなんだけど、守一君は歩けるようになったので、
引っ越しする予定だわ」
英次は疑わしそうな目で、私を見つめた。
「サーキー! 僕は君がけっして嘘をつかず、他の女性が好んで演じるばかげたお芝居などをしなかったから、君が好きだったんだ」
「それで、どうだって言うの?」
「君はまさか、君のような女性が一ヵ月以上何事もなく、美貌の青年と同じ家に住んでいるなどと言うつもりはないだろうね。
僕は守一が美青年だと認めるし、映画スターになるような予感はするよ」
私は吹き出して言った。
「英次、私を信じてよ。私と守一との間には何もないの。
私は守一に恋愛感情なんて生じないの。守一だって同じよ。
誤解を与えるような暮らしをしているのは確かだけど。
だけど、本当にそうなんですもの、どうしようもないわ」
「サーキー、僕に誓ってくれるか?」
「いいわ」
私はあきれてしまう。本当に男って誓いをしたがるものだ。
私はとにかく誓った。
英次は暗く深刻な表情が消えてしまった。
元気はつらつの、まさに鼻の下をのばした顔になってしまった。
まったく男って単純だわ。
英次くらいの女性キャリアを持っているなら、
女の誓いを信じるなんてありえないと思っていたけど。
英次を見て私は感じた。
英次は本当に私に夢中なんだと。
私は一ヵ月以上も守一と暮らしてきて、
ほとんど外出らしい外出をしていなかった。
ご無沙汰だわ。
私の人生で、とても重要な意味を持つ、
ハンサムな男性とベッドの深淵に身を沈める機会もなくなっていた。
私はあらためて英次を見つめた。
なかなか魅力的で、しゃれていて、私には申し分のない男性だわ。
いつのまにか、英次とデートの約束をしてしまっていた。
久々にデートする。
英次に、私と守一との関係を証明しなければ。
プロポーズ
デートの当日が来た。
いつもより早くスタジオから帰宅すると、
守一は椅子に腰をおろして、ぼんやりと空をながめていて、
そばを通ると、書類を差し出した。
書類は、会社との専属の契約書だった。
私はざっと目を通して言った。
「念のため私の弁護士に見てもらいましょう」
守一は黙ってうなずいただけだった。
「契約の給料で満足?」
「僕はどうでもいいんです。この契約であなたがいいと思うなら、
僕は印鑑を押しますよ」
私はうわのそらだった。
「なんだか、お急ぎの様子ですね?」
「私、今夜は英次と夕食の約束があるの。
あと一時間したら、英次が迎えに来るから」
私はバスルームに行って、熱いお湯につかって、
今夜のデートや守一の将来を思いえがいた。
守一はおそらく人並みの映画俳優になるだろう。
いやもっとすばらしい映画スターになるかもしれない。
英次はあいかわらず私を愛してくれている。
湯船で、なぜか「金曜はだめよ」を鼻歌でハミングした。
風呂からあがり、ガウンをまとって、
化粧台の前に腰をかけ、化粧を開始する。
終わると、ミッドナイトブルーのドレスを着た。
居間に行って、守一の前で尋ねた。
「私、どう?」
「僕は庭いじりの服装のあなたが好きです」
守一の目は、母親が子供をおいて、
おめかしして出かける時に、一人留守番で、
うらめしいように見つめる子供の目に似ていた。
英次が現われて、守一に気持ちよく挨拶した。
守一に、私は「行ってくる」と言った。
守一は玄関口に立ったままで見送った。
私は独り言を言った。
「美しい、じつに美しい、守一、行ってくるわ」
私と英次はシャレードで食事をして、
シャレードを出て、サルサを踊りにいった。
深夜になり、とうとう、深淵の時間が到来した。
久々に上機嫌の私は、英次宅にいた。
ふたたび味わうタバコのニオイ、男の重み。
私はベッドの深淵に沈んだの。
コトが終わって、タバコを灰皿に置いて英次は言った。
「なあ、サーキー。僕は、君を愛しているんだ。
結婚してくれないか?」
「いいわ」
快楽の残り火にひたっていると、どんなことでも言ってしまう。
男って、すぐ約束させるけど。
男との約束なんて、天気みたいなものよ。
守一が最初に出演した映画は、
日本人が強制収容所で恋人を銃殺される「収容所のミヤギ」で、
チョイ役だったが、スクリーンに映る守一が、あまりに目立つので、
映画関係者の間で、守一が話題にのぼるようになった。
守一の出番が終えて、守一は帰ろうとしていた。
私は、守一をデスクに呼んで、伝えた。
「しゅうちゃん! 次の出演作品が決まったわ」
私は親戚として振舞うために守一のことを「しゅうちゃん」と呼んだ。
「どんな作品ですか?」
「この前、私が書いていた『愛去り』よ」
「わかりました。じゃ! これで」
「待って! しゅうちゃん! 今度は主役よ。この脚本、持っていって!」
「主役ですか。ということは、健介役ですか?」
「そう! もう読んでいたので、イメージはつかめているでしょ?」
さすがの守一もフリーズしているように見えた。
守一は脚本を受け取ると、無言で帰って行った。
「まったく! 無口なお人形様みたいですね」と、秘書が言った。
「そうなの! 人間じゃないようなところがあるのよ」
「『愛去り』って、どんな作品なんですか?」
「愛去り、つまり愛の勝ち逃げをする話よ。
過去にもいくつか作品があって。
例えばね。渡辺淳一の『化身』なんかそうね」
「愛の勝ち逃げですか。『髪結いの亭主』は、どうですか?」
「それも勝ち逃げね。それも死ぬ勝ち逃げかしら?」
「面白そう。くわしく聞かせてください」
「夫婦がお互いに誤解してしまうの。
夫は置手紙を残して家を出るの」
「理由は何なんですか?」
「夫の父が家庭内で暴力をふるう人で、
母をボクシングのサンドバッグがわりにしているトラウマがあるのよ。
夫は妻に理由を何も言わないで家を出る」
「理由がわからないで家を出られるのはつらいですね」
私と秘書が、愛去り談義をしている時に、オズ監督が現れた。
低いアングル撮影で、胃を床につけてばかりいるので、
胃を痛めているらしく、頬がヤセこけた風貌だ。
秘書はお茶の用意に、黙礼して退室した。
「よう! 守一君は、いるかい?」
「あら! もう帰ったわ」
「そうか。それは残念」
「何か、あったの?」
「いや。せっかくだから、作品について話したかったんだ」
「しゅうちゃんは、ずいぶん前から脚本を読んでいるから、
つかみはいいかもしれないわ」
「そ~! 読んでいたなら安心だ」
「ねえ監督! 本当に守一でいいの?」
「ああ! スクリーンテストの時から何かあると注目していたんだ。
守一君はラッキーだよ。主役予定のアキラ側が辞退したからね。
アキラより、しゅうちゃんは、俺の求めていた主人公健介にぴったりだよ。
不幸中の幸いだよ」
「愛去り」の主人公健介はハンサムで孤独で寡黙なレーサー。
監督は、実在した、母親がギリシャ人でハーフのイケメン・レーサー、福沢幸雄をイメージしていた。
福沢に守一がそっくりだと監督は言った。
私には守一は断然に他の男優とは別格に見えたが、
いきなりの主役抜擢だけは予想外だった。
英次が結婚しようと執拗に迫るので、
私はありったけの外交的手腕を使って抵抗していた。
周りの友だち、取り囲む人たち、仕事関係者は、
私がふたりの男性の間で心を決めかねていると思い込んでいた。
まるで魔性の女のように思われていたのだろう。
英次の求愛と懇願するような守一の視線。
私がつまずいたのは守一の視線であった。
はっきりさせないといけない。
なすべきは守一の方に駆け寄って、
守一を両腕の中に抱きしめ、守一に尋ねるべきなのだろうか。
私の前には霧がかかり、森の中に迷ってしまうばかりだった。
守一主演の映画撮影が始まった。
いきなり、物語のハイライトの撮影になった。
原作での置手紙をオートバイでの別れに変えてしまった。
守一はハーレー(オートバイ)に乗った経験があるのだろうか?
ハーレーを上手に乗りこなせていた。
「しゅうちゃん、どこで覚えたの?」
「僕ハーレーファンだったんです」と笑って答えた。
夜が明けない4時頃、健介は芙美子をハーレーに乗せた。
「離婚してどうするの?」
「ひとりでさまようんだ」
「さまよって、なにをするの?」
「何度も言ったろう。なにもしない。さまようだけだ」
「健介さん、どっちへ行くの」とハーレーに乗せられた芙美子は尋ねる。
「北に行く」
是北道路の入り口に着くと道路に芙美子を下ろした。
「今日はどこまで?」と芙美子は尋ねる。
「わからない」
「気をつけて」芙美子は、いっしょに、
どこかへいってしまいたいと思った。
連れて行ってと懇願する目で健介をみつめた。
「別れ話が起きてから一度も泣かなかった。
芙美子、君は素敵な女だ」と健介は言った。
呆然と道路に立ちつくす芙美子をおいて、
「元気でいろよ」と最後の言葉を残して、
ハーレー独特の爆音を響かせて悠然と走り去っていった。
「カット」と監督が叫んだ。
守一にピッタリの役だった。
あらためて健介役への守一のなりきり様に震えを感じてしまった。
芙美子がもし私だったら、守一が去った後どうするのだろう?
私はふと思った。去った後は、原作にはない。
芙美子は20歳代だ、まだ若い。
監督の修正した脚本では、
芙美子は道路にひとり置き去りにされて悔しくてたまならい。
奮起してハーレーすなわち大型バイクの免許をとるために努力する。
免許を取得して、ハーレー仲間と是北道路の入り口に立つときがきた。
「さて、これからどっちへ行くのかな」とハーレー仲間のひとりが聞く。
「わからないわ。とにかく、北へ走ってみる」
「そのあとは」
「さあ」
映画はヒットして、守一を一躍有名にした。
映画「愛去り」はヒットして、守一を一躍有名にした。
映画「愛去り」は、4つの賞をもらった。
賞の会場で、私はお気に入りのピンクシャンペンを飲み上機嫌だった。
監督に質問したの。
「ねえ、監督。健介って、男のやせ我慢、ボギーなの?」
「う~~ん。俺は、こう解釈して映画にした。それは男の嫉妬と家庭内暴力だ」
「だから芙美子が、健介の義母を訪ねるシーンで、DVを、監督! 入れたのね」
「ああ。息子はあなたにDVはしませんでしたか、と尋ねさせる」
「義母は夫から相当なDVをうけていて、息子の健介は、それを見て育ったところを強調したかったのね」
「だから、健介の、精一杯のDVは、芙美子を道路に置き去りすることなんだ」
「なにか、映画『カサブランカ』で、
ボギーがバーグマンを突き放すのと似ているわ」
「僕には、君との、パリの思い出があるか」
と、監督は精一杯にボギーのような顔をして言った。
次の守一が出演する映画は仮題「亡命」だった。
季節は6月になっていた。
映画の制作会議が開かれて、脚本を書いた私は、物語の説明を始めた。
「簡単に言うと、栄次郎夫妻の亡命の話です。
青山栄次郎は青山光子の次男で、東京で生まれました。
青山光子は、一八九三年に当時のオーストリア・ハンガリー帝国の
駐日大使ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚。
二人の間に
長男・ハンス光太郎、次男・リヒャルト栄次郎が東京で生まれた。
青山光子はゲラン社の香水ミツコのモデルだという説がある。
ゲラン社は否定しています。
一八九六年に光子は、夫の祖国オーストリアへ渡る。
一九一五年に、栄次郎は舞台女優の井田ローランと結婚する。
一九二三年に栄次郎は『ヨーロッパは一つの共同体』という本を出して、
EU統一運動を進める。
栄次郎は欧州連合の父と言われています。
栄次郎は、ヒトラーを痛烈に批判した。
ヒトラーのドイツがオーストリアを併合する直前の日に、開いていたパーティーを急きょ終りにして、
オーストリアを脱出、カサブランカから米国に亡命します。
概要は以上です。何か質問ありますか」
撮影助手のBが手を挙げた。
「映画『カサブランカ』のモデルになっている栄次郎夫妻の実話ですが、
米国に亡命じゃなくて、日本亡命に変更は、なさらないのですか?」
「私も考えたけど、史実通りしました。その頃の日本はドイツと同盟を結び、
日米開戦前なので、日米戦争が終わった後に帰国する事実に従いました」
**
数日後のことだった。
私は、映画「亡命」での栄次郎夫妻のパリ脱出のシーンを書いていた。
パリにドイツ軍が迫っていた。
国吉と早川雪舟と利久は、パリのレジスタンスと協力して、
夫妻をカサブランカまで脱出させる。
「ティファニーで朝食を」で出てくるホリーも登場して、ドイツ将校を惑わせる。
秘書がやってきた。
「大変です」
「どうしたの」
「守一さんが取られました」
「取られた?」
「あの武藤に、買い取られました」
***
私を破滅の底まで落とした武藤オーナーが守一を買いとってしまった。
武藤にとってたやすい。
映画業界で武藤に逆らうものは誰もいなかったから。
風三郎の訃報で、武藤から電話があったが、私が逆上させるような発言をしてしまった。
武藤は、小物でも容赦しない。
私は、武藤の怒りを買ったようだ。
守一は正しい判断をしたと思った。
私を助けるために買取を辞退しなかった。
私が会社を首になり、業界から干されるからだ。
**
武藤は守一を呼び、現在の契約より破格の条件を与えて、守一と専属契約した。
私は仕事を終えて、帰宅して、守一に言った。
「武藤には逆らえないわ。私が反対したら、
会社がどんな仕打ちをされるか、悔しいけど仕方ないわ。
本当に嫌なヤツ。それで! 武藤との契約はどうだった?」
「大きな机でしたね。ヤツは椅子に座って、タバコを吸ってました。
ヤツは僕に腰掛けろと言って、他の男と電話で話していました」
「で! しゅうちゃんは、どうしたの?」
「ヤツの机の上に雑誌が置いてあったので、僕はそれを読みはじめました」
私はうれしくなった。
一人の新人の若者が武藤の鼻先で雑誌を読んでいるなんて、面白い光景だった。
「それで?」
「ヤツの電話がすむと、いったい君は歯医者にでもいるつもりなのか、と僕に言いました」
「あなたは、なんて答えたの?」
「僕は歯医者へは一度も行ったことはない、と言いました」
「それから?」
「それから、別に何も、ヤツは口の中で、なにかぶつぶつ言ってから、
ヤツが僕に興味を持って、光栄に思うだろうとか言ったと思います。
そして、僕を買いとって映画俳優として成功させてやる。
ええと、ヤツはなんて言ったかな。
そうそう、千年に一度の美男子とか」
守一は笑って、さらに付け加えた。
「千年に一度の美男子、この僕が?
