プロデューサー物語〜日本映画とハリウッド映画の違い
プロデューサー物語〜日本映画とハリウッド映画の違い
「あなたは、映画を誰のために作るんですか?」
初めてそう聞かれたのは、二十代の頃だった。日本の片隅の小さな編集室で、フィルムを巻き戻しながら、年上のプロデューサーがぽつりと漏らした一言だった。
それから三十年が経ち、僕はロサンゼルスのサンタモニカで、同じ質問をされた。だが、そこには違いがあった。アメリカ人のプロデューサーは「もちろん、観客のために。」と即答した。迷いも、逡巡もなく。
日本の現場では、観客のことはどこか後回しだった。「監督が描きたい世界」や「役者の熱演」「スタッフの努力」……そうした内輪の話が作品の核になりがちだった。プロデューサーは潤滑油のような存在で、監督と制作の板挟みになりながら、時に口をつぐんだ。
一方でハリウッドでは、プロデューサーが指揮者だった。監督を選び、脚本を鍛え、俳優と交渉し、資金を動かす。作品の成否に最も責任を持つのが、プロデューサーだった。監督は“雇われる”側、つまり実行部隊。芸術ではなく“商品”として映画をつくる姿勢は、最初こそ冷たく見えたが、その実、観客に対する誠実さでもあった。
「お前が面白いと思っても、観客が寝たら意味がない」
そう言われた時、日本で何度も聞いた「分かる人にだけ分かればいい」という言葉を思い出した。美学の違いなのか、ビジネスの違いなのか、あるいは国民性の違いなのか――答えはひとつではないだろう。
でも一つだけ確かだったのは、アメリカの現場では、試写の度に何百枚ものアンケートが回収され、編集がやり直された。誰が退屈したか、どこで笑ったか、どこでトイレに立ったか。それすらデータになった。
「映画は観客のもの」
その思想に、最初は戸惑った。だが、いまでは少し、羨ましくも思うのだ。そこには“自分たちのための映画”ではなく、“誰かの心を動かすための映画”があったから。
僕は今も、日本とハリウッドを行き来している。違いに悩みながら、時に橋渡しをしながら。そして、あの問いが今も胸の中で響いている。
「あなたは、映画を誰のために作るんですか?」