世界に一発屋という概念はない?
サキは以下の小説原稿を受け取った。
「ピコの国から」
ロサンゼルスの街角で、カフェのスピーカーから流れてきた「PPAP」のリズムに、男の子が突然踊り出した。隣のベンチにいた青年は、ふと目を細める。
「懐かしいな……」
彼の名は悠太、かつて日本で音楽番組の制作に関わっていた。いまは、映像翻訳の仕事でアメリカを拠点にしている。
7年も前に世界中で流行ったあの曲が、いまだにこうして子どもたちの体を動かす。悠太はふと、不思議な気持ちになる。日本では「一発屋」として記憶の棚の奥にしまわれているピコ太郎が、こちらでは「PPAPの人」として今も普通にリスペクトされている。
「こっちじゃさ、ヒットは『消費されるもの』じゃなくて『残るもの』なんだよ」
同僚のマリアがかつて言った言葉が蘇る。
「特にアジア人のアーティストで、ああいう世界的なヒットを出せた人は珍しい。だから、ワンショットだとしてもその功績はずっと認められる」
多民族、多文化、多言語が入り混じるこの国では、「ひとつの記号」が文化を超えて刺さるということ自体が事件だ。笑えて、口ずさめて、言葉を選ばず世界中の子どもが真似できる――そんな曲は、いくら金を積んでも作れない。
悠太はスマホを取り出し、YouTubeを開いた。
「PPAP」は今も700万回近く再生されていた。いや、違う。**7億**だ。
翻って日本。
悠太が最後にピコ太郎をテレビで見たのは、あの年の紅白だった。あれ以降、彼は画面から消えた。街角では「結局一発だったね」と、そんな声が当たり前のように飛び交った。
日本の流行は、速い。そして厳しい。
出続けなければ忘れられるし、変わらなければ飽きられる。
悠太もそれに加担していた。使い捨てのように、次の「当たり」を求めていた。
今、彼の胸には妙な悔しさが広がっていた。
音楽ってなんだったんだろう。
ヒットって、なんのためにあるんだろう。
少年のダンスはまだ続いていた。
横で母親がスマホを構え、楽しそうに笑っている。
悠太はその様子を見ながら、静かに思った。
「消えてなんかいなかったんだな。ピコ太郎は、ここにいるじゃないか」
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サキは、自分の作品のハリウッド戦略の手がかりになると思った。