僕はヤツに、そんなことはどうでもいい、
ただお金をたくさん儲けたいだけだって言いました。
そういえば、僕、ロールスを一台見つけましたよ」
「なんですって?」
「ロールス・ロイスですよ。
こないだあなたが英次さんといっしょに話していたでしょう。
身をかがめなくても乗り込めるっていうやつ、
僕、あなたのために1台見つけました。
それは古い年代の車ですが、とても天井が高くて、中は金ずくめなんです。
その頭金を払えるくらい武藤がお金をくれたので、注文してきました」
私は一瞬、唖然として、
「私のためにロールス・ロイスを買ったっていうの?」
「ほしくなかったんですか?」
「あなたは、そんな私のちょっとした望みを全部かなえてくれるつもりなの?
すこし、どうかしてやしない?」
「あなたに喜んでもらえると思ったのですが。
あ! そうだ! 失礼します。
今晩、出かけなければなりませんので」
そう言うと、守一は立ち上がり、すぐ外出した。
私は守一を傷つけてしまった。
言いすぎたと後悔でいっぱいになった。
守一は、その夜帰ってこなかった。
ようやく守一にも恋人ができたのだと思った。
翌日、守一は朝になっても帰ってこなかった。
朝から緊急の会議があった。
プロデューサーが言った。
「『はくすきのえ』の制作が延期になった」
「延期の理由は?」と助監督が尋ねた。
「会社に圧力がかかったらしい」
「竹島さんも頑固だから。竹島の件はカットすればいいのに」
と延期の理由を知っている制作部の部長がつぶやいた。
竹島の件とは、戦後のどさくさに韓国軍が竹島に上陸して日本人の島民を追い出し、
赤子まで殺した虐殺事件を描いている部分だ。
プロデューサーが言った。
「まあ! 延期の件はこのへんにして、つなぎの企画を考えたい」
「なにか! 考えはあるの?」と私は尋ねた。
「マフィアになった日本人は、どうかな?」
「ああ~それで! 私に相談なのね!」
以前映画化を提案していて、ぼつになった。
「わかったわ。進めてみるわ」
私はデスクに戻って、整理してみた。
日系アメリカ人として初めてマフィアのボスに昇りつめた男がいた。
衛藤健、実在の人物なの。
父・衛藤衛は、大分県竹田に生まれる。
1917年(大正6年)に日本政府より、日系アメリカ人の実態調査を命じられ、カリフォルニア州に派遣される。
現地の日系人の荒んだ状態を目の当たりにした衛藤は、
日系アメリカ人を救済するために、ストックトンで教会を開く。
衛藤健は、カリフォルニア州ストックトンで生まれる。
幼馴染の利久と寒川らと仲間を組んで、
ニューヨークのイタリア人街の賭博場で働く。
衛藤健は賭博場でのカードさばきが絶妙で、あっというまにマフィアのボスに重用される。
寒川は黒人のハーフで、いじめにあい、利久がいじめたマフィアの幹部を殺してしまった。
利久と寒川は、ホリーに助けられて 国吉のアフリカ撮影旅行に用心棒として同行。
カサブランカに逃亡する。
衛藤健は、1941年12月7日に太平洋戦争が始まると、
日系人の強制収容命令によりアイダホ州のミニドカ収容センターに収容される。
大戦中に衛藤健は日系二世部隊として従軍する。
戦争が終わると、カルロ・ガンビーノ(映画「ゴッドファーザー」のモデル)と会って、
マフィアの一員になり、マフィアのボスへと出世する。
映画「邂逅」
一週間程度で、衛藤健のプロットを仕上げて、プロデューサーに提出した。
あとは脚本家が仕上げることになった。
七月の午後だった。
私は次の仕事のために、先輩の石井和子プロデューサーの所へ行った。
応接室に入ると、石井は知らない女性といた。
女性は全身黒ずくめで、喪服とは違ったお洒落な雰囲気だった。
石井は言った。
「サーキーちゃん! 時間通りに来たわね。
本当に引き受けてもらっていいの。しゅうちゃんの次作は、いいの?」
「今、しゅうちゃんはテレビドラマにとりかかっています」
「どんなドラマ?」
「死神役」
「まあ。こわい」
「死神役は美男俳優の登竜門なんです」
「へえ~ そうなの」
「ロバート・レッドフォードも新人の頃にテレビドラマで演じたんですよ」
「へえ~ レッドフォードがテレビに出ていたの? どんな作品?」
「『死神の訪れ』というタイトルで、彼が演じて以来、死神は美男というのが定番になった作品です」
「そう! テレビ放映が決まったら、教えてね」
と石井は言って、「さてっと! 本当にいいのね?」
「まだ社長には話していませんが、私、守一の担当からは降ります。
それに、前からこの作品、やりたかったのです」
「そう! 武藤ね。あれは天皇だから」
「ええ」
「ありがたいわ。ラブストーリー『邂逅』を、
日本を舞台にしてリメイクするのは、私にとって念願なの。
サーキーが書いてくれるなら心強いわ。
あ! それから紹介が遅れたけど。新人さんを紹介させてね」
石井の50センチ隣に、黙って座っていた黒づくめの女性が立ち上がって、私に一礼した。
「元岩ケイコさん。脚本家志望なんだけど、最初は雑用でもいいから、
どうか鍛えてくれない。いいセンスしていると思うの」
元岩は「はじめまして。サーキーさんのお手伝いができて光栄です。
よろしくお願いします」と言って深々とおじぎした。
「責任重大ね、よろしく!」と、私は言って尋ねた。
「元岩さん、映画『邂逅』を観たことあるの?」
「ええ、『めぐりあい』の映画って、いっぱいありますよね。
私はウォーレン・ベイティの『めぐり逢い(1994)』はピンときません」
「そうなの! アイリーン・ダンの作品をベースに脚本にしようと思うの。
古い映画だけど、公開当時は全米の、いや世界中の女性が大泣きした作品なのよ」
「ええ、その映画を観て泣いている場面の映画がありますね。
メグ・ライアンの『めぐり逢えたら』とか、ほかにもいくつか」
と元岩は言った。
「『めぐり逢えたら』は完全にケーリー・グラントの『めぐり逢い』のオマージュね」と、私が言うと、
「1957年、日本で公開されたリメイク版は、配給収入9位。8位がフェリーニの『道』ね。
ハッピーエンドで泣けるラブストーリー。
淀川長春さんが『泣けた』と感激しているわね」と、石井が言った。
「でもね。元岩さん! この作品、今、忘れ去られているのよ。それで復活させたいの」と私は言った。
「お好きなんですね?」
「私の理想のラブストーリーよ」
「ああ! それでピンクシャンペンがお好きなんですね」
「私が好きなの、知っているの?」
「ピンクシャンペンがお好きだと、どこかの記事で読みました。
ピンクシャンペンはケーリー・グラントの『めぐり逢い』のキーワードですよね」
「詳しいわね」
石井が口をはさんで、元岩に尋ねるように言った。
「偶然に、二人はめぐり逢うが、二人共に既に婚約者がいた。
そして、天国に一番近い場所で半年後に会う約束をする。
ニア・ザ・ヘブン! 天国に一番近い場所ってどこだっけ?」
「エンパイアステートビルの屋上ですね」と元岩が言った。
「世の中うまくいかない。婚約者がいる時にかぎって、他に良い人とめぐり逢う」と私が言うと、
「うまくいかないのが世の常。二者選択を迫られる」と石井が続けた。
「半年後に会うために、二人は婚約者との清算を行う」と私が言うと、
「そして、半年後の会う日に彼女は来なかった」と元岩。
「人生って、そんなもので、婚約者を苦しめたしっぺ返しが来る」と石井。
「運命は二人を再会させる。しかし彼女は、行けなかった理由を彼に教えない」と元岩。
「それは彼女の彼への思いなんだけど。
彼女はガンとして女の意地を通して理由を言わない」と私。
「この健気な彼女に、ほとんどの女性が大泣きするのよね」と石井がつづけた。
天皇の死
ケイコとの打ち合わせが終わって、天皇が関わる以上、
私は守一の担当から降りることを告げようと社長室に行った。
「社長は?」
「社長、急用で不在なんです」と秘書が答えた。
私が困った顔をしていると、秘書が言った。
「聞きました? ビッグニュースですよ」
「どうしたの? 楽しそうね」
「武藤オーナーが死んだんです」
武藤の死を聞いて私は、恥ずかしいけれども秘書と同じように、
まるで吉報が来たかのように思った。
でも、なぜ死んだのだろう。
武藤死亡に関する情報はテレビ以外にスタジオ内で、
またたく間に入手することができた。
オーナーは新宿二丁目にある特別クラブで、
ドアノブに紐を通しての首つり状態で発見されたのだ。
ゲイ専門のクラブで、武藤は常連だった。
スタジオ中がわきたっていて、陽気に騒いでいるように思えた。
私には不謹慎に思われたが、私をいじめた男だった。
スタジオの連中は、一度は、武藤に辱められたか、
やっつけられたりしていた。
守一が今日は撮影中で、スタジオ入りしていると聞いた。
現場に行くと、守一がいた。
テレビドラマ「優しい死神」の撮影は進んでいた。
主人公は、死期が近づいた老婦人で、死神が見えるのよ。
お迎えまたは死神。
老婦人は死神に触られると死んでいく人々を何度も目撃する。
死神は普通の人間なのだが、老婦人にしか見えない。
とうとう死神に会わないために自宅に鍵をかけて閉じこもってしまった。
「しゅうちゃん、ニュース聞いた?」
「ええ。もちろん。突然今日撮影になったんです。
明日は撮影を休むそうです。喪のしるしに」
「僕が、武藤に幸運をもたらしたとは言えないようですね」
「あなたの飛躍のチャンスがなくなったわね」
守一は、それはどうでもよいということを手で示した。
「車、ありがとう」
守一は私を見つめ、急に赤くなってうなずいた。
「私、あまり突然だったので驚いただけよ。
ロールスのこと、とても嬉しかったわ。
変なことを言って悪かったわ」
「僕のために、悪かったなんてお思いにならないで下さい」
守一の出番が来た。
ドアを叩く音。
「僕だよ」
「僕って、誰よ?」
「息子のケンジだよ」
「やめて。息子は中東でゲリラに処刑されたんだから」
「僕だよ」
「嘘でしょ。息子なんて。わかっているの。だまされないわ」
「母さん! 僕だよ!」
「うそよ、息子なんて。私をほっておいて。わかってるのよ。
あなたが何者かわかるの、私には」
チェーン越しにドアをちょっとあけて外をのぞく。
「ケンジなのね。生きていたの?」
ドアチェーンをはずしてドアをあける。
「僕だよ」
「本当にそうなの?」
「どうして入れてくれなかったの?」
「死神よ。ねらっているの、中に入ろうと。
ドアをたたいて、入れてくれというの。
あけずにいたら、去っていった」
「はい。カット」と、監督は言った。
まさに守一のはまり役ね。作った甲斐があるわ。
話は、老婦人が、息子が死神だと気づく。鏡に息子の姿が映らないの。
死ぬのが怖かった老婦人は、苦痛もなく、幽体離脱して、息子と飛び立つ。
