「港が見える丘」を短編に
港が見える丘
丘の上に立つと、港が一望できた。春の陽に霞む海、その彼方へと小さな船影が漂っている。
あの日、彼氏と来た丘だった。
新卒でこの街に引っ越してきたばかりの私にとって、彼は最初に心を許せた存在だった。明るくて、でもどこか静かな眼をした人。港の近くで働いていた彼は、週末になるとよくこの丘に連れてきてくれた。
「港がよく見えるだろ? 桜が咲くときは、特別なんだ」
その日、彼の隣に立って見上げた桜は、色褪せながらもひっそりと咲いていた。枝ぶりは貧相で、人に愛でられることも少ないだろうに、それでも懸命に春を伝えていた。
「誰にも見向きされない木だけど、俺は好きなんだ。……お前も、こんなふうにひとりで頑張ってるよな」
言葉にできなかった。春風に舞う花びらが、ふと肩に落ちた。港に汽笛が鳴り、ふたりの時間をゆるやかに染めていた。
──別れは、夜だった。
彼は、遠くの街へ転勤になった。ついて来てほしいと言われなかったし、私も、そういう言葉を待つ勇気がなかった。
その夜、丘に登った。港は暗く、唯一の青白い灯が、まだ咲き残る桜を照らしていた。
「さよならじゃなくて、ありがとうって言おうか」
彼はそう言った。船の汽笛が遠ざかる。霧が立ち込める中、花びらが涙の雫と一緒に頬をすべっていった。
──そして、今。
季節はまた春。私は一人、この丘に立っている。葉桜の下、潮風に吹かれながら。
汽笛が、どこか遠くで鳴った。その音を聞いていると、夢のような記憶が浮かぶ。
彼の口許、あのときの笑顔。
夢だったのかもしれない。でも、今でも私の中には、彼と過ごしたあの午後の光が、生きている。
港の景色は変わっても、この丘だけは変わらない。
風が吹く。
彼の声が、風の中にまじって聞こえたような気がした。
あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜唯一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛咽び泣けば
チラリホラリと花片
あなたと私に降りかかる
春の午後でした