老後を襲う一戸建ての恐怖
隆一(仮名・59歳)は、40年近く勤めた会社を、来年60歳で定年退職する。
退職金は約3,500万円。年金は65歳から夫婦合わせて月30万円以上。
「少し贅沢しても大丈夫だろう」
そう考えていた。だが、その夜――妻・真理子の言葉に、声が出なくなった。
「退職後に残るのは、せいぜい850万円くらいね」
「……え?」
飲みかけのウイスキーが、ひどく苦く感じられた。
「3,500万円も退職金が出るはずなんだが、それが……どこに?」
真理子は、家計簿の入ったノートを開いた。
「これ、見て」
そこには、冷静すぎる数字の列が並んでいた。
まず、自宅の大規模修繕。築40年の一戸建ては、外壁・屋根・水回りの老朽化が進んでいた。見積もりでは、総額1,500万円。
「うちの家、こだわって建てたから、修繕も高いのよ」
真理子は苦笑まじりに言った。
さらに、断熱・耐震・バリアフリーの工事も加わる。老後をここで過ごすには、避けて通れない出費だった。仮住まいの費用も含め、工事中は生活費も二重にかかる。
「いっそ建て替えるか、70代で施設に入るか……って話もあるけど、結局お金はかかるのよ」
隆一は、言葉を失った。これまで、家計のことは真理子に任せきりだった。
「こんなにかかるとは思わなかったよ……」
それだけではない。最近始まった父親の介護。要介護認定を受け、施設に入所した父には月20万円以上の費用がかかっていた。兄と分担したが、隆一の負担は毎月8万円。
「2年半で200万円以上飛んだのよ。あなた、覚えてる?」
もちろん覚えていた。でも、退職金で何とかなるだろうと、どこかで思っていたのだ。
「老後はさ、海外旅行でも行こうかって……言ってたよね?」
ようやく出た言葉に、真理子は少しだけ微笑んだ。
「一度くらいなら行けるかも。でも、毎年は無理よ」
「うん……そうだな」
その夜、隆一はひとり、寝室の天井を見つめていた。
3,500万円。それは“余裕”を与える額ではなく、“現実”と向き合うための最低限だったのかもしれない。
〈年金暮らしで暮らせる〉――そんな幻想は、ただの数字の皮をかぶった夢だった。
翌朝、コーヒーを淹れながら、隆一は言った。
「仕事、もう少しだけ続けようかな」
「非常勤か何か?」
「そう。週に2、3日でもいいって言われてて……今ならまだ声がかかる」
真理子は、少し驚いたような顔をして、やがて静かにうなずいた。
「あなたがそうしたいなら、私は応援するわ」
老後は、まだ始まっていなかった。
けれど、これから始まる“現実の生活”に向けて、ふたりは少しだけ肩を寄せた。