しばらくして、老婦人の住んでいた一軒家は取り壊される。
残骸の中から老婦人の遺体が見つかる。
ティファニーで朝食を
カポーティが書いた「Breakfast at Tiffany’s ティファニーで朝食を」は、
20歳の頃に、田舎からニューヨークに来た頃のカポーティの思い出を書いた作品。
カポーティは安いアパートに住み、そこで主人公の女性ホリーと
大家さんのジャパニーズアメリカン(日系)のユニヨシと出会う。
ユニヨシは、実在した画家・国吉康雄でカメラマンがモデル。
「ティファニーで朝食を」では、ユニヨシがホリーとアフリカに行って、
撮影された写真のことが書かれていた。
ホリーは、行方不明になるが、ある日南米から、
ホリーの絵葉書が届くところで小説は終わる。
私は、助手のケイコと、映画「亡命」について、
プロットをまとめていた。
ケイコが言った。
「国吉、国吉と出てきますが、どんな人物なんですか?」
「実在の画家。ほら『ティファニーで朝食を』で、日本人が、でてくるでしょう?」
ケイコは手元のパソコンで調べて、
「ユニヨシですか?」
「そう!画家で写真家なの。国吉の絵のモデルがホリーよ」と、
私は言うと、「国吉の経歴でてきた?でてきた画面読んで」
ケイコは、ネット上の国吉履歴データを読む。
「国吉は1906年単身アメリカに渡り、
1916年アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(The Art Students League of New York)で学び、
1933年同校で教授に就任。
20世紀前半、アメリカを代表する画家として認められている」
「高村光太郎もアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで学んでいる」
「卒業生に日本人多いんですね」と、ネットで調べて言った。
「早川雪舟も、国吉に絵を習ったかもしれない。
早川雪舟はパリにわたり、永住するの。
アメリカではハリウッドで一躍トップスターとなったけど。
勘がいいのね。アメリカでの日本人差別を感じていたのよ。
ドイツ軍によりフランス全土が占領されたけど、雪洲はパリに住み、在住邦人たちにも頼られていたみたい。
第二次世界大戦終結後に日本が連合国に占領された後も、雪州はパリに住むことを許され、
映画に出演したり、絵を描いたりと細々と暮らしていた。
政治活動はしなかったらしいけど。支援はしたと思うの。
特に栄次郎はオーストリアからパリに逃げて、
その後ドイツがフランスを占領する直前に、栄次郎のパリ脱出を黙っているとは思えない」
「いたるところに日本人がいますね。
もしかしてホリーは日本人?
ホリーって、実在するんですか?」
「村上春樹氏も言っているけど。
カポーティは、体験したことしか書けないので、
ホリーは、いるはずよ」
「国吉の作品に、ホリーの顔が見られるのでしょうね。見てみたいですね」
「でも、オードリーヘップバーンとは、真逆だそうよ。
カポーティは、イメージが違いすぎると激怒したらしい。
ジョディ・フォスターを見て、『彼女こそホリーだ!』って、言ったそうよ。
私も国吉が描いた女性の絵を見たの。
絵のモデルはホリーだと思った。ジョディ・フォスターに似ていた」
「日本人がアメリカで迫害されていたことを強調しますか?」
「そうね。どうでしょう。 今、思案中。
ユダヤ人のように、日本人も、アメリカで迫害を受けていたことを知らない人もいる。
財産も家も没収されて、収容所に入れられて、1984年の映画『ベストキッド』のように、赤ん坊が死んだり、
老婆が虐殺されるとか。悲劇よね」
「日本人は災害に適したDNAで、すぐに水に流そうとしますから」
「今、調べているんだけど。
アメリカ国籍を持つ移民一世と、その子孫で日本人の血が16分の1以上混ざっている
日系アメリカ人達の強制立ち退きさせて強制収容させた。
16分の1って、どう証明するの?
カナダやメキシコなどの中南米でも収容所送りとなった」
「ユダヤ人迫害映画は多数あるけど、日本人迫害映画は少ないですね。
『ベストキッド』だって、2010年に中国米国合作でリメイクして、
北京へと移り住んだアフリカ系アメリカ人の少年を主人公に、
同じタイトルにして、日本人が迫害された映画の方を忘れさせようとしているとしか、思えないですね」
マリア
私は、武藤の葬儀から帰り、デスクで仕事をしていると、葬儀に参列するために、
パリから帰国したマリアが突然現れた。
「ちょっといいかしら」と、無愛想な顔をしてマリアが言った。
「ええ」
「ご無沙汰ね。パリから戻ってきたわ。風三郎のことでは、いろいろとお世話になったようで」
「いえ、私なんか。英次さんがいろいろと動いたのよ」
私を捨てた風三郎はマリアと結婚して2年後、今度はマリアが風三郎を捨てたのだった。
「わたくし、昨日風三郎の家に行って、遺品を見ていたの。そしたら、私がプレゼントしたカルティエのライター、ダイヤのカフスとか、他にもあったのだけど。見つからないの」
マリアは、私が横取りしたとでも言いたそうな疑惑の目をしていた。
映画「サンセット大通り」に出てくる女優のような顔だった。
私は、「知らないわ」と泣くのを我慢して答えた。
マリアに捨てられた風三郎は、落ち目になり、武藤にも、どん底まで落とされ、私は精一杯に風三郎のめんどうをみた。
薄情きわまりないマリアに疑われるなんて。
葬儀を終わり、一緒に帰った守一が私の部屋へやってきた。
マリアの顔が鬼から天使に変わった。
「あ! あなたが守一さん」
守一は何も答えなかった。マリアとの一件を立ち聞きしていたのかもしれない。
私のところへ来て、心配顔で尋ねた。
「大丈夫ですか?」
私は守一の顔を見ると今にも泣きそうで、じっと我慢した。
マリアは守一に無視されたことに、大女優としてのプライドを傷つけられたようだった。
「何様のつもり。まったく無礼だわ。そこのお若いの、ちょっと有名になったからといって思い上がらないことね。
いいこと、サーキー!
遺品の件はちゃんと調べさせてもらいますからね。
覚悟してよ!」
私はぐっとこらえていた。
マリアが去ったあとに守一は憐れむように私を見つめた。
私は憂鬱になった。これからマリアの執拗な嫌がらせがあるだろう。
「これからめんどうなことが起こりそうですね。僕がなんとかしますから」
「ありがとう。でも、しゅうちゃんは、気にしないで仕事に専念して」
先輩の石井プロデューサーが映画「めぐり逢い」で
ロケハンに出かけた。
私が石井の代わりに映画学校の臨時代理講師になった。
石井からメールがきていた。
「サーキーさん、映画カサブランカの講義なの、もうお任せね。
だって私より詳しいから。よろしくね」
場所は高田馬場だった。
生徒は10名程度だった。
ケイコも11名目として席に座ってくれた。
私は、教室の壇上に上って言った。
「今日は、石井先生の代理として映画『カサブランカ』をお話しします。
映画『カサブランカ』は、アメリカ映画の国宝。
制作会社ワーナーブラザーズのエンブレムに、
カサブランカの主題歌『アズ・タイム・ゴーズバイ』が使われています。
『カサブランカ』は、アカデミー作品賞をとり、マイケル・カーティスは監督賞を受賞。
脚本のジュリアス・エプスタイン、フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの三名が脚色賞を受賞しました。
アメリカ脚本家組合が四千本の映画から『カサブランカ』を一位に選らんでいます。
最初に申し上げておきます。
じつは、私の祖母が「カサブランカ」の原案を、ハリウッドに持ち込んだんです。
もちろん、映画の脚本にも携わりました」
私が一気に話すと、聞いていた学生やケイコの表情が変わった。
**
「映画がヒットする。
それもアメリカ人が国宝だと称える映画は偶然に産まれるのです。
最初に名作を作ろうと力んでも、できるものではないのです。
私の祖母である愛理は日系アメリカ人で、カルフォルニア州で産まれました。
愛理が持ちこんだ原案の戯曲『みんながリックの店にやってくる』は、
愛理の兄・利久の店の話です。
戯曲は、またユダヤ難民の実態を描いたストーリーでもあります。
一九三八年に、米国高校の英語教師バーネット夫妻は、夏休みに、ヨーロッパに旅行に出かけるが、
それは、親戚のユダヤ人の国外脱出を助けるのが目的でした。
夫妻はフランス南部の地中海を見下ろすナイトクラブに行く。
そこでジャズを演奏していたピアニスト・寒川と知りあう。
寒川は、日本人と黒人のハーフで、『サム』と呼ばれていた。
夫妻は、寒川が移籍するカサブランカの利久の店に同行。
利久の店では、偽造パスポートを求めてユダヤ難民があえいでいた。
難民をだます詐欺や肉体まで売る難民の話などを見聞きして、
これは戯曲になると思ったようです。
バーネットは帰国すると、同僚のジョン・アリソンと二人で、六週間でこの戯曲を書き上げた。
だが、無名の二人。
ブロードウェイのプロデューサーに見せるが見向きもされなかった。
バーネットはアメリカで画家であり大学教授をしている富豪の国吉に読んでもらう。
国吉は自分が投資した店の話だと、思わず読み込んだそうです。
利久の妹・愛理がハリウッドで脚本の助手をしているので、急いで、愛理に戯曲を送りました。
国吉は米政府からプロパガンダの仕事を依頼されていた。
戦時中のアメリカでは国民の士気を高めるプロパガンダ映画が必要で、
映画の中身は、どうでも良かった。
映画は、先に上映日が決まっていた。
上映日は、連合軍がカサブランカ侵攻する一九四二年十一月二十六日。
戯曲は四二年一月にワーナーに購入されたばかりで、脚本はまだできていなかった。
あと九か月もない。
ワーナー側は、映画は駄作でかまわない、やっつけの、ただのプロパガンダ映画という認識となった。
愛理はプロットを書きました。
日本人ハーフの栄次郎が、ヒトラーに狙われていて、フランスから米国へ亡命した。
これは実話です。
この亡命の話を基に、映画では、栄次郎が利久の店に来て、亡命するストーリーを作ったのです」
今日の私の講義はこれで終わりにします。
ご清聴ありがとうございました。
トーク番組「午後に逢いましょう」
テレビドラマは話題になり、
トーク番組「午後に逢いましょう」に出演することになったの。
本当は、守一が番組に呼ばれたのだけど、守一は出演拒否。私が呼ばれたの。
「今日のお客様は、話題のドラマ『優しい死神』の脚本を書かれたサーキーさんです」と、いつもの紹介文句で始まり、「私、守一さんには、うっとりしましたわ。世の中にあんなに美しい方がいるなんて」と、司会者・泉川レイコが言う。
