サキのシナリオ教室 『火事が起こり、母は死に、娘は消防士が助けた』
金曜日の午後。都心のビルの一室に、十人ほどの受講生が集まっていた。壁に貼られたホワイトボードの前には、サキが立っていた。彼女はテレビや映画の脚本で知られるプロの脚本家であり、このシナリオ教室の看板講師でもある。
「今日のテーマはこれです」
サキは黒マーカーで一気に書いた。
『火事が起こり、母は死に、娘は消防士が助けた』
静まり返った教室に、かすかなペンの音が響いた。受講生たちは顔を上げ、ホワイトボードに視線を集めた。
「これ、見たことある人?」
数人の手が挙がる。サキはうなずく。
「でしょうね。ドラマでも映画でも、よく使われる定番の展開です。じゃあ、なぜこの話が“使い古されてもなお繰り返される”のか、わかりますか?」
誰も答えなかった。サキは、静かに続けた。
「理由は単純。強いんです、感情が。火事――視覚的に迫力がある。母の死――喪失という最大の悲劇。娘の救出――ヒーローの登場。たった一つのシーンに、観客の心を動かす三つの要素が入ってる。だから、使われる。でも――」
そこでサキは少し声を低くした。
「そのまま書くと、“ありがちな話”になる。誰も驚かないし、泣いてくれない。プロはここで一歩踏み込まないといけない」
サキはホワイトボードの下に線を引き、もう一文を書き加えた。
『でも、母は死んでいなかった』
受講生たちの目が一斉に動く。
「たとえばね。娘を助けたのは父のかつての部下だったとか、母は逃げたあと罪悪感で戻れなかったとか、あるいは――娘のほうが母を助けようとしたけど間に合わなかった、というほうが心に残るかもしれない。**“どうしたら定番をひっくり返せるか”**を考える。これが脚本の仕事です」
一人の青年が手を挙げた。「じゃあ、いっそ火事が自作自演だったっていうのはどうですか?」
サキは口元に笑みを浮かべた。
「いいですね。ミステリー要素が入る。視点が変わると物語も変わる。あなたが“なぜ”そうしたのか、キャラクターに理由があれば、どんなプロットも生きる」
彼女はもう一度、ホワイトボードを見上げた。
「火事は“きっかけ”であって、物語の“核”ではないんです。私たちが描くのは、生き残った人の物語なんですよ」
その瞬間、静かだった教室に、何かがしんと響いた。
サキはマーカーのキャップを閉め、机の上に置いた。
「さあ、今日の課題です。あなたなら、この物語をどう書き換えますか?」
ノートを開く音が重なった。誰かのシャープペンが静かに走り出す。教室の空気が、じわりと熱を帯びはじめていた。