志水とし子 上京
東京に着いたのは、七月のはじめだった。
列車を乗り継ぎ、夜行の貨物に揺られ、ロマンス座の巡業一座はようやく都へ戻った。暑さと埃にまみれた移動だったが、志水とし子は疲れも忘れて、窓から見える東京の町を食い入るように見つめていた。
だが、夢のように思えた東京の暮らしは、冷たく、険しい現実の連続だった。
一座の住み込み宿は浅草六区の裏通り、木造二階建ての古い下宿屋。台所の隅に畳を敷いて寝る生活が始まった。掃除、洗濯、買い出し、時に台本の筆写。芝居など夢のまた夢。舞台に立つ話など、一言も出なかった。
「志水さん、あんた、何しに東京来たの?」
ある夜、同じ下宿にいる踊り子に笑われた。
「……芝居がしたいんです」
とし子は小さく答えた。
「芝居? 芝居なんて、できる子はもう舞台に出てる。あんたは、飯炊き女の役よ」
悔しかった。でも、反論はできなかった。
それでも彼女は、朝いちばんに起きて座員たちの着物を干し、道具の手入れをした。誰よりも早く稽古場に現れ、使われない時間に台詞を声に出して覚えた。
夜になると、浅草の映画館の裏にある屋台で、食べ残しの焼きそばを買い、宿に戻る道すがら、誰にも聞こえぬように独り芝居を繰り返した。
ある日、稽古場の隅で、使い古された台本を握りしめて立っていると、長谷川一夫が静かに現れた。
「その本、誰に教わった?」
「……誰にも。自分で、まねして覚えました」
彼は短く頷き、扉の外に消えた。何も言わず、ただ一度だけ、とし子の芝居を見ただけだった。
だがその一週間後、とし子に一座の端役が与えられた。
名前のない役。花道の端に立ち、無言で酒を注ぐだけの娘役。
けれどそれは、彼女にとって、生まれて初めて「客席の視線を浴びる」という意味を持っていた。
舞台の光は、予想以上に熱かった。緊張で指が震えた。小さな役でも、失敗すれば芝居全体を壊す。初舞台を終えた夜、彼女は枕を濡らしながら、何度も繰り返した。
「逃げなかった。わたし、逃げなかった」
芝居が好きだった。
誰かの言葉を生き直すこと、自分ではない人生を歩くこと、それが彼女の望んだ世界だった。
そして東京は、夢を試すには残酷すぎる街だった。
だが、その残酷さに耐えた者だけが、舞台に立つことを許される。
志水とし子は、そう信じていた。