私は久々のテレビ出演で、舞い上がってしまったの。何を話したか思い出せない。
強調したのは、死神役は美男という定義があり、
元祖は「死神の訪れ」で、ロバート・レッドフォードが出演。
「ジョーブラックをよろしく」では、ブラッド・ピット。
「死神の精度」では金城武。
死神役は美男俳優の登竜門だから、守一の初テレビ出演として死神作品を作ったと話した。
「それでは、死神が見えてしまった老婦人の、ドラマシーンを、ちょっと観てみましょう。
最初は死神をスーパーマンと間違えるのです。どうぞ」ナレーションが始まる。
「老婦人は最初、スーパーマンだと思った。
けれど自分にしか見えないことに気づく。スーパーマンは女性を抱えて空を飛んでいく。飛び立った場所には同じ女性が横たわっていた。老婦人は思った。
あれはスーパーマンじゃなくて、死神だと。
それから老婦人は誰にも会わずに、家に閉じこもってしまった。
食料は玄関先に届けさせて」
休日、私は自宅でゆっくりしていた。
守一はロールス・ロイスを整備したり、車の中に、本やタバコやお酒を持ち込んで、根城にしてしまった。
私は居間で資料をケイコに送った。
「めぐり逢い」をリメイクするに、あたって、
レオ・マッケリー監督がリメイクした舞台裏の資料を入手した。
プロデューサー・ジェリーウォルドは
情感がこもった上品な恋愛映画を作りたいと、
レオ・マッケリーに相談する。
レオは答えた。
「20年ほど前にシャルル、アイリーンで、やったラブアフェアーはどうだろう。
けれど脚本を新しく書き直さないと時代にそぐわないし、
困ったことには、ぼくが考えている主演者が、いま留守なんだ」
「誰と誰だな?」
「ケーリーとデボラ」
なるほど、ケーリーはクレイマーの「誇りと情熱」の撮影でスペインへ。
デボラはジンネマンの「尼僧物語」で西インド諸島にいる。
ジェリーウォルドは、2人のマネージャーに交渉すると、
少し待てば二人一緒に身体があくことがわかった。
こうなると脚本家と音楽家を物色しなければならない。
脚本家にはアルフレッドヘイス 作詞家には「80日間世界一周」のハロルドアダムスンに白羽の矢を立てた。
装置担当にライルホイラー、助手にジャックスミスが決定。
監督と脚色者で場面の下図ができていく。
衣装主任のチャーリーメイヤーの方は、デボラが着る衣装16着を約6週間でつくる計画となった。
主演者二人のほかに重要な人物が、もう二人必要だ。
一人はイタリア生まれの主人公の祖母役、
もう一人は三角関係の一辺をなす若い男。
祖母役はイタリア語がしゃべれて、芸も達者な女優でなければならないが、なかなかみつからない。
やっとキャスリーン・ネスビットに決まったが、フランス語は流暢に話せるが。
イタリア語は駄目なのだ。
それでケーリーをイタリア人でなくてフランス人にした。
これより苦労したのが三角関係になる男の選択だった。
あまりファンに馴染み深い二枚目だと話しの底を割ってしまう。
やっとのことでディック・デニングにすると決めた。
ディックは映画出演は、まだ少ないテレビ俳優である。髪は褐色だ。
デボラの髪はレッドゴールドだし、グラントは黒髪だから、
三人並ぶととコントラストが強く出ると考えた。
ジェリーウォルドは主張する。
「この映画は人間としての価値を失いかけた二人の男女の物語である。
偽善的な安易な生活にひたっていた二人が、そこから脱して、
生きていくことができるだろうかを問う映画にしたい。
ハリウッドはこんな映画を作らなければならないと声を大にして言いたい」
私はケイコに電話した。
「ケイコさん! 資料みた?」
「はい!みました。面白い舞台裏ですね」
「配役によって、シナリオを変えるのね」
「なぜ? ケーリーに?」
「ケーリー・グラントは怪物よ。
でも、監督も撮影に入ったら困ったかも。
セリフなしに、勝手にアドリブするの。
あの船上シーンは、脚本家いらず。デボラと勝手にアドリブしたのよ」
「だから、二人の演技は、いきいきしてますね」
「アドリブができる役者は貴重よね。
北野監督が大杉漣を人気役者にした話は、すごいわ。
大杉漣は役者として鳴かず飛ばずで、
北野のオーディションを最後に、役者をやめて、田舎に帰ろうとしたの」
「え! そうなんですか」
「そして、オーディションに一時間 遅れてくる。
もう帰ろうとする北野と大杉は、すれ違った。
大杉漣が『遅れてすみません』と言った。
北野は、『ちょっと顔を見ただけなんだけど。
この人使わなければと思った。
でも、役はまだ決まっていなかった』
北野は言うの『大杉は器用なんだ。
映画ソラチネで、借金の取り立てをするチョイ役で。
アドリブで演技して、と言ったら、
アドリブを、えんえんとやるんだ。
うまいな!この人!。
それで大杉のアドリブを、あとで台本に。
あまりにアドリブがうまいので
そのシーンだけで終わらずに、最後まで出演させた。
監督より役者が支えてくれるんだ』
アドリブは役者を人気にするのかもね。
ケーリーはアドリブの天才で怪物と言われた。
米映画協会の投票で、男優二位に選ばれた」
ケイコとは、「カサブランカ」の話をして電話を終えると、再び電話が鳴った。
英次からだった。
「サーキーかい」
「ええ! どうしたの?」
「マリアが車の事故で死んだんだ」
「え! 事故って?」
「今朝、別荘付近で、カーブでハンドルをきりそこねて、100メートル下の谷に、車ごと落ちて死んだそうだ。
グレース・ケリーと同じ劇的な死に方だね」
予 兆
大女優、マリアの葬儀が終わり、自宅へ戻って、
私は英次と守一の間に腰をおろしていた。
私は英次に尋ねた。
「ねえ、死を決めるのは何?
なぜ私は生きて、あの三人は死んだの?なんだか、次は私のような気がするの」
テレビドラマのように、いつ私に死神が来るのかしら。
「無理もない、風三郎、武藤、マリアと立て続けだ。
サーキー、考えすぎだよ。
君は元気だ、すぐに死にそうな感じはしないよ。
まあ人間はいつか死ぬわけだが」
守一は黙って聞いていた。
「神様はどこで決めるのかしら、誰を死なすかよ。
あの三人と私、違いは、なにかしら?」
「もし神がいたとして、死の決定が神によってなされるとは思えない。
これは神にもわからない、つまり自然のなりゆきだと思うんだ。神は自然というものを作った。
あとは自然まかせだと思う」
守一が突然に、たどたどしく口を開いた。
「あなたは死にませんよ。
なぜかと言うと、温かい人間だからです。
あなたほど、心の温かい人はいません。
普通、人は他人に温かくありません。
だから、自分自身に対して、温かくありえないのです」私は、守一が何を言っているかわからなかった。
「しゅうちゃん! 意味不明よ」
「えっと。あなたは、許されないことを、していないからです」
「そんなことはないわ。私は人を傷つけてばかりよ」
「いいえ。あなたの守護霊は、ちゃんと見ていますよ。
養母が言ってました。
守護霊は、三人いると」
「そんなの見れるの?」
「はい! 僕には見えます」
「それって『ビューティフル・マインド』みたいね」英次が言った。
「統合失調症になると見えだすんだろ?
『オーラの泉』のようなことを言いだしたよ。おいおい。ちょっと外に飲みに行かないか?」英次が守一をはじめて誘った。
驚いたことに守一はついてきた。
私はおめかしする心境ではなかったので、バンダナをして、横須賀のアメリカ
ンスタイルの店へ出かけた。
私たちは三人ぎゅうぎゅう詰めになって英次の新しいポルシェに乗った。
横須賀の店「ワイルドワンズ」は、サーファーやバイクのライダーの若者でひしめいていた。
私たちは幸運にも空いたテーブルを見つけて座れた。
守一は私たちに気をきかせたのか、カウンターバーに行って、しばらく戻らなかった。
守一が戻ってくると、もうかなり酔っていて、いつもの守一ではなかった。
私は驚いた。
守一が酔うほどに飲んだのを初めてみた。
英次の追加のウイスキーを注文するために私はカウンターバーに行った。
席に戻ろうとした時だった。
モヒカン頭の若者が突然席を立って私とぶつかった。
「ごめんなさい」
「このばばあ! 気をつけろ!」とモヒカンがわめいた時だった。
守一がモヒカンの喉につかみかかり、椅子やテーブルと共に雪崩のように床に倒れた。
モヒカンにまたがり、しっかりと喉を押さえこみ、柔道の寝技のように決まっていて、モヒカンは窒息死寸前の状態となった。
モヒカンの仲間ら数名が守一を引き離し、他の男らが守一を押さえつけた。
英次は、大声で「警察が来るぞ」と叫んで、取り押さえた2人の手をふりほどくと、すばやく守一を羽交い絞めにして、急いで店から引きずり出して、ポルシェに乗せた。
守一は、英次が警察と口にした時点でおとなしくなっていた。
車の中では守一はぐったりとしていたが、自宅に着くといきなり起きて車を出て、家の中に姿を消してしまった。
英次が言った。
「守一の目つき見たかい。
あれは殺気があった。
本当に殺そうとしていたぞ」
「そう言うけど、英次、あなたはじっと見ていただけじゃない。お酒をそんな に飲んだことないのに一気に飲んだからよ。守一は酔っていたのよ」
「とにかく守一が暴力的であることは今回でわかった。
僕はサーキーが心配なんだ」
「私に危害を加えることはないと思うの、これは私の勘だけど」
「いずれにしても。
僕は本当のところ守一が好きになった。
なんか可愛い息子のような気がした。
守一は今に大スターになる。
すると君は近い将来、守一という重荷から解放される。
会社も守一への宣伝に集中するそうだ。
守一には間違いなく才能がある。
ねえ、サーキー! いつ僕と結婚してくれる?」
「そのうちね。ごく近い将来」
「ふ~」と英次はためいきをついて帰っていった。
私は未来の大スターがどうしているか見るために家の中に入った。
居間のじゅうたんの上で、守一は顔を両手でうずめて横たわっていた。
守一は「アイツは死ぬべきだ。死ぬべきだ」と、うわごとを言った。
「しっかりして、そんなことを言うもんじゃないわ。あんな男を殺して何の意味があるの?」
私は守一の上に毛布をかけてやった。
今日は疲れてしまったので、私は寝るために自分のベッドへ向かった。
悪 夢
熟睡はしたけれど、悪夢におそわれた。
私はいつのまにか、ドラマ「優しい死神」の主人公になっていた。
「だましたのね。あなたは死神なのね?」
「そう、だましたんだ」と死神の守一は言った。
「でも、なぜ? いつでも私を死の世界に連れて行けたのに。親切ぶって。信用させて」
「理解してもらいたかった」と私の前に立ち上がり言った。
「僕は悪者? そんなにコワイ?
