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二日遅れの春 文集「小説家気分」校正


『二日遅れの春』

 部屋の時計は、止まっていた。

 秒針は、母が息を引き取ったであろう時間を指したまま、音を立てるのをやめていた。静かな、あまりに静かな団地の一室。カーテンの隙間から漏れる春の光が、畳に淡く広がっている。

「……お母さん」

 由美子は、畳に手をついたまま、声にならない声でそうつぶやいた。母の節子は、ベッドの上で静かに横たわっていた。まるで、昼寝の途中で夢を見ているようだった。表情には苦しみの影はなく、枕元には読みかけの文庫本が伏せて置かれていた。

 ひとりで暮らしていた母に異変がないか、週に一度は電話をかけていた。先週の金曜日も、声は明るく、変わりはないと言っていた。

「桜が咲きはじめたよ、こっちは」

「あら、こっちもよ。団地の前の公園、ねえ、あの大きな桜、覚えてる? 今年も咲いたのよ。きれいよ」

 いつもの母だった。少しおしゃべりで、でも、遠慮がちに話を切り上げる人。

「じゃあ、またね。あなたも無理しないで」

 最後の言葉は、もう一度録音しておけばよかったと思う。母は、誰にも迷惑をかけたくない人だった。

 月曜日に、団地の管理人から電話が来た。ポストに新聞がたまっていると近所の人が言った、と。

 最初にドアを開けたときの匂い。甘くもなく、腐臭でもなく、ただ、空気が止まっている感じ。あの静けさを、たぶん一生忘れることはできない。

「でも、違うの……お母さんは、“孤独”じゃなかったのよね?」

 口に出して言ってみる。誰に聞かせるでもなく、確かめるように。

 母は、自分のことは自分でやる人だった。買い物も料理も、通院も、全部ひとりでこなしていた。少し古びた団地の一室で、毎日をていねいに生きていた。湯呑みはいつも綺麗に洗ってあって、冷蔵庫の中には煮物がタッパーに詰められていた。朝は新聞を読み、午後はラジオを聞きながら裁縫をしていた。

 それで、いいと思っていたのだ。母の価値観を、尊重することが娘としてのつとめだと、思っていた。

 でも――

 亡くなって、二日間、誰にも気づかれなかった。それが、どうしても胸に引っかかる。誰もいない部屋で、ひとり、あの人はどんな風に、時間を終えたのだろう。

「お母さん……私、間に合わなかったね」

 その時、ベッドの脇に置かれた日記が目に入った。白い表紙の、小さなノート。開くと、春の陽ざしのような文字が並んでいた。

「四月三日 午前 いい天気。洗濯をして、昼はうどん。午後は読書。穏やかな一日。今日も、感謝」

 たぶん、これが最後の一日だった。

 涙がこぼれた。あたたかく、止まらなかった。

 母は、孤独ではなかった。きっとそうだ。でも、その“きっと”が、私を苦しめる。

 それでも、母の部屋に残されたやさしい時間に、少しだけ救われた気がした。

 由美子は静かに立ち上がった。窓を開けると、団地の向こうに桜が揺れていた。

 その花びらが、部屋の中へ、ひらりと一枚、舞い込んだ。

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