Uターンの悲劇
Uターンの悲劇
A子さんが地元に戻ってきたのは、東京を離れて十数年ぶりのことだった。
移住といっても、子どもの頃から育った町だ。空の広さも、山の匂いも、川のせせらぎもよく覚えている。きっと、すぐに馴染める――そう思っていた。
しかし、暮らし始めてみると、町にはどこかよそよそしい距離感が漂っていた。三十年の間に世代交代は進み、かつての同級生たちはすでに町を離れるか、家庭を持って暮らしていた。当時のA子さんを知る人は、もうわずかだった。
朝の挨拶にも返事はなく、目が合っても会話は続かない。お年寄りたちの目は、どこか観察するように冷ややかだった。自治会に入れば、「あの年でひとり者らしいよ」「東京帰りは気取ってる」といった陰口が聞こえてくる。地域行事や寄付金の話になると、「都会の人はお金持ちでしょ」と遠回しに財布をあてにされる。
──ここは本当に、私のふるさとだったのだろうか?
旧友に相談すると、「みんな悪い人じゃないんだけどね」と苦笑され、「東京から来た人には警戒心があるのかも」「そのうち慣れるよ」と慰められた。しかし、最初から壁を作られていては、こちらの心も開けない。
町役場でUターン移住の相談をしたときは、温かい歓迎を受けた。それがすべてだと信じていたが、それはあくまで制度の中の話だった。地域の人々にとってA子さんは、「知らない誰か」だったのだ。
さらに現実は、思い出よりもずっと不便だった。山間の町は雨が多く、湿気が抜けず、洗濯物は乾かない。閉店の早い商店街、スローすぎる役場対応、朝晩のバスはわずか数本。店が少ないだけに、買い物内容さえも近所の話題になっている気がした。
役場に紹介された事務職も、朝から晩まで仕事がなかった。「これで経営が成り立つの?」と不安になるほど。東京では忙しさに疲れていたが、やることのない日々に感じる疎外感は、それ以上に重くのしかかった。
購入した中古住宅は、数百万円と破格だったが、傷みが早く、メンテナンス費も嵩んだ。軽自動車も維持できず手放し、張り切って揃えた大型家具は、運搬費を考えて多くを処分するしかなかった。
夢だった畑づくりも、始める前から気力を失った。
半年が過ぎたころ、A子さんは東京へ戻る決意を固めた。
誰にも相談せず、静かに、そっと。
「ただ資産と仕事を失うだけになってしまいました」と彼女は語る。「綺麗だった思い出まで失った気分です。生まれ育った場所でも、離れてしまえば『見知らぬ土地』なんですね」
それでも、A子さんは最後にこう付け加えた。
「でも、私はひとりだから戻る決断ができました。もう一度、東京でやり直したいと思っています」
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都会に疲れた人が「ふるさと」に救いを求める気持ちは自然なことだ。しかし、戻る先が必ずしも「過去の延長線上」ではないことを、A子さんの短い帰郷は教えてくれる。
“元地元”でさえ、人は簡単によそ者になってしまう。
移住を考えるなら、思い出ではなく、いまそこにある現実を見なければならない。美化された過去は、住まいにはならないのだ。
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