怖いのは僕じゃない。未知のものが怖いんだ。怖がることはない」
「でも怖いわ」
「もういいんだ」
死神の守一は手をさしだした。
「いやよ。死にたくない」
「僕を信じて」
「いやよ」
「お母さん」
何度かためらったが、私は死神の守一の手をつかんだ。
「ほら、平気だろ。何の苦痛もない。
心配しなくていいよ。簡単だろう。
終わりでなくて始まりなんだ」
「いつ始まるの? いつ逝くの? いつ?」
「ほら」、と死神の守一がベッドへ目線を向けさせた。
ベッドにはもう一人の私が眠っていた。
「もう出発したんだ」と死神の守一が言った。
突然、場面が変わったの。
秋葉原の交差点だった。
周辺の人は突然に逃げ出すが、私は近眼なのでぼやけて何が起こっているかわ からない。目の前にサバイバルナイフが見えた。もう遅い。私は何度も刺されてしまった。
最近読んだ、『イットと、まちがわれて 実話IT業界の裏側』のシーン。
私の魂が浮上した。天国に行ったか地獄に落とされたか、わからないけど、目覚めると私の首を誰かが、しめているの。
「苦しい!」
守一だった。
「あなたは、死ぬべきです」
「やめて。苦しいわ」
「もう終わりなんです」と言って、守一は私の首をしめ続けた。
「はあっ」と叫んで、私は目がさめた。
「夢なのね!」とため息をついた。
私はまた眠りにつこうと思ったけど、
突然に、ひとつの考えが頭に浮かんでしまった。
浮かぶと、戦慄を覚えて眠れなくなった。
ずっと布団の中で、守一と会ってから起きた事件を、
ひとつひとつ糸をたぐりよせるように、つじつまあわせをしていた。
再び恐怖を感じて震えた。
とうとう眠れないままに、朝を迎えた。
守一が起きてきてニ階から階段を降りてくる。
私はビクッとして飛び起きて、どこかに隠れたいと思った。
守一は口笛を吹きながら、ご機嫌そうにお湯を沸かしている。
私は一大決心をした。
おびえていても仕方がないと思った。
私は守一のいるキッチンへ入っていった。
守一は私を見て驚いた表情をしていた。
私はあらためて守一をじっくりとながめた。
美しく、優しくて、純情な顔をしている守一。
守一は言った。
「昨夜は申し訳ありませんでした。
僕は、もうあのようなことはしませんから」
「あれだけなら、別に問題はないと思うけど」と、つぶやくように言った。
テーブルの椅子にすわると、なんだか少しふるえがおさまった。
「どうしたんですか?」
「守一さん! あの人たちを殺したのは、あなたではないでしょうね?」
「どの人たちのことでしょうか?」
「みんなよ! 風三郎、武藤、マリア」
「ええ、そうです、僕です」
私は全身の力が抜けて、恐ろしすぎて、椅子の背にもたれかかった。
「でも心配することはありませんよ。なんの証拠も残していません。
亡くなったので、もうあなたを苦しめませんよ」
と言うと、守一はできあがったコーヒーをカップに注いだ。
「守一さん、あなたは気でも狂ったの?
人を殺すなんて、そんなこと許されるわけないわ」
「しかし、人は許されないことをしている。だましたり、お金で買ったり、汚したり、捨てたり」
「でも殺してはいけないわ」
肩をすくめて、悲しい顔をして、守一が尋ねた。
「どうして、わかったのですか?」
「私、よく考えたのよ、それで一晩中眠れなかったわ」
「じゃ、疲れてくたくたでしょう。コーヒーはいかがですか?」
「いえ! 今は飲みたくないわ。守一さん、これからどうするつもり?」
「別に何も。自殺があり、破廉恥な犯罪が起こったわけですが、手がかりなしです。それから自動車事故も、何の心配もありません」
「じゃ、私はどうすればいいの?」と困惑した。
「本当に、どうすればいいの? 人殺しと同じ家に住めると思うの?
あなたが人を殺すのを黙って見ていろというの?」
「気分次第? そんな。僕はあなたを苦しめた奴か、これから苦しめようとする奴しか殺さないんです。
あなたが苦しむのが耐えられないんです」
「どうかしているわ。そうじゃない?
私はボディガード、それも私の気持ちに対する護衛を雇った覚えはないわ。
あなたに何か頼んだとでも言うの?」
「そうですね。たしかにおっしゃるとおりです」
守一はコーヒーを一口飲んで、一大決心したような態度で、
「僕はあなたを愛しているんです」と言った。
「はあ~」と、めまいが生じて、気を失った。
目がさめたのはソファの上だった。
おそらく悪夢と不眠も加勢したのかもしれない。
守一は私のクセを知っていて、ピンクシャンペンを差し出した。
「ゴクッ」と、一口飲むと、すっかり頭がすっきりした。
「昨夜、寝てないからですね?」
「ええ」と、うなずいて、守一を見つめた。
「私を愛しているんですって?
本当なの? 私の愛した風三郎を殺したのは、
風三郎が私を捨ててマリアと結婚したから?
ねえ、なぜ英次は殺さないの? 英次は私の恋人でしょう?」
「それは英次さんがあなたを愛しているからです。
でも、もしあなたを捨てるようなことがあったり、
あなたを不幸にすることがあれば、僕は許しませんよ」
「やめてよ。そんなこと、私は頼んでないわ。
ねえ、あなたはこれまでたくさん人を殺してきたんでしょう」
「いえ、あなたと知り合う前は、一度もありません」
私は「ゴクッ」と、さらにピンクシャンペンを一口飲んで、守一を見つめた。
「僕はあの時、ドラッグをたくさん飲んで死のうと思っていたんです。あの夜、僕は道路を歩いていたようですが、僕には他の世界に思えたんです。
気分は上々で、まるで天国を歩いているような感じでした。
お花畑が暗くなって、二つの目をしたものが近づいてきた。
僕はめまいがして倒れてしまった。
目がさめたら、あなたの顔がありました。
僕は女神かと思いました。
あなたの家で静養させていただき、脚が治って、
あなたにお礼をして死のうと思ったんです。
ふと僕は気づいたんです。
僕はあなたを愛している。
僕は愛された経験がない。
僕は母を知らないので、どんなものが愛ってわからないんですが。
もし、あなたへの気持ちが愛であれば、僕はあなたを愛しているんです。
あなたが今、ショックで倒れてしまった。
僕は気づいたんです。あなたにショックを与えてはいけない。
殺すのは結局、あなたを苦しめるだけなんですね。
僕は間違っていました。もう、あなたを悲しませんよ」
守一は涙ながらに訴えるような顔になった。
ジェームス・ディーン以上の顔をしていた。
「本当なの? いったい、どんなふうに三人を殺したの?」
「風三郎の時は、風三郎にあなたが会いたがっていると言って、
あのホテルで会う約束をして、電話で部屋を予約しておきました。
僕は先にホテルに入室しました。
武藤の場合は、武藤の顔つきで、僕は何者であるかすぐにわかりました。
僕は武藤の誘いにのったのです。
マリアの時は、一晩かけて、車輪のボルトをゆるめたんです。
グレース・ケリーといっしょですよ」
私は再び戦慄をおぼえた。
「私の義務は、あなたを警察に引き渡すことよ」
「そうなさりたいなら、どうぞ」
私は考えるために、外に出て庭を散歩した。
警察沙汰になると、私も共犯と疑われる。
だって死んだ3人は私の利害者関係で不利なこと。
同居していることも不自然だし、スキャンダルになってしまう。
もう風三郎が死んでから半年以上も過ぎているけど、
警察の捜査が私にきた気配はない。
殺人をすると知って、守一を放り出したら、守一は私を遠くから見ていて、
私に危害を加える人を、殺し続けるかもしれない。
曇りだった空から、お日様が私を照らし出した。
「決めたわ」と私は独り言を言って、家の中に入った。
私は美貌の守一をまじまじと見た。
私にはどうしても殺人鬼には見えない、
純粋な心を持った天使にしか見えないのだ。
守一を見ていて覚悟を決めた。守一を信じてみる。
「ねえ、約束してちょうだい。
今度殺せば、私はあなたを警察につきだすわ。
もう殺さないと誓ってくれるわね?」
「僕は、あなたを悲しませたくないんです。
今日のことで、それがわかりました。約束は守ります」
二回目の講義で、高田馬場の映画学校へ行った。
パール座の裏にあった。
生徒は一名増えて、十一名とケイコだった。
「前回のお話しは、カサブランカの上映日は、連合軍がカサブランカ侵攻する一九四二年十一月二十六日。
国民の士気を高めるプロパガンダ映画でしたが、
戯曲は同年の四二年一月に購入さればかりで、脚本はできていなかった。
あと九か月もない。
ワーナー側は、映画は駄作でかまわない、
やっつけ仕事の、ただのプロパガンダ映画でいくことを決めました。
駄作でもいいような映画が、
どうして、米映画の国宝作品になり、アカデミー賞を総なめにしたのでしょうか?
ひとつは、
脚本の神様と言われるエプスタイン兄弟が恋愛部分だけ書いたことでしょう。
兄弟は数か月もしないで、ワーナーから他社へ移籍してしまいます。
脚本は中途半端ですが、米国映画界の関係者をうならせる数々の名セリフを書いています。
故淀川長春さんはカサブランカは、男と女のしゃれた会話の洪水と呼んでいます」
私は一気に話して、
壇上にあるペットボトルの水を飲んだ。
「出演者も、すぐに撮影できる俳優となり、有名な映画スターは選べない。
ハンフリー・ボガードという悪役専門の男優。
ワーナー側は主役をボガートから別の役者へ振り替えようとした。
中にはロナルド・レーガンの名も上がっていた。
栄次郎の妻役は、まだスウェーデンから来たばかりで、
ハリウッドに染まっていないイングリッド・バーグマン。
栄次郎その他の役者もヨーロッパ出身者から呼び寄せた。
おそらく脚本もできていない映画への出演に、ハリウッド俳優は敬遠したのでしょう」
講義が終わって、ケイコと久々に早稲田通りを長い時間歩いた。
「おつかれさまでした。
やはり古い映画なのか、カサブランカは人気ないですね」 と ケイコが言った。
「白黒映画だし。ただの古典みたいなものね。カサブランカのセリフは、あとの映画でよく出てくる」
「『君の瞳に乾杯』のセリフ、素敵ですね」
「テレビのコマーシャルで流れたのかしら?
ただの Cheers! Looking at you。 乾杯!君をみているだけでさ!
そんなセリフね。 淀川長春さんが千年に一度現れる女優と言っている。千年美女だからでしょうね。
バーグマンを見ているだけで、乾杯したいって」
「これ!例の脚本の神様の兄弟が書いたのですか?」
「祖母が関わっていて、祖母の回顧録によると。
カサブランカには脚本家が正式には七名関わっているけど、
撮影関係者の意見も採用しているらしい。
ホリデーという映画で、大昔の脚本家イーライ・ウォラックがでてくるけど
君の瞳に乾杯は、イーライ・ウォラックが作ったと言っている」
私たちは早稲田大学の文学部付近まで歩いて、「キュウポラ」と言う喫茶店に入った。
「なつかしいでしょう。母校ですね」
「この喫茶店が、まだあるなんて信じられない」
「古い喫茶店ですね。レンガでわかります」
「なぜ? キュウポラという店名かわかる?」
「え? キュウポラってなんでしたっけ。映画に出てきたような」
ケイコはすぐにネット検索して言った。
「ああ! キュウポラのある街という映画。鋳物の溶解炉ですね。
吉永小百合さん出演映画。小百合さん、早稲田の文学部ですね」
「そうなの。この喫茶店のある文学部の通りは別名小百合通りと言われた頃があるんですって」
私たちは喫茶店の椅子に座って、コーヒーを注文した。
「村上春樹さんも通っていたんですね」
「そうだ! ノルウェイの森でもカサブランカ引用されていた」
「本当に古典なんですね」
私は自分のブログの記事を読み上げた。
「ノルウェイの森の一節よ。
『この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。
どうしてだかわからないけど、
自分が深い森の中で迷っているような気になるの』と直子はいった。
『一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。
だから私はリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの』
『なんだかカサブランカみたいな話よね』
とレイコさんは笑って言った」
ケイコは真剣に聞いていた。
店員がコーヒーをテープルに置いた。
ケイコはコーヒーを一口飲むと、気づいたように言い始めた。
「『君の瞳に乾杯』のセリフですけど、英語には瞳なんてないですよね」
「そう! 日本には字幕の魔術師と言われた訳者がいたの。
この日本語訳セリフは字幕史に残る名訳と言われているの。
高瀬鎮夫って言う、洒落たセンスのある意訳を得意とした翻訳家」
「天才ですね」
「他にも、名訳があるの。
"You ain't heard nothin' yet!" を「お楽しみはこれからだ」と翻訳したり、
『ある愛の詩』の名台詞“Love means never having to say you're sorry”を「愛とは決して後悔しないこと」と翻訳したり」
「訳の世界でも名セリフってあるんですね」
「高瀬さんは異端で、酒の飲みすぎで67歳で死んだの」
「サーキーさんの祖母さんのこと知りたいです」
「愛理って言うの。日本人には見えない白人似の顔をしていたの。奇跡的に収容所に行かなくてすんだ。
旦那が白人で。日本人籍を中国人籍にしていたようね」
「サーキーさんも白人似ですね」
「愛理の回顧録があって、読むと、愛理の兄利久のことが、目に引いた。
兄の利久は、あだ名はリック。
幼馴染に黒人と日本人のハーフのサムと、兄貴分のトウキョウジョーとあだ名の衛藤健がいる。
衛藤健のカード手さばきがマフィアの目に入り、ニューヨークに行く。
サムとリックも同行する。というか舎弟で、同行するのね」
ケイコは一字一句忘れないように、ノートに書き出した。
「サムの父は黒人ジャズピアニストで、父に習っていたようね。
ニューヨークでは衛藤組のメンバーだけど、トウキョウジョーという店名のピアノバーで、
サムはピアノを弾き、リックは店を任されていた。
客は当然、日系人で。保忠蔵やトーマス永井、鈴木盛、ロイ門脇といった在米日本人・日系美術家が集まった。
この店で国吉と彼のモデルであるホリーとも親しくなるの」
「ホリーって、なにものでしょうか?」
「謎なの。祖母の愛理も、もしかしたら日系人かもと書いている」
「もしかしたらスパイかもしれませんね」
「わたしも、スパイとしてのホリーを書いてみたいと想像している」
「リックはなぜ? カサブランカに行ったのですか?」
「店が衛藤健に反感を持つマフィアの敵対勢力の仕業で、焼き討ちに遭うの。
リックは焼き討ちした連中を射殺してしまう。
マフィアから追われる身になってしまうの。
資産家で、撮影家でもある国吉がアフリカに撮影旅行に行くので、
リックとサムは同行して、アメリカからアフリカに逃亡するの」
亡命の撮影が始まる。
シーンはリックとイダがパリで会う。
年代は1939。
栄次郎とイダは1940年にアメリカ合衆国へ亡命している。
イダは1881年2月18日生まれで、58歳の頃だ。
栄次郎は1894年11月16日生まれで、46歳の頃。
映画カサブランカではイダは30歳だろうか?
