坂本九 その1 サンズリバーサイド外伝
午後の光が薄く射し込む喫茶室で、サキはコーヒーを一口含んだあと、ぽつりと口を開いた。
「ケイコ。知ってる? 坂本九って御巣鷹山で亡くなったでしょう。だけど、彼は奇跡の人でもあったのよ」
助手のケイコは、手帳を閉じて顔を上げた。サキの言葉に、何かが始まる予感を感じたのか、黙ってうなずいた。
「彼の『上を向いて歩こう』はね、アメリカで大ヒットしたの。知ってる人は意外と少ないけど、あの曲は当時、ビルボードのチャートで一位になったのよ。英語の歌詞じゃなかったのに、よ?」
ケイコは驚いたように眉を上げた。「えっ、日本語のままで?」
「そう。あちらでは『SUKIYAKI』ってタイトルでね。意味は全然違うけど、語感が面白かったのかもしれないわね。でもね――」
サキは少し笑って、カップを置いた。
「面白い話があるの。あの曲のメロディ、実はベートーヴェンの『田園』が元だって言われているの。まるで日本の旋律とクラシックが融合したみたいでしょ。しかもね、アメリカでは坂本九のこと、最初は“女性歌手”だと思ってたのよ」
ケイコは吹き出した。「それ、本当ですか?」
「本当よ。当時のレコードの声だけを聴いて、“クールなアジア系女性シンガーが現れた!”って話題になったの。写真が出るまで誰も気づかなかったのよ」
サキは懐かしそうに遠くを見た。まるで、坂本九がまだどこかで歌い続けているような、そんな気配が漂っていた。
「彼はね、空の事故で命を落としたけど、その歌は今も生きてる。上を向いて歩こう、って――ね。私たちにも、そう言ってくれてる気がするの」
ケイコは頷いた。その言葉が、胸の奥に静かに降り積もっていくのを感じながら。