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坂本九 その2 サンズリバーサイド外伝


――坂本九と、ある男の話――


 昭和六十年、八月十二日。渋谷・NHK放送センターの控え室で、坂本九はうっすら汗をにじませた額をタオルでぬぐっていた。

 FM特番『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録を終えたばかりで、スタジオにはまだスタッフたちのざわめきが残っていた。


「大阪に行ってくるよ。ちょっと、古い友人の祝い事でね」


 いつも通りの柔らかい笑顔を浮かべながら、そう言った坂本の声には、どこか深い誠実さがあった。行き先は、大阪。かつてのマネージャー、菅原浩が選挙に立候補し、その事務所開きが行われるというのだ。


 菅原は、芸能界で坂本とともに過ごした年月の後、政治の世界へと歩み出した男だった。世渡りは決して上手とは言えず、どこか不器用で、理想ばかりが先に立つようなところがあったが、それでも坂本にとっては、信頼に足る“仲間”だった。

 政治のことなど詳しくはない。それでも、彼の人生の転機に立ち会いたい。そう思うのは、自然な気持ちだった。


 この旅が、生涯最後のものになるとは――本人も、誰一人として、想像すらしていなかった。


    *


 その日の夕刻、羽田空港を飛び立った日本航空123便は、群馬県・御巣鷹の尾根に墜落した。乗員乗客524名のうち、520名が命を落とすという、未曾有の航空事故である。


 救出活動が続くなかで、坂本九の名が乗客名簿にあることが報じられると、国中に衝撃が走った。あの「上を向いて歩こう」を歌った、希望の象徴のような男が――事故で亡くなったのか。

 まさに、その知らせを聞いたとき、日本中の人々が思わずうつむいた。


 なぜ、彼はそこに乗っていたのか――。

 答えは一つ。友情である。


 旧友・菅原浩の事務所開きに出るためだけに、大阪へ向かった。芸能の仕事ではない。報酬があるわけでもない。ただ、仲間の新しい一歩に、手を添えたかった。それだけのために、彼は空を飛んだ。


    *


 一方の菅原浩は、その後の選挙で落選した。

 世間の注目は集まった。マスコミは「坂本九の遺志」とまで見出しを掲げた。だが、有権者の心は動かなかった。むしろ、「坂本の死を利用するような真似は許されない」という冷ややかな声も上がった。


「悪運の男が、あの坂本九の死を背負って当選なんか、できるわけがない」


 それは厳しい評価ではあったが、ある意味で、正直な世論だったのかもしれない。政治は美談だけで動かない。人間の中身が問われる場所だ。


 その後、菅原浩は政界入りを断念し、ひっそりと表舞台から姿を消した。再び芸能の世界に戻ることもなく、その名が大きく取り上げられることもなかった。

 人々の記憶に、彼は「坂本九が最後に向かおうとした男」として、静かに留まるだけとなった。


    *


 坂本九――

 国境を越え、時代を越えて愛された歌声は、今なお多くの人々の胸に生き続けている。


 彼が人生の最後に選んだのは、ステージでもなく、テレビでもなかった。たった一人の旧友のために、静かに歩いた旅路だった。その道は、たとえ空の彼方で絶たれたとしても、確かに“人間として正しい道”だったのだ。


 彼の名は、歌とともに。

 そして、その背中に秘めた優しさと忠義の記憶とともに、永遠に刻まれている。



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