栄次郎も40歳前だろう。
イダ・ローランはユダヤ人だった。
舞台女優をしていて、栄次郎が一目ぼれ。
駆け落ち同然に同棲を始めた。
1915年4月に19歳の栄次郎は、34歳のイダと結婚。
正式な結婚は彼が24歳になってからだと言う。
栄次郎の母である光子はショックで倒れたらしい。
光子も一目ぼれして、周囲がみえなくなり、国際結婚したのだから、自業自得よね。
栄次郎はオーストリアの皇族だから名誉にかかわるのね。
明治生まれの光子には、皇族にふさわしくない息子を産んで、責任を感じたのだろう。
亡命では、年齢は史実通りに進めることになった。
目白にある洋館をオーストリアにあると見立てて撮影が始まった。
ヒトラーのドイツがオーストリアを併合する直前の日に、
開いていたパーティーを急きょ終りにして、
栄次郎は妻のイダとともにスイス大使夫妻が貸してくれた自動車に最小限の荷物を積み込み、
ナチスのデモ隊であふれる街から脱出する。
デモ隊に囲まれて危険な思いもしたけど、自動車がスイスの外交官ナンバーであったことから、
紙一重で危機を逃れ、隣国のチェコスロバキアのブラティスラヴァに逃れた。
私は、撮影に立ちあって、まるで映画「サウンド・オブ・ミュージック」と同じだと思った。
翌日、ハンガリーの首都ブダペストに向けて出発。
夜中は全速力で走り、昼間は森の中に潜む毎日。
ユーゴスラヴィアからイタリアに入ると、
連絡を受けていた反ナチスのイタリアの将校が出迎え、スイスまで護衛付きで送ってくれた。
ナチスの宣伝相ゲッペルスが栄次郎を逮捕し公開裁判に付すと宣言した。
栄次郎は、スイスを本拠地にしながら欧州各地を奔走し、
反ヒトラー運動をすすめ、特にパリに滞在することが多くなった。
撮影場所は「ハイジの村」と呼ばれる山梨県茅ヶ岳のふもとで行われた。
栄次郎はパリに逃げて、1939年の春には、フランス共和国の市民権を取得した。
数日後、私は大船撮影所に作らせたセットのフランスのカフェ付近にいた。
ジプシー・ジャズの聖地と言われる有名な、
クリニャンクールの蚤の市にある
老舗カフェ「ラ・ショップ・デ・ピュス」を模倣した。
リックを演じる守一が登場する。
米情報機関との司法取引で、
リックは、栄次郎の米国亡命を助けるためにパリにいた。
栄次郎はパリを拠点にしていたが、
ナチスに狙われている栄次郎に会えないでいた。
栄次郎をねらうドイツのスパイが暗躍していて、
早川雪舟の住居付近はスパイで見張られていた。
リックはカフェで休憩していた。
隣のテーブルに座っていたイダは、
新聞で夫・栄次郎の死を知って呆然としていた。
リックは、イダが栄次郎の妻と知らない。
新聞が突風にあおられて、リックのテーブルに落ちた。
リックは、新聞が通りに、吹き飛ばされないうちに拾い、
「これは、あんたのものじゃありませんか」と英語で言った。
イダは、リックがアメリカ人なのだと思った。
リックの目が黒いのを知ると、
イダは「もしかして日本人?」
「わかりますか」
「私の夫も日本人のハーフなの」
りックは、勝手にイダのテーブルに座った。
「こちらの方が、ずっと景色がいいですね」と言って、
聞いたこともないくらいお粗末なフランス語で、
コーヒーを二杯注文した。
リックの注文を聞いて、イダは笑ってしまった。
「どっちのほうが面白いですか? 僕の訛りと顔と?」
とリックは尋ねた。
*
私は守一の演技に安心して、監督の席に近づいた。
ホリーの登場シーンが、どう決まったか監督に確認にしたが、
まだ決めていないと言われた。
リックは本当に栄次郎が死んだか確認したかった。
「ティファニーで朝食を」のホリーの登場だ。
ホリーは栄次郎がドイツスパイのアジトに監禁されていると伝えた。
ホリーの活躍で、栄次郎は助け出されて、リスボンに落ち延びた。
イダもナチに監視されているので、ホリーの作戦で、リックが無事にリスボンまでイダを送り届けた。
リックはカサブランカへ帰っていく。
リスボンで再会した栄次郎夫妻は、米情報機関のはからいで、
アメリカの大学から教授として招聘したいという名目で、無事に米国に渡った。
*
三回目の講義
石井のロケハンは今週に帰京の予定だった。
撮影候補地の宝島で天候が悪く船が運行できるめどが立たない。
帰京できなかった石井に代わり三回目の講義を行った。
「石井先生がロケハンの場所で天候が悪く、帰れないので
再び講義をいたします。
「カサブランカは、アカデミー作品賞をとり、マイケル・カーティスは監督賞を受賞。 脚本のジュリアス・エプスタイン、フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの三名が脚色賞を受賞した。
男優ナンバーワンのリックことハンフリー・ボガートは一九九九年にアメリカ映画協会が発表した「アメリカ映画スターベスト百」で男優の一位に輝いています。ハンフリー・ボガートはボギーと呼ばれました。
恐妻家でした。撮影時は嫉妬深い妻に同行されて小言ばかり言われるので常に不機嫌のようだったそうです。不機嫌な顔のままに撮影に臨んだのが逆にニヒルな演技となった。
テキスト ボギー~
俳優からスタッフまで、和気あいあいで、脚本を作り、複数シーンを撮影して どちらがいいか鑑賞して決める。
多数の関係者が口出しできたので名作となったと思う。
誰でも口出しできる。
撮影した後にデキを見て脚本を変えてゆくとは、まさに豪華で贅沢な映画作り。
それでこそ、映画が傑作となった由縁。
一九四二年五月二十五日に制作が開始された。
スピード撮影で八月三日に完了した。
撮影が開始された時に、クランクインの段階で脚本は完成していなかった。
書き上げられたシーンを片端から撮影していくという方法が採用された。
バーグマンは脚本担当に尋ねた。
「どちらの男性と結ばれるのですか?」
「まだ決まっていないので、二通り撮ることにしています」
バーグマンはあきれる。
「夫と共に行くの?リックと出国して行くの?」
「決まれば教える」
バーグマンはエージェントに悩みをこぼす。
「二人の男性と恋愛関係にあるという設定。
私はどんな演技をしていいか、わからない」
脚本もなく、ただ、ボガートと署長が霧の中を遠ざかるシーンが撮られた。
ボガートは「死ぬ役は署長にまわしてくれ。おれはまだ死にたくない」と言った。
終盤まで話の結末を誰も知らないという前代未聞の映画で、結末がなかなか決まらなかった。
上映日が確定しているので、闇雲に、いろんなケースで撮影がなされた。
身長問題も生じた。
バーグマンの身長は百七十五センチ、ボガードは百七十センチ。
ハイヒールを履けば十センチで見上げることになる。
そこでボガードを踏み台に乗せて身長差をごまかした。
ユージュアル・サスペクツ
ハワード・コッチは「誰をラストに残すべきか」と考え続けていた。
栄次郎を殺すか? でも英雄だから殺したくない。
利久を殺すか?
