ウツ親父の背中
ウツ親父の背中
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8ヶ月ぶりに降り立った故郷の駅で、雄介は父・健一の姿を見つけて、歩みを一瞬止めた。
「おお、来たか」
小さく手を挙げて微笑んだその顔には、かつての張りがなかった。言葉には力がなく、姿勢も、声も、全体に影が差しているようだった。
母が急に倒れて逝ってから、父は電話でもどこか上の空だった。「ちゃんと食べてるのか?」と聞いても、「年金はもらってるからな」と、話が噛み合わない。
経済的に困っていないことはわかっている。ただ、目の前の父の姿には、どうしても言いようのない不安が残った。
家に着くと、その不安は現実のものになった。庭は雑草に覆われ、玄関の新聞受けには数日分の朝刊が詰まっている。玄関を開ければ、かつていつも磨かれていた床にうっすらとほこり。窓ガラスには雨の跡が乾いて白くなっていた。
「掃除、大変だろう。俺がやるよ」
「いい、そのうちやる……」
力ない返事とともに、健一はソファに沈んだまま、テレビを眺めていた。
夕食に、雄介は肉じゃがを作った。母の味を思い出しながら、だしをとり、甘すぎないように味を整えた。
「たまにはこういうのもいいだろ?」
できるだけ明るく言いながら食卓に並べる。だが、健一は箸をつけたあと、少しだけじゃがいもをつついて箸を置いた。
「口に合わなかった?」
「いや……そういうわけじゃない。ただ、食欲がなくてな」
健一はそれだけ言うと、食卓を離れた。背中が、少し揺れて見えた。
深夜。階下から、ぼんやりと光が漏れていた。音に目を覚ました雄介がそっと階段を降りると、仏壇の前に父が座っていた。
痩せた背中が小刻みに震えている。
「すまない……すまない……」
しぼり出すような声。
母に向かって謝っているのだ。きっと、生前言えなかったことを、言いたかった言葉を。
息子として、どう声をかければいいのか分からなかった。立ち尽くしていると、父がようやくこちらに気づき、かすれた声で言った。
「……もう、俺に構うな。1人にしてくれ」
その言葉に、雄介は何も返せなかった。台所の流しに、肉じゃがの鍋が冷めていた。
それからは、ほとんど会話もないまま日が過ぎ、雄介の帰京前夜になった。リビングで、何気なくテレビの音を聞いていたとき、不意に父が口を開いた。
「……結婚してから、ずっと、面倒なことは母さんに押しつけてきた。あいつ、何も言わなかったけどな。全部やってくれてた。家のことも、人付き合いも。俺は、仕事だけしてりゃよかった」
健一の目は、画面ではなくどこか遠くを見ていた。
「これからは母さんに好きなことをやらせよう、旅行でも行こうって、そう思ってた。……でも、急に逝ってしまうからさ。あいつ……心残りで、天国なんて行けないと思うんだ」
深い後悔が、そこにあった。
地域ボランティアに精を出していた父は、今では近所との交流も絶ち、一週間誰とも話さずに過ごすこともあるという。
その晩、雄介は再び肉じゃがを作った。鍋を火にかけながら、静かに言った。
「俺、小さい頃さ。お母さんより、親父の作る肉じゃがの方が好きだったよ。覚えてる? たぶんあれ、インスタントの出汁だったけどさ」
健一は黙っていた。やがて、ふっと小さく笑って、言った。
「出汁、なかったんだよ。あの日。冷蔵庫にあった醤油と酒で、てきとうにやっただけだ」
「でも、うまかったよ。今日のより、ずっと」
鍋の湯気の向こうで、久しぶりに見る、父の表情が少しだけ和らいでいた。