老後は豪華客船で暮らすわ、15年
潮風の居場所
シャロンはデッキに立ち、南氷洋の風に頬をなでられていた。
船はまだウシュアイアの港に停泊していたが、日差しは春の兆しを帯びていた。シャロンのグレーの髪がゆるやかに風に流れる。手すりを握る指先には年輪が刻まれていたが、その目は、まるで十七歳の頃のように、未来を見つめていた。
シャロンは77歳だった。だが、人生が始まり直すのに遅すぎるということはなかった。
2年前、彼女は海を夢見てカリフォルニアのアパートを引き払い、大半の持ち物を処分した。居住型クルーズ「ライフ・アット・シー」にすべてを託したのだ。けれど、その船は幻だった。運営会社は船を手配できず、計画は水泡に帰した。シャロンの周囲の人々は呆れ、ある者は哀れんだ。「もう落ち着いて暮らしなさいよ」「夢なんて、歳を取ればただの妄想だ」と。
けれどシャロンは、ただの年老いた夢追い人ではなかった。
そしてついに、昨年の秋、彼女の目に飛び込んできたニュース。
「ビラ・ビ・オデッセイ、出航――15年航海の夢、現実に」
その日、シャロンは電話をかけ、その夜に送金を済ませた。もう一度だけ、自分の人生を自分の足で選び取るために。
今、彼女はその船に乗っていた。
「フォークランドには行けなかったけれど、グリーンランドで見たオーロラは、それを超えていたのよ」
夕食のテーブルで、シャロンはワインを片手に話していた。隣に座るのは、かつてホワイトハウスの首席補佐官だったという初老の男。向かいには、南アフリカの元国連医療調査官がいる。毎週のように「スピーカーズ・コーナー」で語られる経験の深さには、いつも驚かされる。
だが、それらの肩書にシャロンはひるまなかった。
彼女には、人生を諦めなかったという履歴がある。
「今日、南極に向けて出航するって」
食後、甲板に出たとき、若いクルーがそう言った。
シャロンは小さく頷くと、ウールのマフラーを巻き直した。
「この風、好きだわ」
少し冷たく、塩気を含み、遠い世界の匂いがする。
彼女はキャビンに戻ると、窓際の椅子に腰を下ろし、分厚いノートを開いた。そこには旅の記録が綴られている。断られた寄港地も、足を踏み入れた街も、名前のわからない猫と過ごした昼下がりも。
1ページ目にはこう書かれていた。
「私はどこにも属していない。でも、どこにでも行ける。」
彼女にとって、海の上は自由の領域だった。年齢も、過去も、思い込みも、ここでは風に流れて消えていく。
夜、船はついにウシュアイアの港を離れた。氷の匂いを乗せて、遠く南極の方角へ。シャロンはデッキで空を見上げ、星座をたどった。
船が波を越えるたび、胸の奥にあった長い不安が、少しずつ溶けていく。
シャロンは知っていた。人生に必要なのは「場所」ではなく、「選び取る意志」だということを。
彼女は夢を見ていたのではない。
今、夢の中で暮らしているのだった。