ある日思いがけず、ついにラストが決まった。
ハワード・コッチはサンセット大通りを走行中に、
突然「犯人を捜せ」という言葉が頭に浮かんできた。
利久にドイツの少佐を殺させることにした。
そして署長に「犯人を捜せ!(ユージュアル・サスペクツ)」と言わせた。
この台詞「犯人を捜せ!」は、後の映画「ユージュアル・サスペクツ 」で採用される。
映画「ユージュアル・サスペクツ」における「カサブランカ」へのオマージュは、タイトルはおろか、製作プロダクションの名前にまで及んだ。
利久が残る案と、夫だけ行かせた伊田が利久と残る案、二通りのラスト・シーンを撮影して、観比べた結果、スタッフの評価が高かった方が採用された。
利久「もし飛行機が飛び立って栄次郎がいないと絶対後悔するんだ」
伊田「いやよ」
「今日はいい、明日はいい。でもすぐに君は一生後悔する」
「私達はどうなるの?」
「俺たちにはパリの思い出があるじゃないか。昨夜取り戻したよ」
「でも離れないと昨夜約束したわ」
「心はひとつさ。さぁ行くんだ。君の瞳に乾杯」
「こんなに愛さなければよかった」
この台詞「パリの思い出がある」から、次の台詞が追加された。
再会後の二人の会話。
利久「昨日はすまなかった。今は気持ちの整理がついた。
来なかった理由を教えてくれ。
切符を一枚無駄にしたんだ。俺には聞く権利がある」
伊田「あなたは変わってしまった。
パリの頃のあなたなら理解してもらえたわ。
今は、憎しみのかたまり。このまま別れた方がパリの思い出が残るわ」
ボガートのラストの有名な決め台詞、「ルイス、これが美しき友情の始まりだな」は、脚本にはなく、製作者のハル・ウォリスによって撮影終了の三週間後に付け加えられた。
「俺は死にたくない」と言った撮影シーンを生かしたのだった。
製作者のハル・ウォリスは、映画のタイトルを「カサブランカ」に変更する。
沙樹子がケイコに話す。
「バーグマンは、『カサブランカ』は、失敗作で完成しなかったと思っていたの」
「え! そんな!アカデミー賞作品賞作品ですよ」
「バーグマンは晩年近くになって、ロンドンで行われたバーグマン特集の講演に呼ばれた。『カサブランカ』が上映された。
そのとき、初めて、この映画を観たという。
講演の壇に上がり、『ほんとにいい映画なのね』とスピーチすると、
みんなは笑った、そうよ。
バーグマンは、この映画は失敗作で完成しなかったと思っていた。
まあ、それは、撮影終了後にヘミングウェイの大作映画『誰が為に鐘は鳴る』に出演が決まり、バーグマンは全力で取り組んだ。
バーグマンは役作りのために髪を坊主にしてしまったほど。
そして共演のゲーリー・クーパー、百九十センチのイケメンだが、
陰では女優食いの帝王と言われていた。
さっそくに、餌食となってしまったのよ。バーグマンは。
もう前作の『カサブランカ』など忘れてしまうほどに女として、
女優として充実した日々を送っていたの」
カサブランカ侵攻作戦
その後の利久だが。
利久の店にホリー(「ティファニーで朝食を」の主人公)が現れる。
情報機関のエージェントの時は変装していたホリー。
利久は、しばらくしてそのことに気づく。
ホリーはしばらくカサブランカに滞在する。
寒川の伴奏で、ホリーは、自分で作った歌を歌った。
「眠りたいわけでもなく、死にたいわけでもない。
ただ、旅して行きたいだけ、空の草原を越えてね。
トラヴェリング~、 トラヴェリング~
ミス・ホリデー・ゴライトリー、トラヴェリング
そんな、見えない名札をつけているのよ」
ホリーは、映画「マリアンヌ」で描かれた、
在モロッコのナチス・ドイツ要人の暗殺計画を陰から見守り、実際にナチス要人を殺害した夫婦のロンドン脱出を助けた。
ホリーは利久にエンスラポイド作戦への参加を依頼、利久もロンドンへ旅経った。
連合軍のカサブランカ上陸作戦は間近に迫っていた時だ。
*
ドイツの慰安婦収容所
寒川は、衛藤健が志願してヨーロッパ前線にいることを聞き、志願してヨーロッパ戦線へ。
マフィアのボス・衛藤健は日系人の強制収容命令によりアイダホ州のミニドカ収容センターに収容されたが、一九四二年に日系部隊第四四二連隊に志願して戦地へ行く。
最初にユダヤ人収容所を発見・開放したのも、ローマを陥落させたのも日系部隊だったが、その武功は隠された。
寒川は日系部隊に入れずに、ノルウェイに配属されて、ノルウェイの森にあったドイツの慰安婦収容所を開放する。
ナチが優秀なドイツ民族の子孫を増やそうと企画した「レーベンスボルン(命の泉)政策」。
当時少子化で人口の減っていたドイツ国民の数を増やす為に、
ナチのドイツ兵に対し、占領地ノルウェイの女性との間に子供をつくり産ませる事を奨励した。
9千人とも1万人とも言われる慰安婦の子供達は、ヨーロッパの人権裁判所で祖国ノルウェイ政府を相手取り損害賠償を起こした。
その後、寒川の行方はわからない。
*
英国へ渡った利久
エンスラポイド作戦
ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。日本語では、「類人猿作戦」などとも訳される。ハイドリヒは、ナチスの秘密警察を束ねる国家保安本部の長官であり、ユダヤ人や他の人種の虐殺に対する「ユダヤ人問題の最終的解決」(ナチスはユダヤ人や少数民族の絶滅政策のことを婉曲的に「最終的解決」と称していた)を行うナチスの主要計画遂行者であった。
ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。日本語では、「類人猿作戦」などとも訳される。ハイドリヒは、ナチスの秘密警察を束ねる国家保安本部の長官であり、ユダヤ人や他の人種の虐殺に対する「ユダヤ人問題の最終的解決」(ナチスはユダヤ人や少数民族の絶滅政策のことを婉曲的に「最終的解決」と称していた)を行うナチスの主要計画遂行者であった。
ラインハルト・ハイドリヒは、親衛隊(SS)でハインリヒ・ヒムラーに次ぐ実力者だった人物でゲシュタポ(国家秘密警察)、親衛隊保安部(SD)、刑事警察を統括する巨大警察組織国家保安本部(RSHA)の長官であった。ラインハルトはナチスに反抗する人間を取り除く役目を担っており、ユダヤ人虐殺計画の主要な遂行者であった。
イギリスのチェコスロバキア亡命軍から選抜された7人の兵士である、ヨゼフ・ガプチーク、ヤン・クビシュと2つの他のグループ(シルバーAとシルバーB)は、イギリス空軍により1941年12月28日にチェコスロバキア領内にパラシュートで降下した。これは、SOEの初めての作戦ではなかった。計画ではピルゼン近くで降下する予定であったが、航空機の航法に問題があったため、ガプチークとクビシュはプラハの東に降下した。兵士たちは協力者と接触するためピルゼンへ移動し、計画した攻撃を行うため、そこからプラハへ移動した。
選抜兵士らは暗殺の準備期間、プラハでいくつかの家族や反ナチ組織と接触した。ガプチークとクビシュは列車内でのハイドリッヒの暗殺を計画していたが、調査の結果これが不可能であることが明らかになった。第2の計画は、ハイドリッヒが住居からプラハへの移動中に、森の道路で暗殺するというものであった。道を横切るケーブルを張り、ハイドリッヒの車を止めて襲撃するという計画であった。しかし何時間かの待ち伏せの後、レジスタンスの戦闘員オパースカがやってきてそれを撤去し、プラハに戻っていった。そこで第3の計画が立てられ、プラハでハイドリッヒを暗殺することになった。
映画「暁の七人」で描かれているが、利久は
チェコスロバキアに行ったことまでは記録にあるが、その後行方不明になる。
*
衛藤のその後
衛藤は死と隣り合わせの激戦をくぐり抜けて、アメリカに帰国する。
衛藤の組織は「モンタナ・ファミリー」と呼ばれた。
モンタナ州で育ったからかもしれない。
一九六〇年代になり、モンタナ・ファミリーは勢力を伸ばし、その賭博ネットワークは、シカゴ北地区全域を覆うほどになるの。
衛藤は、マフィア上層部の会議に出席するほどの、シカゴ・マフィア界の幹部へと出世した。六〇年代半ばには、活動拠点をラスベガスにも持つようになる。
七〇年代後半には秘密の賭博場を数十件所有し、レストランやナイトクラブの経営、不動産にも着手していた。
八〇年八月、シカゴ郊外のメルローズパークのホテルで不法賭博を開帳中にFBIの手入れを受け、逮捕されて有罪になった。
八三年、捜査協力で刑が軽減されて、五年の保護観察処分となった。
FBIの証人保護プログラムによりアメリカ政府公認の匿名の存在となり、二十四時間態勢で監視保護を受け、誰も知らない場所で暮らすことになる。
八五年、大統領諮問委員会がシカゴで開いた公聴会に証人として呼ばれた。
公聴会では自分の姿を隠すため目の部分をくり抜いた黒い頭巾をかぶり、
黒のマントで全身を覆っていた。
その際、自身が命を狙われた理由について「自分がイタリア人ではなかったから」と述べている。
この公聴会の後、衛藤が公の場に現れることはなかった。
その後の衛藤の証言によって当時のシカゴ・マフィアは次々に摘発され、壊滅状態に追いやられた。
二〇〇四年に、衛藤はジョージアで死去したと報じられた。
まさに映画にもなったジョー・バラキとまったく同じ。
モンタナ・ジョーと呼ばれた日系人、日本名「衛藤健」。
賭博場でのカードさばきが絶妙で、あっというまにマフィアのボスになる。
その地位は、チャールズ・ブロンスン主演で、マフィア実話映画「バラキ」のジョー・バラキより断然上の大ボス。
マフィア大幹部になったため敵も多くなり、命を狙われるが、ラッキーな男で不死身である。
身を案じて警察に投降し、軍管理下の施設で、八十五歳の人生を全うする。
そこはジョー・バラキと同じ。
ミツコのその後
栄次郎の母・青山光子は
第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことに伴い、
伯爵である夫のクーデンホーフ=カレルギー家も財産を失った。
ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した一つの大国だったが、昔から東ローマ帝国、大ハンガリー、モンゴル帝国、オスマン帝国などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立を、緩やかな統合によって成し遂げていた多民族帝国だった。
光子は一九二五年に脳溢血により右半身不随となり、次女・オルガにウィーンで介護をうける。
初代ウィーン総領事・山路章の娘綾子(重光葵甥重光晶妻)よると、光子は質素な暮らしだったという。
光子の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことであったという。
一九三八年三月十二日、ドイツ軍が侵入してオーストリア全土を占領し、
息子栄次郎は逃亡。
オーストリア=ハンガリー帝国出身のヒトラーによりオーストリアはドイツに併合された。
一九三九年九月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続く、ソビエト連邦によるポーランド侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告と、ヨーロッパは戦場となった。そして一九四一年年十二月には、日本やイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。
その約五カ月前の八月ニ十七日、光子はオルガに見守られながら息を引き取った。ついに日本に帰ることはなかった。
栄次郎のその後
アメリカ合衆国へ亡命し、ニューヨーク大学のセミナー等をしながら汎ヨーロッパ運動を継続。
四年後にニューヨーク大学教授になる。
米国亡命中には、クーデンホーフ家のかつての主君の末裔オットー・フォン・ハプスブルク公と協調し、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー自らを首班とするオーストリア亡命政府を画策し、米国政府・英国政府に働きかけた。
第二次世界大戦後、ヨーロッパへ帰り、オーストリア共和国から名誉大銀星勲章を受勲した。
二度の大戦を一緒に生き抜いた妻イダは一九五一年に死去。十歳以上年上の妻だった。
一九六七年、産まれてすぐに離れた日本へも帰郷し、勲一等瑞宝章を受勲した。
一九七二年にスイス国境付近のオーストリア国内にある
村シュルンスで死去。
表向きの死因は脳卒中であるとされるが、
秘書によると、自殺したという。
墓は、若い頃に家族で滞在した
レマン湖東の高地グルーベン(スイス)にある。
日本庭園の枯山水様式の石庭で、
墓の碑文には、
フランス語で「ヨーロッパ合衆国のパイオニア」とある。
オードリー・ヘップバーンの墓もレマン湖にある。
何か因縁があるようにしか思えない。
ホリーのその後
ホリーは、カサブランカからの戦火を逃れて、港の避難施設でスープを飲んでいると、一緒に避難していたシニョールが声をかけてきた。
いつものホリーの磁石に吸い付けられるように、シニョールは言った。
「行くところがないなら、うちに来ないか?」
「いいわ。でも私は、いつも旅行中。それが、私のディスティニーなのよ」
シニュールは南米の富豪で、ホリーは、シニュールと南米に行った。
南米を旅行して、ホリーは、カポーティに例の絵葉書を出した。
「ブラジルは、きったないけど、ブエノス・アイレスは最高。
ティファニーじゃあないけど、大体ね。
大金持ちのシニョールと知りあいになっちゃった。
愛かって?そうかもね。ともかくどこか住むとこを探してるの。
シニョールには奥さんと七人のおチビちゃんがいるんで。
決まったらお知らせするね」
あの渚にて
デスクで脚本を書いていると、電話が鳴った。
「サーキーさん、その後、いかがですか?」
「ああ、ケイコさん、それがね。
申し訳ないけど、愛理の作品より、先に守一の次の作品を進めているの」
「次の作品は、なんですか?」
「ここだけの秘密よ。『渚にて』にヒントを得た作品なの。題名は『あの渚にて』」
「『渚にて』は、村上春樹のベストセラー『1Q84』でも触れられていますね」
「そうなの。知らなかった」
「どんな内容なんですか?」
「概要をまとめるのも重要だから。話すわね」
「はい。お願いします」
「プッカン国から核弾頭ミサイルが日本に飛んでくるの。
放射能汚染は進み、生き残った者たちが最後の日を迎えるの。明子は米軍の潜水艦艦長と恋をするの。
しかし米国にも核弾頭ミサイルが飛んで、艦長の妻子と連絡がとれなくなるの。明子はもう放射能汚染で死ぬのはわかっている。艦長も放射能汚染で直に死ぬ。
艦長が選んだ決断は、潜水艦で行方不明の家族を探しにゆくことだった。
『君と先に知り合っていたら、僕は君と最後の日を迎えたいと思ったよ。
君と行った、あの渚での思い出を胸に僕は行くよ。
愛している』と言うの」
私はふと思った、昨年英次と行ったあの渚に出かけてみたくなった。
十五時頃にスタジオ内のカフェで英次とお茶を飲んで、話を切り出した。
「今、守一の次の作品を書いているの」
「どんな作品だい?」
「『渚にて』にヒントを得た作品で、『あの渚にて』よ」
「ああ、あれか。リメイクで『エンド・オブ・ザ・ワールド』があるし、『復活の日』も、この映画の続編のようなものだね」
「私はこの作品はSFというより、究極の恋愛だと思っているの。あのラストシーンは切なすぎるわ」
「なるほど」
「『もしあなたが先立ったら、私を待っていてちょうだい』と主人公の明子は言うの。そして毒薬をお酒に混ぜる。あの世で会いましょうということね」
「『渚にて』はそうだが、『エンド・オブ・ザ・ワールド』では守一は戻ってくるよ」
「せつない方がいいわ」
「まあ監督次第で、変わるけどな」
「それで、まだしっくりしたものが書けないのよ。
ねえ、英次、いつか行ったあの渚に連れて行ってくれない?」
「ああ、覚えているよ。
サーキーが『渚にて』みたいと言って感動した所だね」
私は、ハイライト部分がうまく書けないでいた。
昨年、英次と出かけたあの渚、私はそこへ行ったら書けるかもしれないと思って出かけた。
気づくと英次の車には守一もいた。
今度こそ、三人で出かけて問題が起こらないとよいけど。
これは一つのチャレンジかもしれない。
あの渚には、別荘があって、海を見おろす岩の上に、ほとんど垂直に立っていた。
その別荘に至る場所は、あの映画「渚にて」にとてもよく似ていた。
私は別荘の玄関口のデスクにすわった。
ピンクシャンペンを飲んでいると、創作意欲がわいてきて、メモをしていた。
泳ぐためには細いクネクネした小道を下りていく必要があった。
その日、海はとても荒れていたので、守一と私は泳がないで、英次が一人で泳ぐのをながめていた。
英次は岸から約三十メートルあたりのところを、きわめて優美なクロールで泳いでいた。
突然のことだったわ。
「たっ、助けてくれ!」と叫び声が聞こえた。
海を見ると英次が片手をあげ、それから大きな波が頭上にかぶさるのが見えた。
私はクネクネした小道に向かって走り出した。
私が海に近づこうとすると、守一は約八メートルの高さから、岩にぶつかる危険を冒して、まっさかさまに飛び込んでいた。
守一はすぐに英次に近づいて、数分で岸につれ帰った。
海水を吐かせるために、私は英次の背中を何度も叩いた。
英次は吐き終わって、なんとか正常に戻った。
しばらくして英次は話せるようになった。
「実際、君は勇気があるよ。あそこから飛び込むなんて。君がすぐかけつけてくれなかったら、僕は今頃きっと海の底にいるだろう。
君は命の恩人だ」
守一はてれくさそうに、うつむいて無言だった。
私はとても奇妙な気持ちだった。
この若者はこうやって人の命をとりあげたり助けたりしている。
英次が「ちょっとトイレに行ってくる」と、いなくなった。
私は守一の顔を見て「ありがとう。いいことをしてくれたわ」と言った。
「でも、僕は個人的には、英次さんが死のうと生きようと、どうでもいいんです」
「じゃあ、なぜ守一を助けるために、岩にぶつかって死ぬかもしれない危険を冒したの?」
「まだ、おわかりにならないんですか。あなたが英次を好きだからです。助けないと、あなたがきっと悲しむからですよ」
「じゃ、もし英次が私の恋人ではなかったら、英次が溺れるのを黙って見ていたっていうの?」
「そのとおりです」
「その、その、私を愛しているっていう、それってなんなの?
