サンズリバーサイド外伝 夫を待つ女
サキは、駅前の喫茶店で遅い昼食をとっていた。雨に濡れる大牟田の通りをぼんやりと眺めながら、開きかけたノートの上で、ペン先が止まっている。
数日前、地元の郷土資料館でふと耳にした話が忘れられなかった。――かつての大女優が、この町でひっそりと晩年を過ごしていた。誰も本名を言わず、芸名も記録に残っていない。ただ「一時代を築いた女優が、すべてを捨ててここへ流れてきた」とだけ。
ホテル住まいだった。市役所の裏手にある古びた洋館。今は廃業しているが、文化人が集った歴史ある場所らしい。
そして、あの映画を思い出した。
――『夜の流れ』。1960年、吉村公三郎監督。山本富士子演じる妻は、夫の裏切りにより家を出て、ホテル暮らしを始める。しかし彼女は、どこかでまだ信じている。夫が、いつか愛人を捨て、自分のもとに戻ってくるのだと。
その信念が、やがて残酷な希望へと変わる。静かに崩れていく心。それでも声に出して「帰ってきて」とは言わない。彼女はあくまで、待つことを選ぶ。ただの女ではなく、誇り高い女として。
サキは思う。あの大女優も、同じだったのではないかと。
──夫に裏切られ、表舞台からも姿を消し、見知らぬ町でホテルに暮らす。それでも、どこかで「誰か」が迎えに来てくれることを信じていた。スクリーンの上で幾度も愛されたその女が、最後にはただ一人、小さな部屋で鏡に向かい、唇に紅をさしていた。
彼女の部屋には、今も化粧台が残っているという。持ち主をなくした小さな鏡の中で、かつての名残がひっそりと時を待っている。
サキはノートに視線を落とし、そっと一文を記した。
――あの人は、もう二度とカメラの前に立つことはなかった。けれど、誰よりも完璧な立ち姿で、帰らぬ人を待ち続けていた。
それは、過去の女優への鎮魂であり、新しい物語の始まりだった。