英次は私の恋人なのよ。それでもあなたは私を愛するというの?」
「そうです。僕はあなただけを愛しています」
困ってしまった。私の中で、どう守一を位置づけすればいいのか。今まで経験していないことだった。
そうだわ。私の息子と考えればいいのかしら?でもあまりにも危険すぎるわ。
爆弾みたいなものだわ。
守一とこれからどう関わっていけばいいのか、私は戸惑い、困り果ててしまった。
ピーク岬
私と英次と守一のマネージャーは車の中にいた。
「どうなの?」と、私はマネージャーに聞いた。
「わかりません。時間がたって発見されたんです。
今、緊急手術中です」
「どこで発見されたの?」
「ピーク岬の付近とのことです」
「それって、マリアの車が転落した岬だ」と英次が言った。
「え! マリア」
守一のいる病室にかけつけると、部屋に異様な機械音が冷たくビートしていて、酸素吸入の音がむなしくこだましていた。
「ねえ、私、わかる。目をさましてよ」と私は声を荒げた。
マネージャーは言った。
「どうもバイクで転倒したようです。
単独の事故で同乗者はいなかったそうです」
英次は「なんてことだ」とつぶやくと、絶句していた。
私は酸素吸入マスクをした守一にひたすら呼びかけた。
どれくらい過ぎただろう。
英次らが部屋にいない時だった。
守一の意識が戻ったのだ。
突然私を見つめ、何か言おうとしていた。
私の脳裏には、はじめて守一と出会った、そう、あの道路に倒れた守一がよぎった。
私は守一の口元に耳を寄せて聞いた。
「ずっと、あなたのこと、守っていきたかった。でも、罰がくだったようですね」
虫の息のような弱々しい声だった。
私は罰かもしれないと思ったが、口には出せなかった。
「そんなことないわ。あなたは、英次を助けたじゃない」
私の言ったことが守一に伝わったかどうかはわからない。
守一の目は閉じてしまっていた。
私はその後も声が枯れるまで守一に必死に呼びかけた。
しかし、二度と目が開かなかった。
計器の数字がひたすらゼロに近づいていくことを止めることはできなかった。
英次は部屋に戻ってきた。
「逝っちゃったわよ」
英次は何も言わずに、守一を見つめて棒立ちだった。
私は英次の胸へ今度こそ思い切り飛び込んだ。
ふたつの脚本原案書ができて、社長へ提出した。
数日後だった。
私は社長に呼ばれた。
社長は、まず愛理の原案から尋ねた。
「サーキー! 君は、この作品で、何を言いたいのか?」
「四四二部隊って知っています?」
「なんだ? それは、中国で、悪いことをした旧日本軍か?」
「いいえ。アメリカ史上最強の陸軍と言われる部隊です」
「それで?」
「四四二は、日系人部隊で、第二次世界大戦で、アメリカ軍で一番、ドイツ軍を追い詰めた特攻部隊なんです。 でもその武功は秘密にされた」
「なにか、カサブランカに通じるな」
「四四二部隊の死傷率が314%って、わかります?」
「なんだ? それは、計算があわないな」
「つまり、連隊兵士一人当たり、平均三回以上も負傷している。
負傷しても再び戦うんです。
アメリカ軍隊始まって以来の最多の勲章をもらい、現在もその記録は破られていないそうです。
余り勲章を沢山もらうので『クリスマス・ツリー連隊』とあだ名が付いたようです。
つまりデコレーションがいっぱいで、一人で二度も三度も負傷してまた前線に復帰して血で勝ち取った」
「アメリカで、どれだけ日本人が貢献したか。
これまで白人の手柄にされた歴史。
アメリカの国宝映画カサブランカも、日本人が貢献した。ありえるな。
なぜに、日本人はユダヤ人を助けてばかりいるんだ
杉原 千畝もそうだ」
私は黙って聞いていると。
「それで。ホリーと利久はどうするの?」
「それは脚本家にお任せよ」
「そうか。わかった」
社長は、次に守一の原案書を私に見せて言った。
読み終えた英次がつぶやいた。
「ピーク岬で死ぬのか? どうして悲劇にしたの?」
「殺人者だから、因果応報にしたのよ」
「ハッピーエンドがいいよ」
「そうね。でも夢物語になるかもよ」
私はハッピーエンドを書いてみることにした。
だって、監督によっては、喜劇にも、悲劇になる世界だから。
私の保険だと思った。
「あとは、タイトルだな」
「そうなの。タイトルはどうしよう?」
「『サキモリ』がいいと思う。サキを守る人と古代の防人をかけて」
もうひとつの終章
私は英次と結婚してヨーロッパに新婚旅行に来ていて、今日は帰国することになっていた。
英次とホテルのカフェでエスプレッソを飲んでいると、英次は日本の新聞を読んでいて、「守一がやったよ」と言った。
「え! 守一がどうしたの?」
「主演男優賞だ。守一が候補だって」
「あの作品ね」
「だろうな、あれほどの逸材はめったに出ないよ」
「あの子は、なんのプレッシャーもないような。どうでもいいと思って演技しているけど。
それがなぜか自然なのよね」
ひっそりと帰国した私たちを、空港まで守一が迎えに来ていた。
私はびっくりして「あら、しゅうちゃん! どうしたの?」と言った。
英次は「わざわざ、お迎えなんて、なにかあったのか?」と尋ねた。
何も返事をしない守一に、私は「なんか、元気ないよ、しゅうちゃん、だいぶやつれて。
あ! そうだ。おめでとう! 主演男優賞候補だって?」と言った。
「僕は、そんなのどうでもいいんです。
僕はあなたのために俳優やっているだけで、作品が終わって、今日あなたが帰らなかったら、どこかへ逃亡を考えていたんですよ。マネージャーなどの付き人もいるんです。
僕はもうたえられない。付き人がつきっきりで指示するし、毎日電話や花束その他プレゼント攻勢。もうゆっくりできる時間がないんです」
帰国して数日が経っていた。
守一の主演男優賞が決まった。
ホテルでの受賞式で、主演男優賞を受賞して壇上でスピーチしている守一の 姿があった。
あの殺人者に大勢の人が拍手喝采をしている。
私にはとても奇妙に思えた。
そして守一御殿と呼ばれる邸宅の完成披露もかねてパーティーが盛大に開かれた。
出席した私に、社長が守一の衣装部屋を案内して言った。
「サーキー! どうだ! すごいだろう」
黙ってついてきた守一に言った。
「うわー、すごい。もう大役者ね。受賞スピーチも堂々としていたわ」
「あれはマネージャーの用意したものを暗記しただけです」
「さすが! 役者ね」
後ろからブツブツ言いながら、ついてくる守一。
私はうしろをふりかえって、
「ねえ! しゅうちゃん! あのお気に入りのジーンズは持ってきたの?」
守一はとんでもないという顔をして首をふった。
私は守一に「みなさんに、あいさつして回りなさいよ、しゅうちゃん! あなたはホストなのよ」
守一は私のうしろを金魚のフンのようについてまわるだけだった。
私は守一の行動に他の客の視線を感じて、これは良くないと思った。
守一が他の客に話しかけられた時に、すばやく英次をつかまえた。
「疲れたわ、帰りましょう」
「OK!」
英次は即座に私の手をとって退出した。
英次はポルシェに私を乗せると、静かにスタートした。
すると、車の前にマネキンのようなものが飛び込んできた。
私は悲鳴をあげた。
車にしがみついてきたのは守一だった。
「僕もつれていってください」
私は返事をしないでいた。
守一は車のドアを開けて訴えた。
「お願いです。僕はここに、いたくないんです」
「でも、しゅうちゃん、あなたの家はここなのよ。それに多くの人があなたを待っているのよ」
「僕はウチに帰りたいんだ」
私は英次の顔を見た。英次は笑っていた。
「社長の身にもなってよ。
あなたのためにこんな豪邸を作って」
「あんなヤツ、殺してやる」
私はやりかねないと思って、守一を乗せることにした。
「今夜は仕方ないけど、明日は戻るのよ。
豪邸にはプールもあるじゃない」
「僕は鎌倉に住んで、みんなで豪邸のプールに行けばいい」
守一はそう言うと、私の肩にもたれて眠ってしまった。
車が着くと、英次と二人で守一を家まで運んだ。
新婚だけど新居は私の鎌倉の家にしていたの。
住み慣れた家を離れて、新居に移ると、必ず何かがあるの。
家の守り神の座敷わらしは、大切なの。
しばらくして、守一は起きたかと思うと、自分の部屋に消えていった。
私は英次と寝室に入り、寝巻きに着替えた。
私はあの時、まだ守一が俳優じゃない時のことを思い出した。
そう! そうなの。
台風で家の側面が吹き飛んだことがあった。
私はあまりの怖さに守一のベッドに入って、守一に抱きついたの。
もう私は守一に身をまかせてもいいと思ったの。
でも、あの時の守一の目が。
私は守一のことを、これまでの守一の行動を即座に理解した。
英次も気づいたようだ。
「ふしぎだね。僕は君と守一との間になにもないと、信じるのに時間がかかったが、最近確信したよ」と、持っていた報告書を私に見せた。
英次は探偵に守一について調査させた。
報告書にはカーレースで事故に遭って、性的不能となっていた。
「あの子、しばらくウチにいるかしら?」
英次は「死ぬまでね」と言って、苦笑いをした。
「それは、困るわ、シメシがつかないわ。
明日にも追い出すから」
「だって、サーキーは自分でわかっているだろう?
守られていることを」
「そうね」
英次は私の顔を見た。
「英次! 死なないでね」と私は言った。
私は守一がときどき人を殺さないようにするのに苦労するだろう。
私は核爆弾を傍に置いているような不安を感じるが、守一は、英次と私の息子のように思うようにした。




